果たし得てない約束(3)

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41W5CjhDtEL._SL500_AA300_.jpeg また三島なのかいなと思いながら「憂国」を再読しました。
 三島小説を読み返す気力はとうの昔に失せているのですが、三島自身が「もし忙しい人が、三島の小説の中から一遍だけ、三島のよいところと悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたいと求めたら、『憂国』の一遍を読んでもらえばよい」と、言っていましたから、まぁこれもお付き合いです。
 それに昔「憂国」の映画を、飯田橋駅近くの名画座で同学と見た想い出がありました。彼はかなり猛者な感じでしたが、上映中の切腹シーンのところで、両手を口に覆ってグワ〜と吐き出してしまい、そのまま退席でした。私はこの映画に三島氏に潜む醜やかなファナティックを覗いたようで、嫌な予感がしました。
 さて、それはさておき三島氏が言われた、「果たし得ていない約束」とは、占領下で制定された「日本国憲法の改正」と「集団的自衛権」に関わる安全保障の問題でした(三島のもう一つの顔は、平岡公威として学習院から東大法学部卒、高等文官試験に合格し大蔵省に所属した法に拘りを持つ経歴です)。
 国家憲法は自国の歴史と伝統文化を基盤にした基本法であるべきですが、現憲法は日本民族の精神や伝統文化をズタズタに切り裂いたものになっています。特に憲法の「前文」は、日本がどういう国であるべきなのか国家理念を謳うものですが、そうしたことに全く触れていません。
 それに、国家の主権についても「われらとわれらの子孫のために」としていますが、日本国民にとってこの国土における歴史は「われらとわれらの子孫」だけのものでありません。神話起源を含めれば少なくも、三千年の歴史が祖先代々から「われらとわれらの子孫」に受け継がれているわけです。
 「諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全を保持しよう」と、たとえ自由と民主主義と人権法が人類普遍の原理であったとしても、それが日本国民史とどう関わってくるのかという、われわれの切迫した問いかけに現憲法は曖昧なままで答えていません。
 なぜ「日本国民は、恒久の平和を念願する」のか、大東亜戦争に敗北したからなのか、それとも国民史の根深い要求によるものなのか、こうしたわれわれの切実な問いかけは、切れば赤い血が流れでるような日本国民史の命をかけた問いかけになっています。

 先ず、戦後レジームを超克する第一歩は、憲法「前文」の改正からとなります。「前文」にはかつて大和の理想であった「和を以て貴しとなす」を基調にし、「世界人類は地球上で大家族のごとく共存共栄できるように」とする、グローバル・デモクラシーの理念を掲げてゆくべきであります(三島氏と同齢の野島芳明遺作「日本文化の底力」を参照)。
 時代が天才・三島氏を後から追いかけたのか、やっと憲法改正と集団自衛権の行使の問題が、国会と国民の議題となって現実味を帯びてきました。戦時派がこれまで「果たし得ていない約束」を、
われわれ団塊の世代がライフワークとして果たして行く秋(時)となっています。
  秋を経て 蝶もなめるや 菊の露 (芭蕉)

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このページは、三休が2014年8月 5日 09:43に書いた記事です。

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