安定打坐考抄


IMG_0442.jpeg 天風先生ご自身で書き下ろした著書はそれほど多くありません。代表作は天風哲理の真髄である「心身統一法」を解説した「真人生の探究」(1947年)と、それを補填する心のあり方を解説した「研心抄」(1948年)と、身体のあり方を細部にわたり教示された「錬身抄」(1949年)の三部作です。後は折にふれて「志るべ」誌等に書かれた随筆や箴言を編集した数冊となっています。
 さらに天風哲理に命を吹き込み、今もなお燦然と輝きを放っていますのは「天風瞑想録」を始め、各地で講演なされた「講義録」です。講義の原稿は緻密に念校されてますので、録音テープをそのまま書き起こして普及版の著書になっています。
 こうした諸著書の中で埋もれてしまったかのように「安定打坐考抄」(1953年)78ページ数の小冊子があります。当初は非売品として会員向けに出されたもので読者の対象が限られていました。またその後に購入した方の多くも、文体や語彙が古くかつ難解なために読み流してしまったかと推察しています。私も何度か挑戦しては、そのつど敬遠してきましたが、それでも何故か捨てて置けない気になる小冊子でした。

 捨てて置けない気になる思いは私だけでなかったようでして、先日、東京賛助会読書会・有志メンバーによって、作成、編集された力作、「安定打坐考抄」簡易訳(入門編)を拝読する機会がありました。
前書きに「天風会入会5年以内の人々でも理解し易いように、(原文)と1対1で対比させながら簡易訳したものである」とあり、誠によい作業をやってくださいました。待望の快挙でして、有志メンバーに敬意と期待をもって拝読しました。文章が読み易くなり難解な箇所や難しい語彙には、ページごとに解釈と注釈が付け加えられていて、熱のこもった労作でした。
 これでたいへん読み易く、理解し易くなりました。しかし、書かれている内容まで易しくなったわけでなく、相変わらず難解のままです。また、かりに本書を理解したといって、これで安定打坐ができたというものでありません。本書はあくまでも安定打坐を理論的に解説しものであり、安定打坐で得られる幽玄微妙の境地については、「到底話したり書いたりして説明できるものではなく、ただ修行によって三昧の境地を体験しなければ本当の味を味わうことが出来ない。この境地の説明をあえて行おうとすると、忽ち本質的なものではなくなってしまうので、体験体得して味わうしかない」と、読者を突き放しています。
 言葉による説述には限界があり、理解する理入とそれができる行入とは別次元のこというわけです。
せっかく簡易訳してもなお難解なら、安定打坐で三昧の境地を習得された読書会・有志グループの方に思いきり「跳躍」してもらい、いま流行の「超訳」をお願いしたのですが、それには更に研鑽が必要とのことでした。

 超訳と言えば、大井満先生の著書「心機を転ず」(春秋社刊)でも、「安定打坐考」の要約を試みています。安定打坐と坐禅を極めた大井先生による超訳です。ここで天風先生の言葉を引用して安定打坐の難解について、諸君は「はじめからもう、難しいものだと、思いこんでしまうんだな。だから難しくなる。いいですか。ここでよく考えなけきゃいけないのは、本当に難しいのと、難しいと思っているから難しくなる、のとでは違うのですよ。それは、もう天地ほど違いがある」と、安定打坐はけして難しいものでないとしています。ただ打坐法を知らないだけだから、方法さえわかればすぐにできると、理入と行入の両面から解説しています。
 その他にも、杉山彦一先生をはじめ多くのお弟子さんが「安定打坐考抄」の要約をなされています。

 では、なぜあらためて「安定打坐考抄」を、代表三部作に補足する形で小冊子として出版されたのか考えてみました。安定打坐という名称は三部作にはまだ出て来ていません。それ以前にも夏期修練会において、真理瞑想を拝受する際の姿勢として指導されていましたが、名称は公になっていませんでした。「安定打坐考抄」の出版になって初めてこの名称が定着して行きました。本書の冒頭で、「安定打坐法を別名ヨーガ式坐禅法と称していることは、夏期修練会に参加している天風門下の全ての人が承知されていることと信じる。がしかし、恐らく何故そのように称しているかという理由に就いては、それを知っている人は極めて少ないと思う」と書き始め、ご自身の心的体験を基にして創意工夫された安定打坐法の解説を試みています。
 古参の天風会員さえも往々に坐禅とヨーガ式坐禅法を混同してしまうことから、本書において坐禅との共通性と違いについて4分の1ページを割いて解説しています。両者ともにヨーガ打坐法の流れを汲みながら中国経由の坐禅とインドヨーガ坐法の直伝から創造した天風式打坐法の純度の違いを述べています。意訳しますと、「安定打坐法は古くから我が国にある禅行をみだりに追随、摸倣しているわけでなく、インドヨーガのダーラナ法に特殊の科学的手段で実践し得るように創意工夫したものであり、その目的は容易に無我無念になる事で霊性心の発現にある」と定義しています。
 
私は本書で安定打坐が集大成され、天風哲理が結実したと考えています。天風先生が喜寿にして安定打坐法が、21世紀の普遍的な瞑想法になるという確信に至り、歴史への問いかけとしてこの小册子を遺されたと考えています。
 かつて法然、親鸞を通してインド・中国仏教を日本仏教したように、空海が密教を日本化したように、また道元が禅を日本化したように、天風はクンバハカ法と安定打坐法を主軸にしてヨーガと禅を、現代の人が容易に実践できるように日本化(いや世界化)しました。この前代未踏の画期的な創意は、人類史上で偉大な貢献と認識される事と思います。
 その様なことから、たとえ「安定打坐考抄」が普及版にならなくても天風先生が歴史へ問いかけたランドマークの著書として遺しておきたいものと考えます。この貴重な小冊子を忠実に簡易訳させた、東京賛助会読書会・有志メンバーに心から敬意を表します。
          2012年12月1日、天風先生ご命日の日に

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このページは、三休が2012年12月 2日 22:26に書いた記事です。

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