2011年8月アーカイブ

大丈夫(大旦那)

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 最近になって私の対中国観はすいぶん変ってきた。中国に何か起こっても、数千年前から相変わらずで、こんなもんだと目線を変えたら、腹もたたなくなり批判もしなくなった。私もすいぶんと大人しくなったものです。変革など期待せずにあるがまま、民度の敷居を低くしてしまった。
 先週、あるお店で自社の商品が半値以下で販売されていた。買って調べると、光栄にも100%パクリ(フエイク)商品。よくここまでと、お見事!腹の立つ気も起きない。自社の仕入れ値より安いので、今度はこのパクリ工場から購入しようかと思っている。
 最近また100元(約1200円)の偽札が、市中に出回っているようです。今回の偽札はATMもすり抜けるようで、人民銀行が注意を呼びかけています。いくら注意しても相手も巧妙、こちらが100元札を渡すと、瞬時に偽札とすり替えて「あんたのこれ偽札だから使えない」と偽札を返されて、さらにもう1枚となる。まるで手品のようだ。それに銀行のATMからお札が出てくれば、これはもう不可抗力で泣き寝り(ほんとATaMaに来る)。
 私も一度だけ50元の偽札を掴まされことがあり、翌日そうとは知らずに使ったら、「これ偽札だめ!」と言われて、初めて気がついた経験がある。タクシーに乗る時は小銭を使い、できるだけおつりのないようにしているのだが、たまたま小銭がなくて100元札を使い、薄暗い中でおつりを70元もらったら、その内の50元が偽札だった。彼らに言わせると、不注意にもらった方が悪いのである。ちょっとしたババ抜きゲームだ。まぁ、いい記念のお土産として持ち帰り机の中にしまってある。そして、時折ババをながめては自分のアホに苦笑いしている。
 しかし、お店でお札を使うと店員がすぐさまその紙幣を両手に持って高くかかげてスカして見る。自国のお札にこのしぐさという文化はさびしものだ。私はこの国をスカしてみたくなってしまう(
アメリカも100ドル札を使うとチェックするが)。
 中国民族はこうして数千年来、生き残ってきたわけで、こんなもんだと思えば、どうってことない。おかげ様で私も何があっても大丈夫(中国語では大旦那)になりました。

近代の超克

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 私の本来の研究テーマは「近代の超克」だった。
 右脳肥大(というか左脳未熟)の18歳の田舎青年が上京し、都会の波に適合できずに、「なんだ、これが近代化というものか、ならばオイラは反近代で行くべエ」と、それ以来、反近代思想で突っ張たまま、どうにか今日まで活きています。
 けして研究テーマを忘れたわけでないのですが、少々重荷になり、しばらく静かに眠らせておいたら、いつのまにか埃をかぶって錆び付いていたようです。

 最近の脳科学の見解では、単純に右脳vs左脳に分けられず、一対になって恊働いているとのことですが、私の脳はやはり右に偏っていると思う。ブータンの衝撃に惰眠していた右脳が呼び醒まされて再び活動を始めたようです。ここ数日、右脳が疲労してなんだか重く感じています。右手で頭を支えて考え込んでいる姿は、一寸とした夏目漱石の写真のよう。漱石も右脳人だったのだろうか。漱石は日本の上面だけの近代化を憂いて欝病になっています(私は逆で躁になるところが天才との別れめ)。
 宇宙も人類の歴史も、過去から現在へ、そして未来へと一直線上に流れているという進歩史観は、私にもよくわかります。と同時に、春が来て夏になり、秋から冬に、そしてまた春にと、季節は廻り、花や木はそれに合わせて、花を咲かせ、青葉から紅葉、そして落ち葉へと循環します。人も幼児から少年、青年、壮年、熟年、老年へ生と滅を繰り返しています。夜空の星も超新星として生まれ代わっています。歴史は廻りながら流れています。
この円環史観もよくわかります。
 「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず、よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。」
 こちらの輪廻史観のほうが右脳にぴたりきます。
 もし、人類がこのまま進歩の旗を掲げて、近代思想の延長線上を突っ走れば、やがて行き詰まります。いやすでに行き詰まっています。それにもかかわらずこのまま突き進めば、今世紀に人類文明は崩壊してしまうと思う。
 こうした文明の危機から人類を救うには、進歩史観に輪廻史観を取り入れて、欲望に知足のブレーキをかけ、進歩と調和をめざす大和史観が必要になります。
 ブータンから「国民幸福量」として調和を発信していますが、ブータンはヒマラヤの秘境にある小国のため影響力も限定されてしまいます。それにブータンは近代化の苦悩を経験していません。
 ここに銀河を行く宇宙戦艦ヤマトからの発信が待たれています。「進化と調和の大和」こそ、日本が世界に向かって日本を実践することになります。

四面楚歌(ブータン補記)

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DSCN2630.JPG (父なる川と母なる川の合流点に在る、プナカ・ゾン)

 ブータンを文明の潮流からみて行きます。
 ブータンはヒマラヤ南山麓の秘境にありチベット文化圏に属する人口65-70万人の小国です。小国で秘境であるが故に、1960年までは世界の流れから隔離され、仏教信仰になかで平穏な生活を享受してきました。
 この平穏な生活は、先ず北面から突き破られました。
 1959年、中国がチベットに侵入して動乱が起こりました。それ以後、中国がチベットを統治してし、宗教弾圧が続くことになります。ブータンはこれまで文化的に最も繋がりの強かったチベットとの国境を封鎖しました。文明的に見ますと、チベット仏教と中国共産ニヒリズムの衝突となっています。今はチベットが要塞となって抵抗していますが、中国共産ニヒリズムがチベットを制圧したら、必ずやブータンへ南下してきます。ブータンの豊富な水源と高価な薬草資源を黙ってみていません。すでに中国人が越境して夏草冬虫の盗採が始まっています。
ブータンは北面からの危機対策として、チベットの国境を封鎖し西面のインドへ活路を開いています。
 西面に位置する人口大国のインドは、水の豊富なブータンから電力を供給を受けています。ブータン国はインドから60%の電力収入を得て、インド経済圏の影響下にあって良好な関係を維持しています。インドは宗教に対して寛容でありますが、ブータンの西に隣接していた兄弟小国シッキムが、ヒンズー教徒のネパール系民族の流入によりインドに併合されています。ネパール人の流入が続くブータンも、シッキム小国の滅亡と同じ脅威にならされています。文明的に捉えると、ヒンズー教によるチベット仏教への進行と捉えることができます。チベット仏教の正統を引き継ぐ最後の要塞は、ここでも試練となっています。

 さらに最大の脅威は、東面から近代文明の進入となります。近代化の波はついにヒマラヤの秘境にまで押し寄せています。近代文明は全世界をほぼ征服した強力な文明ですから、ブータンにとり最も抵抗し難いものです。
 1999年に世界で一番最後にテレビが入った国となり、インターネットも同年に導入されました。2003年には携帯電話が進入しています。こうした近代化の波が、これからブータン文化を大きく変えて行くかと思います。もし、その影響の行き着く先で、ブータン人がブータン人でなくなってしまったら意味がありません。たとえブータンが残存しても存在価値を喪失してしまいます。ここに仏教と近代化の調和の叡智が求められています。今までのところブータンは、「国民総幸福」を掲げてよく健闘しています。
 最後は南面からの地球温暖化の脅威です。
 
地球温暖化のために毎年0.1度ずつ気温が上昇しており、このままでは20数年後にはヒマラヤ氷河の融解が心配されています。もし、溶けた氷河があふれ出すようなことにでもなれば、ブータンは国土の70%が森林に覆われたヒマラヤ山麓に位置し、南北の標高差が7000メートルもありますので、怒濤の土石流が森林をなぎ倒し、国家壊滅の危険性が憂慮されています。ブータンの信仰は、山や森林そのものから生まれたものでありますから、氷河の融解による森林破壊はブータン人の魂の崩壊を意味します。ですから世界に向かって温暖化の警鐘を発信することは、ブータンの死活のことになっています。

 以上のようにブータン王国の四面楚歌の試練は、ブータンのもう一面の現実です。
 こうした中で、2006年12月に第五代国王が即位されました。若き新国王の肖像写真は、ブータンの僧院、公共施設、ホテル等に掛けられていてよく目にします。
今年の10月には皇后を迎え入れます。
 澄んだ瞳、誠実そうな好男子の肖像は、カリスマ性を感じさせ、よき指導者になられることと思います。しかし、その澄んだ瞳の奧に潜む一抹の憂いを感じるのは私だけでしょうか。
 ブータン王国の未来に、仏の慈悲とお加護がありますように。合掌 

ブータン補記1

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 今となっては無いものねだりになのですが、司馬遼太郎氏にブータン街道を歩いてもらいたかった。司馬さんは中国の西域まで行ってますが、ヒマラヤ山麓を歩かずに逝ってしまった。なんとしても惜しいことをしました。
 もし、司馬さんがブータン行かれたとしたら、通訳兼案内役として、今枝由郎氏にお願いしたかと思います。今枝氏の「ブータンに魅せられて」(岩波新書)は、司馬思考に近づいています。いや司馬さんはこの本を読んで、ブータン行きを決行したかも知れません。無いものねだりです。
 私のブログで「国民総幸福量」にこう書きました;
幸福量とは政治思想の方便であっても、仏教思想の方便ではないわけです。ここに仏教王国ブータンのジレンマと落とし穴があるかと思います。(中略) ブータンから学ぶ精神は、世俗で言い古された「幸福」などという薄っぺらな軽いものでなく、もっともっと奥深いものだと思います。本来のブータンは「ハピネス」という概念とは違った境地に在るのですが、世界に向けて 「ハピネス」という、借り物の概念をもってしか自国の精神を語れないところに、ブータンのジレンマがあります。これではブータンが可哀想になってきます。では、如何なる言葉でそれを表現したらよいのか、私はブータンの旅を続けながら、そして今も旅の余韻の中でその言葉を、ず〜とさがし続けているのですが、いまだに良い表現が見つからずにいます。』

 「幸福」に代わるよい表現をさがすために、ブータンのDVDを見たり、関連本を読みあさってみました。ブータンに10年間生活した今枝氏もやはり同じことを考えられていたようで、「ブータンの国語であるゾンカ語には、国民総幸福量(GHN)に相当する言葉はあるにはあるが、それはGNHの訳語であり、どこか仰々しくてぎこちないので、日常会話ではほとんど用いられていない」と、書いていました。第四代国王自身も「わたしが提唱したことになっているこの標語が、いろいろな方面から注目されているのは嬉しいが、独り歩きしている感じもする」「私の意図したことは、むしろ『充足』である。自分の人生に充足感(満たされる)を持つことである」、国民が「喜び、幸せ」であることが大切と、述べられています。

 私はやはりそうかと納得しました。
 ブータンの人は「輪廻転生」を素朴に信じ、「業」と「善因善果、悪因悪果」と「不殺生」のなかで、喜びと幸せに満たされて過ごしています。そこに「幸福」とい概念はありません。
 水の中の魚が水の存在を意識しないように、空気の中で人間が活きていても空気を意識しないように、仏教の幸福のなかで満たされているブータン人はそれを意識していません。真の幸福とはそんなものかと思います。
 であったら「国民総幸福量」を、政治用語として表現すれば、ブータン仏教ヒューマニズムを基盤にした「国民総充足量」になるかと思う。「国民総生産量」に比べると、政治的には無力なものですが、精神文化的には凛々とした問いかけになっています。
 しかし、この桃源郷からの問いかけにも、四面楚歌の荒波が押し寄せています。すべては廻り悠久に安泰などありません。 (続)
IMG_0348.JPG

五木の子守唄

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 日本は今日からお盆になります。朝シャンしていて自然に「五木の子守唄」を口ずさんでしまう。
 お盆の帰省ラッシュは国内だけでなく、国際便のフライトも帰省ラッシュとなり、飛行機代も高騰しますので、この時期は帰国しないで、いつも「五木の子守唄」を唄ってすませています。

 毎年、仏壇に花とほおずき(鬼灯)を飾り、亡き母から教えられた、キュウリの馬とナスの牛を作ってご先祖様を、お盆迎えしています。
 キュウリで飛行機を作ろうかと考えた時もありましたが、御霊は瞬時にどこにでも移動できるドラエモンの「どこでもドアー」のようなものかと思い、まだ作らずにいます。

 いつもですと手頃なサイズのキュウリとナスになるのですが、今年の超特大を買いました。ナスは大きなイタリアン・ナスです。
 キュウリ馬は、例年にもまして風格を保っていますが、ナス牛がいただけません。あまりに大き過ぎて超デブの牛になってしまい、一目みて笑い出してしまうほど不格好なナス牛です。
 でも、なぜ今年は超ジャンボの馬と牛にしたかったかと申しますと、東日本大震災でたくさんの人が亡くなり、新盆というのにいまだ帰る家のない御霊を、お迎えしたく思ったからです。このジャンボの馬と牛なら、たくさんの御霊を乗せることができると考えました。
 もしできることなら、京都がお断りしたという被災地の松で、迎え火と、送り火にしたかったのですが、これは叶いませんので、いつも通りローソクにしました。
 今年のお盆はたくさんの御霊をお迎えして、そしてまた、静かにお送りしたく思っています。       

緊張蚊取り線香

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 ブータンから帰って3週間になる。
 戻ってからの2週間というもの、毎日ブータンで買った仏教音楽をかけて旅の余韻を楽しんでいた。モーツアルトの曲を聴いても「なんて軽いのか」と、感じてしまった。それがこの数日の間に「やはりモーツアルトもいいもんだな」と、またすんなりと聴きはじめた。
心のダイエットがリバウドして、ブータンの不思議な空間がだんだんと遠ざかっているようです。
 野の花も切らず、蚊やハエも殺さない「不殺生」の世界から、また元の世界に戻ってきたようです。ブータンで左腕の2ヶ所を蚊に刺されて赤く膨れているのが気になりだし、なぜあの時に蚊を叩く気が起きなかったのかと、可笑しく思えてきた。今なら瞬時に叩いているだろう。相手が攻めて来たのに、こちら側は不殺生とはなんと理不尽なことか。これなら正当防衛もなりたたず、戦争もできなくなってしまう。
 コップのなかにハエが入り、「だいじょうぶか」と聞かれたのは、私の方でなくハエの方で、早くつまんで助けてやれということです。まさかここまで不殺生とは、、、たぶんこれは冗談かと思うのですが、冗談と思えないのがブータンです。

「不殺生」という戒律は昔から知識として知っていましたが、まさかここまでやるとは思わなかった。仏の教えがこれほど深くてすごい思想だったとは考えられませんでした。
 なにせ「草木国土皆成仏」の世界。宇宙万物はみな如来の現成と思い、草木の命も、蚊の命も、私の命も、仏からいただいた同じ命なのですから驚きです。私の命が花と蚊と同じなのですが、けして後進国にみられるような人命の軽さとは違い、すごく重量があります。蚊と同じ命と言われて、かえってそれが尊く思えてくるのですから不思議です。現世で私が私の命を尊ぶように、花々や、蚊さえも活きていることが尊く思えてしまうのだから、ブータンという国は実に不思議な空間です。
こういう仏教国がまだ在ることは、実に在り難いものです。
 私の一生のほんのわずかな一時でしたが、「不殺生」の雰囲気のなかで、心が純化して蚊も殺さず、命がこれほど尊いものと実感できたことは貴重な体験でした。

 旅の終りに必要なくなった携帯品を、カイドさんに差し上げてきたのですが、うかつにもその中に蚊取り線香を入れてきてしまった。今頃になって悪かったかなと少々気になっている。ガイドさんが間違って蚊を殺してしまうのではと緊張している。

追記:
 「緊張蚊取り線香」などと駄洒落てブログを書いたら、さっそくその晩に、いるはずのない蚊の逆襲にあってしまつた。額に一カ所と(これが痒くてたまらない)、右腕と手に刺されて眠れぬ夜となってしまった。幸い蚊は健在のようで、よかった(T_T)

続、親愛なる中国語

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 7月20日付けのブログ、「親愛なる中国語」で、中国語の簡体字について書いたが、8月2日付け産經新聞の「外信コラム」に、「上海余話、心のない愛なんて」と、同じことが書かれていた。しかも、私のよりも面白いので全文を紹介したい。中国語を習うとついつい漢字にこだわってしまう。
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上海余話 心のない「愛」なんて (産經新聞)
                     2011.8.2 03:43

 「『?』に『心』がなくとも愛は大切」。簡体字と呼ばれる画数を減らした中国の漢字を題材 とした公共広告だ。日本も戦後、教育普及の一環として当用漢字を定めたが、中国ではさらに簡素化の度合いを進めて、部首の大幅な省略や発音に合わせて別の 部首をあてるなど、日本人からみても不思議な漢字が多い。

 ?はその一例だが、伝統的な正体字(繁体字)を使う台湾や香港の人たちからみれば、「中国(本土)人の愛には心がこもっていない」ということになる。

 経済的にも人的にも交流が拡大する台湾や香港からのそんな声が、中国も気になっているのだろうか。

 公共広告に触発され、中国のネットにはこんな書き込みも相次いでいる。簡体字では「導」を「?」と書くが、「それは中国の指導者に老子の説いた『道』がどこにもないからだ」。

  最近は「?道」がやり玉に挙げられている。正体字は「鐵」だったが、「?道は分解すれば金(賠償金や巨額の建設コスト)も道も失った」という。温州で起き た高速鉄道の事故へのずさんな対応や、安全性を置き去りにした建設ありきの急ピッチな計画が大惨事を招いたことへの反発だ。

 漢字のもつ本来の意味から乖離した簡体字が示すところは意味深長だ。日本人にもちょっと耳が痛いが。(河崎真澄)

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