05. 宇宙霊と一体なり

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 (永遠が、海と溶け合う太陽が)

    大宇宙には 
    無尽の大生命が
    一分一秒の狂いもなく 
    電流電波のように 
    流れている
    それを受け留めねばならぬ
    そういう体にしてゆかねばならぬ
    これが仏行である   (坂村真民「仏行」)


 <われは宙霊と一体なり>

 宇宙霊という目に見えない、耳で聞くことも、手で触ることもできない実在を、あるものはあると説明する難しさを、重々承知の上でこの核心から入ります。
 私たちは、目に見えて、耳に聞こえ、五感覚で感じる世界を、自分たちの世界だと思っています。それに科学的な実証がないとなかなか信じようとしません。しかし、それは私たちが見る目を持たないからであり、私たちの生きているこの世界は目に見えない、耳に聞こえない五感で感じられない世界もあります。いえ目に見えない、耳に聞こえない世界の方がはるかに広大で奥深く、五感で感じられる世界の方がほんの一部分でしかありません。
 21世紀に入ってから宇宙には暗黒エネルギーという得体の知れない何ものかが、宇宙の7割以上を占めていると発表しています。
宇宙の神秘は無限で科学知識が汲み上げるよりもはるかに奧深いものです。もし私たちが目に見えない世界を、科学的な実証から理解して行こうとしたら、おそらく一生かかってもわかりません。私たちは学校で地球は太陽を中心に大きな音をたてて24時間で自転し、時速11万キロの速度で公転していると習いましたが、その証拠を見たわけでも感じたわけでもなく、だた知識として「そうだ」と思い込んでいます。これと同じように宇宙霊の実在もその「そうだ」と思い込んで信じるしかないのです。理屈は後回しにして先ず目に見えない実在を信じて、それを前提にして、それぞれ各自が実践を通して直感で掴んでいくしかありません。禅で言うところの「理入」でなく「行入」となります。
 天風師は「宇宙霊は絶対の実在だが、科学的に考えてもいけない。哲学的に考えてもいけない。目に見えないからといっても、『あるものはある』のだから、あるものとして考えた方が一番いいんだ。『あるものはある』、これは科学でもなければ、哲学でもない。『あるものはある』、これを理屈なしに考えるのが、考え方として本当ではないか。理屈から考えていたら、あなたがたは一生かかってもわからないから、ここはわかろうと、わかるまいと信じなさい。真理に対していつも純真な気持ちで信じよう、否、信じることに努力しよう」と述べています。ただ無邪気に、無条件で観念的に「そうだ」と思い込む以外に認識の方法がないわけです。
 こうした認識にたって天風哲人は;
 「わが生命は宇宙霊の生命と通じている。宇宙霊の生命は絶対である。
  その尊い生命の流れを受けているわれはまた、完全でそして人生の
  一切に対して絶対に強くあるべきだ」と、
揺るがざる信念をもって、その霊を思い、ひたすら霊を本位として活き、宇宙霊との一体を貫き通しました。
 さらに続けて;
 「人の生命は宇宙の創造を司る宇宙霊と一体である。そして人の心は、その
  宇宙霊の力を、自己の生命の中へ思うがままに受入れ能う働きをもつ。
  しかもこうした偉大な作用が人間に存在しているのは、人は進化の原則に
  したがい、宇宙霊とともに創造の法則に順応する大使命を与えられている
  がためである」

 「人の生命は常に見えざる宇宙霊の力に包まれている。従って宇宙霊のもつ
  万能の力もまた。わが生命の中に当然存在している。故に、如何なる場合
  にも、また如何なる事にも、怖れることなく、また失望する必要はない。
  この真理と事実とを絶対に信じ常に高潔な理想を心に抱く事に努めよう。
  さすれば宇宙真理の当然の帰結として必ずや完全なる人生が作為される。
  今ここにこの天理を自覚した私は、何という恵まれた人間であろう。従って、
  只この上は無限の感謝をもってこの真理の中に安住するのみである」

 「宇宙霊は、人間の感謝と歓喜という感情でその通路を開かれると同時に、
  人の生命の上にほとばしり出ようと待ち構えている。だから平素できるだけ
  何事に対しても、感謝と歓喜の感情をより多くもてば、宇宙霊の与えたまう
  最高のものを受けることができるのである」

 「宇宙霊は、見えない力なんです。見えない力のものだから、自分が常に
  その見えない力と一緒にいるということを忘れちゃうのです。
  改めてきつ
く言う、自分は宇宙霊と一体だという信念をもたなきゃいけない」

 以上の様に天風哲人の究極の大悟は「われは宇宙霊と一体なり」でした。
 すべての教義と行修は、ここから始まり、ここに帰結します。
 これらは天風哲人の悟りです。悟りとは自分の心が真理を感じた時の状態をいいます。悟りを自分の努力で自分の心が感じたのと、天風哲人の悟りを聞いて自分の心に受け入れたのとでは相違はありますが、悟れば結果は同じです。ですから何をさておき、疑う気持や批判を乗り越えて、ただ無念無想の状態になり、知識として理解するのでなく、ただ受け入れて自覚して行くという素直な気持ちになって、宇宙霊の実在を信じるように教示しています。


 <宇宙的宗教感情>

 天風哲理は誰も追随することのできないドラマ的な実体験を通し、極めて完成度の高い実践哲学に集大成されていますので、直接指導を受けた愛弟子、補導の先生や師に直接触れた人たちは、天風哲理を誠実に、忠実に、そのままを伝えて行こうとするあまりに、どうしても天風哲人のオリジナルの枠内に留まってしまっています。
 まぁ、それは仕方ないことでよくわかります。私とて生身の師に出会っていれば、おそらくそうしただろうと思います。イエス・キリストの後にイエスは生まれていませんし、釈迦の後に釈迦は生まれていません。空海の後に空海はいません。
 しかし、天風哲人が1919年に上野公園の樹下石上に立って辻説法を始めてから50年間にわたり指導なされ、1968年に帰霊してすでに49年ですから99年の歳月が流れています。直接に指導を受けた会員の方々も年々少なくなってきていますので、そういつまでもオリジナルの枠内に留まっていられません。それに日々更新が天風哲理のモットーでもあります。
 天風哲人が「天風哲理は宗教でない。立派な科学だ」と喝破したため、それを今でも頑なに守り、誰も宗教であるとしていません。実際に宗教法人でないのですからそれ自体はそれでよいのですが、宗教的な焼きつくような信念を教えていますから、少なくても信仰に近ずいています。
 「天風誦句集」には「宇宙霊と一体なり」と明記され、「われは宇宙霊と一体なり」は、信仰以上に熱い信念になっていますのに、いまだにこれを信仰だと言う人がいません。天風関連の著書をみましても「われは宇宙霊と一体なり」を、「信念」せよと言っていますが「信仰」せよと言ってません。これは一つのタブーとなっているかのようで不思議でなりません。
 杉山彦一元会長の名著「いのちを活きる」でも、540ページの中に「宇宙霊」という言葉が繰り返して出てきますが、「われは宇宙霊と一体なり」の語句は一行だけに抑制されています。また杉山先生は真理瞑想の教義のなかで、よく「宇宙霊と一体なり」と講義されていましたが、著書には書かれていません。「マンガ中村天風」にしても「我は今、 宇宙霊と共にある」にとどめて「宇宙霊と一体なり」としていません。いまだに「宇宙霊と一体なり」を、「信念」せよとし「信仰」せよと言ってません。つまり信仰としていないわけです。
 しかし、私は「われは宇宙霊と一体なり」を、既存の宗教意識を超えて「宇宙的宗教感情」にまで高めてもいいのではないかと考えています。私の場合はもうかぎりなく「宇宙的宗教感情」に近ずいています。
 これはまたアインシュタインが言われた「宇宙の大生命が人間の生命のなかに永遠の霊性として実存している」という、宇宙的宗教感情と共通するものかと思います。そしてこの宇宙的宗教感情が将来にわたり宇宙の大生命と自己の小生命とを大調和させて行くものと考えています。
 この宇宙的宗教感情を、よく表現した俳句に;
  「瑠璃色の 地球も花も 宇宙の子」という、山崎直子宇宙飛行士の句があります。2010年4月にスペースシャトルで飛行して国際宇宙ステーションで働いている時に、宇宙の姿、地球の姿を眺め「私たちの身体は、夜空に浮かぶ星と同じ成分で出来ていて、宇宙のかけらで出来ている。みな宇宙の子なんだなあ」と、感動しての発句といいます。

 
 また、仏教の「南無阿弥陀仏」、「南無妙法連華経」の念仏、弘法大師との「同行二人」、キリスト教の「天にましますわれらの父よ」の祈り、いずれもが宇宙の根源主体へ帰依(南無)することを念じています。これと「南無宇宙霊」、「宇宙霊と一体なり」とする「宇宙的宗教感情」と、どれだけの違いがあるのでしょうか。
 
「天風誦句集」の「恐怖観念撃退の誦句」に;

 「今日から私は断然、私の背後に、私を守りたまう宇宙霊の力のある
  ことを信じて、何事をも怖れまい。
  人が常にかくあることを心がけるならば、必然、人生に恐怖に値す
  るものがなくなるからである。

  故に、健康は勿論、運命のはばまりし時といえども、本当に私は私
  の背後に、私を守りたまう宇宙霊の力のあることを信じて、何事を
  も怖れまい」と、あります。


 「私の背後に、私を守りたまう宇宙霊の力のあることを信じて、何事も怖れまい」とする誦句、これはもう信念を超えて信仰になっています。そこには心を積極的にすることで、己の背後に宇宙霊が守りたまうという自力を前提にしていますが、とにかく信仰に近ずいています。
 では信念と信仰はどう違うのでしょうか。「信念」は「今の心を信じる」ことで自力となり、「信仰」は「仰ぎ信じる」で、他力になるのだろうか。もしそうなら、宇宙霊と一体となることは自力と他力が一体になることでもありますから「信仰念」とでもすべきなのか。本当の信仰というものは神や仏を崇めるもので頼るべきものでなく、帰依してゆくものですから、宇宙霊と一体化(帰依)も信仰となると思います。

 私自身はこの「恐怖観念撃退の誦句」に、何度も勇気づけられ励まされてきました。私は自力でどうすることもできない場合にいつもこの誦句を念じて信念を強化しています。
 例えば飛行中に乱気流で揺れが激しい時に、クンバハカをして深呼吸をしながら「われは宇宙霊と一体なり」と念じることで、大きな機体が宇宙の中で小さな塵となって飛んでいるかのような気になり「あぁこれなら大丈夫だ」と、心の落ち着きを取り戻しています。
 天風哲人がヒマラヤのヨーガの里で命を賭して瞑想に入り、雑念妄念を取り払い、無念無想の境地から「わが生命は、大宇宙の生命と通じている」、「おぉ、そうだ!われは宇宙霊と一体なり」と大偈した悟りです。
 司馬遼太郎的に表現すれば、我という不純物を、削りに削り取っていくという、至難な作業が辿れた時、無我という磨きぬかれた透明な原液となり得る。その磨き抜かれた蒸溜酒の最後の一滴が「われは宇宙霊と一体なり」の大悟となります。
 ですから本サイトは「われは宇宙霊と一体なり」を、「信念」に留どまらせることなく「信仰」にまで高めたことを特徴としています。
 それはちょうど多くの日本人が朝日の御来光に向い、自然に手を合わせて拝む心情と共通しています。太陽の恵みを受けて稲作文化を育ててきた農耕民族の
DNAがなせる太陽信仰です。
 私はこの太陽信仰の延長線上に「宇宙的宗教感情」を捉えています。地球民族
が宇宙からの御来光に向い手を合わせて拝むというものです。アルチュール・ランボーの詩にあります、「日ごとに昇る太陽を前にして、聖なる唯一の光」を発見しようとする「宇宙的宗教感情」となります。

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