2014年7月アーカイブ

安定打坐は修行です

 私の朝50分の行修は、天風師のCD「神人冥合」13・14に6分間収録されている安定打坐法で始まり、安定打坐法で終わっています。師が言われた「私が死んだ後にも、波動は残る」という、波動による指導を受けています
 指導は電動機のブザーの音に耳を傾けながら「有我一念」となり、音がパッと消えた瞬時に「無念無想」の境地に入ることを第一歩としています。天風師はこの境地に「入る」と表現し、理屈で解ろうと解るまいと、絶えず働き続けている心の疲れを、一瞬でも休ませてやる効果があるとしています。この境涯が「神人冥合」、つまり宇宙霊との一体であり、坐禅でいう三昧の霊的境地だと説示してます。
 実にわかりやすいのですが、天風師はここで安定打坐法を「修行」と言っています。天風師は教義のなかで「修行」という単語をあまり使用していません。
「教義を修行として行つたのでは、およそ第二義的となる。ただ一念それを生活の行事として行う時、完全に第一義的のものになる」と、日常生活の中に採り入れて「生活即実践」を勧めています。
 では、なぜ安定打坐を「修行」と言ったのでしょうか。

 安定打坐とは「無念無想」の境地に入り、自己を宇宙霊と一体化せしめ、本心(霊性意識)の煥発を目的としています。しかし、打坐行はそうすんなりと生活のなかに組み込めませんので、第二義的な「修行」が必要と考えたと推測します。ここで言う「修行」とは、安定打坐をして時々心を無念無想の境涯に持って行く練習です。第二義的な「修行」を積んで、第一義的な「生活」のなかへ組み込めるようになるまで修行が必要とする認識です。
 安定打坐法を二段階に分け、先ず第二義的な「修行」段階の打坐と、それから第一義的な「生活行事」のなかでの打坐となります。つまり、無念無想の境地に入る第一歩を習得した後、少なくても10年、20年と「修行」を積むことでやがて打坐や音を媒介にしなくても、日常生活のなかで、何時でも、どこでも、瞬時にスースーと無念無想の霊的境地に入れるようになり、「そうなればもう達人であり、聖人であり、哲人であります」と教示しています。
 「達人、聖人、哲人」の境涯に至るまで、一生懸命に10年、20年の修行とは、気が遠くなるお話しですが、この法の道を「修行」としました。それに
安定打坐法は電動機や鐘の音を媒介するので、生活行修のなかで随時すぐに行えませんので、第二義的な「修行」に組み入れたかと思います。
 さて、その電動機や鐘の音ですが、天風師が指導なされていた当時には
CDプレーヤーは言うまでもなく、テープレコーダーもラジオカセットも普及していませんでしたから手短で格安な電動機を使いました。もしそれらが普及していましたら、日々更新でラジオCDカセットに切り代えていたことでしょう(現に天風会でカセットテープとCDを販売しています。『安定打坐』のカセットテープは優れものでして行修の度に活用しています)。
 それに電動機のブザーの音は、安定打坐を知らない人にとってノイズの不快音になるようで、打坐の際に家族にさえ気を使ってしまいます。特に音感が敏感に育った若世代に敬遠されるかと思います。また打坐の自習に電動機を使用しますと、有我一念から無念無想に入る境でブザーを消す指に注意が行き、「有我」に引き戻されてしまい効果的でありません。鐘の音は波長が消えて行くのに合わせ無の境に誘い込みましてとてもよいのですが、どうしても陰音になりがちです。ですから音に対する応用は、各自が打坐の修行を通して自分に合った方法を工夫選択されたらよいと思います。
 私自身は天風師から直接ご指導を願い、CDによる電動機のブザーの音に心耳を傾けて打坐をしていますが、その他にも日常生活の中でいろいろな音に耳をすます方法を工夫しています。たとえばトイレで用をたして水を流した後、水槽に補給される水の音に耳を傾けながら有我一念となり、補給する水の音が消えた瞬時に無念無想に入る練習を繰り返しています。この「トイレ安定打坐法」はとても有効になっています。
 また車を運転している時に、西洋のクラシック音楽を聴きながら音節と音節の切れめや、演奏の終りの静謐の瞬時に「空」に入っています。この「至高音楽打坐法」もたいへん有効になっています。かつての私は車の中でいつもジャズを聞いていたのですが、ある日を境に突然ジャズが耳に入ってこなくなり、クラッシックがすんなりと入ってきました。心耳が宇宙のハーモニーを求めたのかと思います。ある安定打坐法の解説本に、クラシック音楽は心が高揚するからだめと指導していますが、それは選曲にもよるし、個人差もあると思います。安定打坐は宇宙の旋律を奏でるシンフォニーとよく調和しますので是非お試しあれです。
 そのような次第で、私はクンバハカを生活行事のなかで「実践」し、安定打坐を「修行」しています。「日暮れてなお道遠し」の感ですが、いつかは「達人」に成ることを願い、コツコツと打ち込んでいます。