2013年1月アーカイブ

再談・安定打坐考抄

 大井満の著書「心機を転ず」の中で、昭和34年に東京大学の精神科医、笠松章教授によって、禅と安定打坐を脳波の分析した「打坐の科学的側面考」資料があります。
 簡単に説明しますと、私たちが通常の生活をしている時の脳波は、β(ベーター)波となっています。感情の起伏が激しく動けばβ波も激しく変動します。それが禅の修行を積んだ高僧の場合、静かに眼を閉じて打坐をすると大脳が静止に向かい、α(アルファー)の静かな波形になり、しばらくするとθ(シーター)波のゆったりした脳波が出てきます。これが禅定の境地となりますが、高僧以外の雲水や私たちが一生懸命に坐禅をしてもα波までは行きますが、これ以上は雑念妄念が邪魔をしてなかなかθ波まで進みません。禅定の境地に達入するには10年、20年の修行が必要となります。しかし、坐禅をしてもθ波まで行ける人は極めて少数で、一般の人ですと一生かかってもたどり着けないようです。
 では、安定打坐の場合はどうかといいますと、眼を閉じてブザーや鐘の音に耳を傾けている時にβ波からだんだんα波になってきます。そしてその音が絶えた瞬時に、わずかな間ですがθ波になっています。ほんの一瞬ですが心の雑念妄念が吹っ切れて無心になって空の中にすっと入った状態になります。しかも、初心者でも2、3ヶ月ほど修練すると安易にその境地に入れます。
 このように誰もが簡単にθ波に入れるように創意工夫したのが安定打坐となります。音を聴いている時にα波(一心)となり、音が絶えた一瞬にθ波(無心)になれて、一瞬ですが心が空の中に入れるように工夫した打坐法です。
 天風先生はこの境地を、坐禅の「禅定」と識別して「安定」と称しました。あまりに簡単で眼から鱗の達入法なので、にわかに信じ難いのですが、天風先生が「禅定」も「安定」も同じ境地と言うのですから同じなのでしょう。

 さらに、森本節躬の著書「中村天風先生に教わった心の力」の中で、安定打坐のθ波について興味深い言及をしています。音が途絶えた瞬時の安定脳波を調べて、「杉山(彦一)さんの脳波を見ると、10秒以上も続いて安定脳波が出ている。私の方は5秒、6秒と続くのは少なかった。人間の中でこの安定脳波の永いレコードホルダーは誰であろうか。天風恩師の脳波など、おそらくそれでなかっただろうか」と、記しています。
 私などはさしずめ2、3秒といった心細いものですが、この境地を味合えた経験は貴重でして、後はこの境地をできるだけ長くするように修行して行けばよいわけです。2、3秒を1日に何度も繰り返すことで、回数で天風先生に近づくこともできるわけです。
 こんな簡単な方法で即座に禅定の境地に達入できるなど、坐禅やヨーガの修行で難行苦行している人にとりましては全く認め難い似非禅となるわけです。「そんな簡単ではない」と、ここが安定打坐との分かれ目になります。その意味で著書「安定打坐考抄」は、これまでの打坐法から解放された、「打坐独立宣言」の書となります。私が言う歴史への問いかけとするものです。
 リアリストの天風先生は打坐をして求めるものが同じなら、僧侶やヨギーでもない私たちにとりって、なにも坐禅やヨーガのような難行苦行しなくても、安定打坐法で十分でないかと断定しました。見切り千両です。
 では、打坐をして求めるものとは何かといいますと、「大宇宙の本体と我を一体化せしめて霊性心の発現を目的とします。宇宙霊の分身であり、宇宙の子という尊い存在になるためです。霊性の発現は人間の責務であり、安定打坐は霊性の発現を究極の目的としています(いのちを活きる)」

 「天風哲理の修行、安定打座こそ究極の行き着く境地とも思います。霊性の煥発、信念の確立の最高の手段として、全ての教義がそこへ到達するプロセスと感じています。人間としての尊厳は、この霊性心によって決定される」(稲松信雄先生、安定打坐の指導を担当)

 「玉磨かざれば、光なし。だが、石も磨けば玉になる。また少なくとも、磨かぬ玉より光をます」(天風)

                  2013年 元旦


 愛弟子の書かれた「安定打坐考」の参考文献;
  杉山彦一著「いのちを活きる」(天風財団法人)
  大井満著「心機を転ず」(春秋社)
  山田務名著「天風道八十年」(ウエルテ)
  森本節躬著「中村天風先生に教わった心の力」(南雲堂)