近代の超克

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 私の本来の研究テーマは「近代の超克」だった。
 右脳肥大(というか左脳未熟)の18歳の田舎青年が上京し、都会の波に適合できずに、「なんだ、これが近代化というものか、ならばオイラは反近代で行くべエ」と、それ以来、反近代思想で突っ張たまま、どうにか今日まで活きています。
 けして研究テーマを忘れたわけでないのですが、少々重荷になり、しばらく静かに眠らせておいたら、いつのまにか埃をかぶって錆び付いていたようです。

 最近の脳科学の見解では、単純に右脳vs左脳に分けられず、一対になって恊働いているとのことですが、私の脳はやはり右に偏っていると思う。ブータンの衝撃に惰眠していた右脳が呼び醒まされて再び活動を始めたようです。ここ数日、右脳が疲労してなんだか重く感じています。右手で頭を支えて考え込んでいる姿は、一寸とした夏目漱石の写真のよう。漱石も右脳人だったのだろうか。漱石は日本の上面だけの近代化を憂いて欝病になっています(私は逆で躁になるところが天才との別れめ)。
 宇宙も人類の歴史も、過去から現在へ、そして未来へと一直線上に流れているという進歩史観は、私にもよくわかります。と同時に、春が来て夏になり、秋から冬に、そしてまた春にと、季節は廻り、花や木はそれに合わせて、花を咲かせ、青葉から紅葉、そして落ち葉へと循環します。人も幼児から少年、青年、壮年、熟年、老年へ生と滅を繰り返しています。夜空の星も超新星として生まれ代わっています。歴史は廻りながら流れています。
この円環史観もよくわかります。
 「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず、よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。」
 こちらの輪廻史観のほうが右脳にぴたりきます。
 もし、人類がこのまま進歩の旗を掲げて、近代思想の延長線上を突っ走れば、やがて行き詰まります。いやすでに行き詰まっています。それにもかかわらずこのまま突き進めば、今世紀に人類文明は崩壊してしまうと思う。
 こうした文明の危機から人類を救うには、進歩史観に輪廻史観を取り入れて、欲望に知足のブレーキをかけ、進歩と調和をめざす大和史観が必要になります。
 ブータンから「国民幸福量」として調和を発信していますが、ブータンはヒマラヤの秘境にある小国のため影響力も限定されてしまいます。それにブータンは近代化の苦悩を経験していません。
 ここに銀河を行く宇宙戦艦ヤマトからの発信が待たれています。「進化と調和の大和」こそ、日本が世界に向かって日本を実践することになります。

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このページは、三休が2011年8月17日 03:25に書いた記事です。

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