2011年6月アーカイブ

日本で一番長い日

 本サイトの第3部に掲載した終戦前夜「玉音放送録音盤秘話」の天風講話はこれまで会員の間だけの秘話として拝聴してきたテープを、公に書き起こしたものです。昭和も遠くなり歴史にも風化が始まりましたので、そういつまでも秘話として封印せず、史実として残して置くべきと考えました。
 ただこの講話だけですと事件の前後関係がわからず、なぜ天風が終戦前夜にたまたま宮城(皇居)に居合わせたのか、理解できないと思いますのでその背景を補記しました。
 天風は秘話のなかで終戦前夜にたまたま宮城に居合わせたと言ってますが、これは天風独持の粋からくる美意識でして、けしてたまたまそこに居合わせたわけでありません。終戦前夜8月14日から15日にかけて極限状態にあった宮城内に、たまたま居合わせたなどあり得ぬ話しです。そこには明らかに必然性があったはずです。
 芥川龍之介が言うように、「運命は偶然よりも必然的であり、運命はその人の性格の中にあります」。天風がこの歴史的な一夜に遭遇したのは、けしてたまたまではなく、そこには天風が心に秘めた熱い至誠といくつかの伏線がありました;
 大正10年の春、昭和天皇が19歳の若き皇太子であられた時、大正天皇の御名代として英国国王の戴冠式にご出席された後、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアに国際親善訪問をなさることが決定されました。第一次世界大戦後、日本が世界列強の一員となり国際連盟の常任理事国に選ばれて、皇太子が広く世界に眼を開かれることが望ましいとの判断からでした。
 しかし、その是非をめぐり外遊中に暗殺計画の噂が流れ、不慮の事故を考慮し、皇太子が病弱な大正天皇のお側を離れるのはいかがなものかと猛然と反対運動が巻き起こりました。
 勤皇家の頭山満、国家主義者の内田良平を始めとした玄洋社がこぞって反対し、天風にも血判状に名を連ねるように申し渡されました。しかし、天風は、「たとえ頭山先生のお言葉であっても、私は、おっしゃるような不祥事は絶対にあり得ないと信じます。したがって信念に反したことはできません」と、きっぱり断言しました。

 頭山翁の玄洋社といえば血気盛んな生死もいとわぬ結社でしたから、いかに天風が頭山翁から我が子のように愛されていたとはいえ、たった一人で血判状に異議をとなえることは、たいへん勇気のいる命がけのことでした。天風はもし皇太子の身に不祥事があったら富士山麓で腹を切る覚悟でいました。
 当然の処置として天風がわが家のようにしていた頭山邸に「以後、出入り差止め」となりました。天風は破門されても頭山翁への礼を失わず、頭山邸の門の前で毎朝挨拶を続けていました。
 果たして危惧された不祥事もなく、同年9月に皇太子は全日程を終えて無事ご帰朝となり国中が祝賀に沸き返りました。頭山翁をはじめ玄洋社の人たちも沿道に並んで殿下をお迎えしていました。天風はその集団から離れた所で羽織袴の正装で待機し、殿下のお車が近ずいてきた時、突然、厳重極めた警備官が止めるいとまもない早業で飛鳥のように列の前に飛び出し、土下座し平状のままお迎えしたといいます。
 さすがの頭山翁も天風に「こん度は、おぬしの言うのが、正しかった。おいの負けじゃ」と、破門を解かれたといいます。ここに己一人になっても天皇をお守りするという、尊皇の志士としての天風の覚悟がみられます。

 この事件は昭和天皇もよく覚えておられ、後に天風が御前講演を拝命される理由だったかと推察します。当時のことですから当然、御前講義の拝命には宮内卿が天風の出生を調べられているかと思います(これは余談になりますが、天風の直弟であり作家の松原一枝女史の力作「中村天風、活きて生きた男」の著書のなかで、天風の出生を福岡県のお墓まで追跡して、柳川藩十二代藩主、立花鑑寛大名の隠し子であった事実に肉迫しています)。
 かくして大正13年から皇太子(昭和天皇)と紀殿下(良子皇后)の御前で進講を申し上げることになりました。天風はその時のことを後に;
 「両陛下は本当に話し甲斐のあるお方で、素直なお心の持ち主。嘘とかその場しのぎの言いわけはまったく好まれないし、そんなことはすぐに気がつかれるよ」

 
「陛下は本当にお気の毒だ。あんなにきれいな心でまっすぐなお方が、よりによって武士道が地に落ちた時代に巡り合わされるなんて」と、惻隱の感想を述べています。 

 日本に敗戦の兆しが見え宮城にも空襲があるのではと囁かれはじめ、天皇陛下をお守りすることが主題となってきた時に、天風は、
 
「天皇の玉座を満州に移して戦い抜こうとする馬鹿は、どこのどいつだ」と、軍部を激しく糾弾し、
 
「この戦争を止めさせるお方は今や陛下だけ。陛下をお守りできる所は皇后警察。この皇后警察がどんなことにもめげない、明るい心持ちをもっていないと、陛下をお守りできない。陛下にも、どんなことがあっても、明るい気持ちでいていただけねばならぬ」と、昭和20年3月の東京大空襲の後、軍部により天風邸が取り壊されて茨城県利根町布川へ強制疎開されたからも、天風の直弟子であった皇宮警察部長の大谷喜一郎と図り、週に一度は皇宮警察官に講話するため宮城に入っていました。
 8月14日「日本で一番ながい日」も、軍部の風雲急な動きを察して宮城内に入り、あの歴史的な秘話となる事件に遭遇しました。その運命は偶然よりも必然的であり天風の性格の中に在るものでした。たとえ天風一人になっても、天皇を守り抜く覚悟です。

 こうした天風の覚悟に見られる民族の精神によって、日本文化の象徴とされる天皇が、皇紀2771年の今日まで代々継承されてきました。敗戦の世代が昭和天皇をお守りし、戦後世代が平成天皇をお守りし、そして団塊の世代が、平成の皇太子をお守りすることで、日本列島の地下に細く流れる水脈のように継承されてきています。「後ニ続ク者在ルヲ信ズル」です。
 それだからこそ本講話「玉音放送録音盤秘話」の結びで、「よしんば私が殺されても、あの事件が終えたことは大変なよろこびです。私は殺されもしないで、たった一人の私の処置でもって解決がつけられたことに、私の心の中で大きな誇り以上の感謝でもって考えている次第であります」と、歴史的運命の遭遇を感謝で結んでいました。