2013年4月アーカイブ

双輪の印(2)


IMG_0722.jpeg 我々第一陣のゴーグ村の位置づけは、インド領ないしその国境沿いという認識で出かけました。実際にインド北東の紅茶で有名なダージリンから20キロメートル西方にゴーグ村が在ります。しかし、ネパールの国境を、ほんのわずかだけ越えるためにビザが必要になります。我々は入国検問所で交渉し、1時間以内という特別認可をもらいました。
 第2陣はその教訓を踏まえて、1993年4月(平成5年)、ネパールの首都カトマンズから入り、西側からバスで4時間半をかけてピカル行き、そこからさらにジープに乗り換えてデコボコの山道を1時間余かけてゴーグ村に入り、そこにテントをはってキャンプしました。これはたいへん強行な道程ですが、正しいコースの選択でした。
 御一行がゴーグ村に到着した日がちょうど彼らの暦で正月元旦にあたり、村人が正装して火祭りと踊りで迎えてくれ、長旅の労をねぎらってくれました。天は時ににくい演出をするもので、天風先生も喜ばれたと思います。御一行は快挙をなしとげました。敬服です。

 さて、二昔も前の話しをしてきましたが、ここからやっと本題「双輪の印」に入ります。
 御一行はゴーグ村を後にしてダージリンに向かう途中、国境の村マネバンジャングの古寺で偶然にカリアッパ師像と対面したと記しています(「志るべ」平成5年9月号の上の写真)。
 私もこの国境の村マニネバンジャングの祠(ほこら)で、たぶんこれと同じ像を見ていますが、これをカリアッパ師と断定するのはどうかなと考えています。断定するにはさらに探究と実証が必要かと思います。
 これは私が20年来ず〜と気になっていた事でして、後の天風研究者がこの旅行記を参考文献にすることに危惧を覚えました。行かれたことのない人にミスリードになってしまうことを杞憂しました。

 こんなヒマラヤの秘境の麓まで来たのですから、おみやげ話としてでも、この像がカリアッパ師であってくれというドラマにかられる事は、心情的によくわかります。私もその時に同じ衝動にかられまいたし、そうあってくれと願いました。
 しかし、この像を見た瞬時に、あくまでも私の直感でしたが、これは違うと思いました。これはラマ僧の導師であるが、カリアッパ師でないと判断しました。もしこの僧の像とラマ僧(志るべ46ページの写真)が同じであれば、51歳(1871−1922)で死去しているわけですが、それは考えられません。それにもしカリアッパ師でしたら赤の法衣ではなく薄紫の法衣を着ておられたかと思います。
 私が「ヨーガの里に生きる」の著者、大井満先生にゴーグ村の報告に行きました時、大井先生もかつてこの地に視察に行かれていたようでして、私に「当地の人は平気で作り話をするから、その点を十分に気をつけて考えなさい」と、アドバイスしてくれました。
 また、もしカリアッパ師像でしたら、灰皿のような托鉢のお碗でなく「双輪の印」を組んでいるのではないかと推察します。なぜならそれが「印(しるし)」だからです。

 天風先生はカリアッパ師からヨーガの密法を究めた後、クンバハカ法と安定打坐の瞑想法を、原型を留めぬまま徹底的に解体し、分析して、独自な方法を創意工夫しました。ヨーガの修行僧でない、在家の私たちでも容易に実践できる方法に組み換えました。私はこの換骨奪胎の創意を、ヨーガの日本化と称し、天風師の偉大な業績と評価しています。
 安定打坐の時に「双輪の印」を組みますが、正直なところ双輪の印でなく、どんな印の組み方をしても瞑想に入ることができます。しかし、それでもなお安定打坐の時に「双輪の印」を組むよう指導しています。あの合理的な天風先生が、原型を留めぬほどに解体し、創意工夫しながらもなぜ「双輪の印」を残されたのか。
 それはカリアッパ師から教えを請うた「印(しるし)」だからと推察します。つまりは「双輪の印」の中にカリアッパ師が居られるわけで、国境村の祠の中でなく、「師この双輪に御坐す(おわす)」です。
 そして、
双輪の印を組むことでカリアッパ師と天風師と私たちが、宇宙霊に中で脈々と繋がってくるわけです。

 そんなことで、私はカリアッパ師の追跡は、天風先生が語られた範囲と、「双輪の印」だけでよいのではないかと考えています。

双輪の印(1)

IMG_0718.JPG 「双輪の印」について書きたく思います。
 なぜ安定打坐の時に「双輪の印」を組むのか、そのルーツを訪ねる前に道草をして、私が1991年(平成3年)天風会「志るべ」誌9月号に寄稿しました、「ヨーガの里ゴーグに〜天風先生を偲んで〜」の抜粋から始めたく思います。

     *     *     *     *   
  

 天風先生のお悟りの聖地ゴーグ村、そこに流れる清らな渓流、クンバハカを習得されたメハム川を、この手でふれてみたいという想いは、私が天風先生に巡り逢えた6年前から抱き続けた強い願いでした。
 「一度この手でメハム川をふれてみたい」、これだけが私の思いでして、他になんらの難しい理由もなく出かけました。
 もとより天風教義がゴーグ村にあるわけでもなく、そこに行くことで悟れるというものでもありません。たとえそこがゴーグ村であろうと、護国寺(天風会館)であろうと、アメリカの我が家であろうと、安定打坐をして静かに目をとじれば、どこでも同じ宇宙霊の中であることを、私は体験的に知っていますが、それでもなおゴーグに行きたいという想いでした。
 天風先生はきっと、「お前ね〜、何もアメリカくんだりから、もの好きに飛んで来たからって、そんなことはどうでもいいこと、教義は日常の生活行事の中にあるんだから、そんな暇があるのなら、もっと真面目に本業に精をだしなさいよ」と、叱られてしまうのが落ちです。
 全くその通りでして、もの好きなことです。
 折よく3月21日のお彼岸に日本に立ち寄って、天風先生のお墓参りをすませて、密かにお墓の小石をいただき、その小石と「志るべ」誌、昭和44年1月号「哲人追悼特別号」を、ふところにしのばしてヒマラヤに向かいました。小石は清らなメハム渓流へ、「哲人追悼号」は、一枚一枚切り裂いてカンチェンジュンガの麓に訃報の知らせと意気こんで出発しました。

 旅行社から事前の現地調査で、この区域は政治的、軍事的な理由で外国人の入国が厳しい事、ゴーグ村までは山道を歩いて往復10時間を必要とし野宿なしで行けないので、今回はゴーグ村まで行けないと説明がありました。しかし、たとえゴーグまで行けなくても、行ける所まで行ってみようという、「一歩でも近ずこう」としての旅立ちでした。
      (中略)
 かくして目的地のゴーグ村ですが、海抜2千メートルのダージリンからジープに乗って尾根道を西に約20キロメートル走ると、インドとネパールの国境の村マネパジャングに到着しました。そこからは徒歩で国境の遮断棒をくぐり、ネパールに続く細い路を80メートルほど行くと小さな出入国検問所があり、我々はネパールのビザがなく、入国1時間以内という特別黙認許可を得て通過し、ネパール領ゴーグへと向かいました。ゴーグ村はこの国境から更に20キロメートル先にあり、山道に慣れない我々の足では5時間かかるとのことでした。
 我々はゴーグに続く山路を、一歩そして一歩と大切に祈るような気持ちで近ずいて行き、ゴーグまであと三つの山を挟んだ手前で、ついに一歩を止めることにしました。展望のきくこの斜面が、一歩でも近ずこうとするこの旅行の到達点でした。ここからゴーグ村を遠望することになりました。
 山々は遥か視界の限りどこまでも波を打って連なり空と合流し、その山と山の合間を縫うようにしてメハムの渓流が流れ、三つ先の山間に見える農家から細い煙が出ていました。そこが我々の行くことのできない聖地ゴーグでした。
 天風先生はあそこで打坐をして、「何と有り難いかな、山の中でいま坐っている自分は、霊智の力、全知全能の働きを持つ気とともにいるではないか。いや気に包まれているではないか。そしてここに坐っている。だから自分は生きているのだ」と、お悟りになられた。その起死回生の甦りの地を、いま我々は先生とともに共有したことになります。
      (中略)
 事前に二度調査に行かれた山岳のガイドさん説明によると、ゴーグ村は今でも30軒くらいの農家が存在するが、1956年と1975年の二度にわたるメハム川の大洪水で村が流されて昔の面影はなく、アシュラム(修行場)も流されてしまったとのことでした。ゴーグから更に11キロメートルほど離れたチャガレイ(六つの家)という村の近くに、今でも石に刻まれたサンスクリストで何やら書かれた言葉があり、滝もあるとのことでした。そしてチャガレイの向こうはもうジャングルになっていて簡単に踏み込めないとのことでした。今は5月の選挙をひかえてこの地域に共産ゲリラの出没も予想され山岳カイドも危険で行く事ができず、選挙後に折をみて再調査に行くことにしていると語ってくれました。
 ゴーグ村を遠望した後、天風先生のお墓の小石を、山岳ガイドに手渡し、メハムの川底に置いていただくようお願いしました。ここまで来ていながらメハム川にふれる事なく折り返す我々の心を察してか、彼は合掌をして小石を受け取り、わかりましたと深々と頷いてくれました。
 その場を離れ難く、いつまでも眺めていたかった我々は、何度も後をふりかえりながらゴーグとさよならをしました。「ここまで来ておりながら」との無念がそこに残ってしまった。

      (後略)
     *     *     *     *   

 我々一行20名の無念を踏まえて、その2年後に天風会員一行36名が、再度ゴーグ村に向いました。副団長は2回目の挑戦となりました。