不孤

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 「不孤」(孤ならず)とは、自分はいつも宇宙霊につつまれて一体であるから、独りではないということです。弘法大師の「同行二人」と共通する思想で、天風先生がよく色紙に書かれました。この教えを生涯にわたり静かに貫かれたお方が、中村真瑳子先生でした。

 私は毎年12月に天風先生のお墓参りするよう心掛けています。平成20年にもお墓参りをし、そこで初めて真瑳子先生の塔婆を見て、当年4月にお亡くなりになられたことを知りました。知らなかった事とはいえ、ご無沙汰を内省した次第です。真瑳子先生もお亡くなりになり、これで天風先生のお側で生を共にした人が、みな居なくなってしまったかと感慨にふけりました。

 真瑳子先生は天風先生の養女でして、天風会の象徴的なお方で、昭和30年前後の天風青年の高嶺の花だったそうです。そのお姿は、「いつもきちんと和服を召されて、凛とした涼やかで、気品の溢れ、静かで、穏やかで、優しさと同時に芯の強さをお持ちの方で、法隆寺の国宝・百済観音を思い浮かべてしまう」と、池田忠一専務理事が述べています。私も同じ印象を受けていました。
 お若い頃は野崎郁子先生と組まれて、テレパシーの模範実習をなされていたようですが、天風先生ご帰霊後は、会の諸行事で表舞台に立つことなく裏方のお手伝いをしていました。私がお会いしましたのは真瑳子先生が68歳の頃でしたが、ずいぶんとお若く見えました。私にとりましては孤高のお方で、いつも講習会の受付附近でお手伝いしていた真瑳子先生に黙礼するだけで、お話しをする機会もありませんでした。
 天風先生の養女になられた経緯は、松原一枝著「活きて活きたき男」によると「真瑳子は女学生のころから病身で終始学校を休む。当時、おそれられていた肺病を心配した真瑳子の父菅野尚志は、大阪にいたので大阪で天風会があったとき、真瑳子を天風のところへ連れていった。天風は真瑳子をひとめ見て『病気は治る』といった。このあとで、菅野に『なんともいえない気品をもっているお嬢ちゃんだね』といったという。菅野は住友銀行から昭和銀行に移り重役となる。そのころは東京に住居があるので、真瑳子は自宅から天風の講演会に熱心に通っていたという。菅野と天風との話しがまとまり、天風はひとり娘の鶴子を安武家(二代目会長)に嫁にだしたあとの淋しさの穴を埋めるように、真瑳子を養女として貰った。菅野はかって、住友銀行久留米支店長をしていたことがある。天風夫人のヨシもまた久留米の人なので、天風は『縁があるな』といったという。」ことです。
 私の手元に資料がないのですが、昭和4年に「ひとり娘の鶴子を嫁にだしたあとの淋しさの穴を埋めるように」と、ありますから、養女としてのご縁は、天風先生54歳、真瑳子先生が16歳の頃だったかと思います。

 天風先生亡き後は、真瑳子先生は毎月の命日にお墓参りを欠かすことなく、いつお墓に行っても、花が絶えていたことはありませんでした。
 池袋のマンションに一人で住まわれ、90歳を迎えられる数年前から膝を悪くされていたようですが、寡黙に気丈に過ごされたと聞いています。「少し心臓が苦しいときなどは、もうそろそろでしょうかと、お父様に話しかけながら、居住まいを正してしばらく待つのよ」という心境だったようです。享年94歳でご帰霊なされました。
 私は一度だけ天風会員の先輩に連れられて、真瑳子先生のマンションへお訪ねしたことがあります。さして大きなお部屋でありませんでしたが、小窓から富士山が眺められるとのことでした。部屋に入りますとそこに天風先生が生前に使われていた大きなテーブルが置いてありました。卓上には横積みされた本や書類、筆入れにペン、色紙を書く硯と筆が、そのままにして置いてありました。そして、私が見たかった鏡が左上にありました。
 天風先生が逝かれてすでに20年の歳月が流れてますのに、卓上はちょっと座をはずして隣の部屋に行かれたかのように、時間が止まったままになっていました。私はこの静止したままの時に、真瑳子先生の花芯を観た思いでふるえました。

 私の訪問目的は二つ確認したいことがありました。一つは上記の写真にあります卓上の鏡の確認でした。やはりそこに鏡が置いてありました(迂闊にも写真を撮るのを失念しました)。天風先生こそが一番の天風哲理の実践者でした。
 もう一つは、天風先生が1947年(昭和22年)に、アメリカ占領軍のマイケル・バーガー中将の要請により、有楽町にあった元毎日新聞社地下ホールにて、GHQ幹部約250人を対象にして、英語で3日間の講演をしました。たまたまそこに来日中のロックフェラー三世が居合わせて傍聴しており大きな感動を受けたとのことです。その後、ロックフェラー三世から「惚れた女を口説く以上の熱心さで」、当時のお金で25億円という破格の待遇を用意するからと繰り返しアメリカへ招かれましたが、一度もこれに応ずることがありませんでした。
 私は真瑳子先生に、「もし、天風先生がロックフェラー財団の招きで渡米すれば、間違いなく『世界の天風』に成られたと思いますが、なぜ行かれなかったのですか」と、質問してみました。これほど大きな機会なのに、なぜ行かなかったのか、私の納得できない大きな疑問でした。
 真瑳子先生は天風先生の口調でこうお答えになりました。「私は若い頃からず〜と、日本を離れて海の外だった。海外はもういい、私は日本で、縁のある人たちに教えることでいい」と、言われたそうです。
 これは私の推察ですが、もし日本が太平洋戦争でアメリカに勝っていれば、渡米したかも知れません。敗戦により先ず日本人を救う事が、己の責務と考えられたのだと思います。まぁ、考えてみますと、これは私の愚問でした。あの占領時代の状況で、不公正な東京裁判を目の当たりにしたら、先ずは日本人の心を救いたいと思うのが天風先生でした。


 今年12月1日で、天風先生43回忌の命日になりました。私もお墓へお礼参りに行こうと思っています。護国寺の「中村家」のお墓には、生涯ひとり身を全うされた、野崎郁子先生、真瑳子先生も、みなご一緒に「先天一気即霊源、一切還元帰大霊」なされています。
 「今日も元気です!有り難うございます。」の報告方々、みなさまにお会いしてきたく思っています。         合掌



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このページは、三休が2011年12月 1日 00:05に書いた記事です。

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