茶漬けえんま

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 このところ何故か上方落語のカリスマであった桂枝雀の落語を聴いて抱腹絶倒している。
 昨晩も床のなかで夜中の1時半まで聴いてしまった。
昨晩は「茶漬えんま」のお題目で、閻魔さんがお茶ずけを食べる演し物。キリスト、釈迦、孔子、マホメッドもでてくる極楽バタバタ物語。
 閻魔さんに連れられて極楽へ物見遊山に行った粗忽者が、極楽に居る人の足を踏みつけてしまい謝っているところから珍問答が始まる;
 「極楽にはあなたも私もない。あなたとか私とか、個があるのは娑婆のこと。極楽では、あなたは私で、私はあなた。私があなたで、あなたが私」、「私は私で、あなたも私。あなたは私で、私はあなた。」「私も私、あなたもあなた。あなたもあなたで、私も私」。
 「あなたが私の足を踏んで謝っているが、そうではない。いわば、あなたがあなた自身の足を踏んだようなもの。私もあなたなのですから、言い替えると、 あなたは私、私はあなた。あなたは私で、私はあなたなのですから。私があなたの足を踏んだようなもの。」
 粗忽者は全くこれが理解できず????この珍問答が何度も繰り返される。
 極楽には「私、あなた」という個の緊張関係はないという笑いのなかに、桂枝雀が笑いのテーマとする「緊張と緩和」という深い洞察が潜んでいるようです。
 桂枝雀は、娑婆には個人という人間関係の緊張があって、怒るとか、悲しむには、自分と他人の境があるが、笑いはその垣根を超えて自他が一体になれる。笑うことがなぜいいかというと、笑いの世界は自他一如で「私はあなたで、あなたは私」という疑似体験ができるからという。笑っている調和の状態が、宇宙の本質に一番近づいているというのだから、なんとも深い。
 個々に緊張関係があるからこそ笑いがあり、緊張があるからこそ笑いに目を向けていかなければならないという。落語の笑いは個人を超えて自他一如を疑似体験させてくれるというわけです。ここまで極められると落語もそら恐ろしくなり、そうそう極楽トンボに笑ってもいられなくなってしまう。
 桂枝雀がこの境地に達していたとは恐れ入る。この天才落語家が欝になったのも宿命なのかも知れない。
笑いによる疑似体験を通して、宇宙の本質「私はあなた、あなたは私」という自他一如を残して逝かれたようです。こうして見ますと、3.11の大震災以後に「絆」という言葉が流行りましたが、これはまだ自他の緊張関係、「あなたと私」に響いてきて軽く感じてきてしまう。

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このページは、三休が2012年2月11日 01:18に書いた記事です。

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