02. 辻説法から終戦

DSCN2176.jpeg              (上野公園の樹下石上で辻説法)

1919年(大正8年)43歳。
・3月、妻ヨシ子の申し出で自宅に数人のご夫人を招いて講話の集いを始める。
・6月8日、「日本の精神文化に貢献したい」、「真理にふれたら、人を救わずにはおられない」「教えの原理があればなにもインドに行かなくても人を救えることができる。その救いの原理はなにか。どうすべきか、この
" How to do ? " から心身統一法がうまれた」(杉山彦一講義)。
 妻に向かい、この仕事に自分の命をかける決意を述べ、一切の社会的地位と財産を整理して世ため人のために単身独力で「統一協会」(後に統一医学会と改称)を設立。妻子2人を含む5人の弟子から始める。
・3ヶ月間、毎日握り飯を持って上野公園の精養軒近くの樹下石上と、日比谷公園の大隈重信の銅像の前で大道説法を行い「寒風吹きすさぶ暮れせまる街頭で、60歳を越えたたった一人の老婆のために統一道を説いた事もある」と感慨深く語っている。(本サイトのマイルストーン・エッセー「道行く人よ、、
・9月、検事長向井巌氏、三島弥吉氏に見いだされて日本工業倶楽部で講演し当時の総理大臣・原敬と会う。原首相に「この人は大道で説法させておく人でない」と言わしめ、貴族議員に推薦されるが、これを固辞して辻説法を続ける。当時、天風会第三代会長野崎郁子は原敬の秘書。
・11月、向井巌氏の計らいで日本工業倶楽部での講演を境にして会員制となり辻説法をやめる。当時の会員は入会費が高く会員の紹介が必要なため、階級の高い官史や皇族を始めとした華族ばかりで庶民は入会できなかった。

1921年(大正10年)45歳。
・3月3日、昭和天皇が皇太子の時に、大正天皇の代理で英国のジョージ五世の戴冠式に参列するために訪英となり、国内がこれに賛成する者と反対する者で右翼および玄洋社の意見が鋭く対立し、天風は賛成に立ちたとえ頭山翁であっても己の信じる姿勢を貫き玄洋社の出入り禁止となる。(マイルスト
--ン・エッセー「日本で一番長い日」)
・ここ頃から己の健康に確信を持つ事ができ健康法に関する講義も始める。

1922年(大正11年)46歳。
・来日したアルバート・アンシュタインと会う。

1923年(大正12年)47歳。
・11月、司法大臣横田千之助氏の依頼で朝鮮京南鉄道の騒乱事件を治める。これを機縁に朝鮮総監斉藤実氏に知己を得て同会朝鮮支部を創設。

1924年(大正13年)48歳。

・山本英輔海軍大将(当時少佐、海軍学校長)の紹介で、小松公爵(元北白川宮輝久王)が入会。
・12月に小松公爵の推挙により、東久迩、北白川、竹田の三内新王陛下に数回にわたって進講(「研心抄」の「笑いと人生」に収録)。
・昭和天皇、皇后(当時摂生宮殿下)に進講し、「ありのままに われある世とし 生きゆかば 悔いも恐れも なにもなし」と詠みみ句を贈呈。新渡戸稲造氏列席。
・この頃の受講者にはさらに尾崎顎童法相を始めとして、そうそうたる人物が名を連ねている。
・機関誌「自覚」を発行し、後1941年に紙料補充不可能のため休刊。

1925年(大正14年)49歳。

・2月、京城(ソウル)京城日報社で講演。
・5月、尾崎行雄の別宅で「健康法の真義」講演。小松輝久候伯爵、後藤新平、岡田啓介、浅野総一郎氏らが聴講。
・聖将東郷平八郎元帥、山本英輔海軍大将、昭和天皇の倫理帝王学の師である儒聖杉浦重剛翁、鶴見総持寺石川素童禅師をはじめ、政財界の有力者が次々に入会。
 東郷元帥にはロシア国と日本海戦によるクンバハカの逸話、また生き仏石川禅師との初対面に木魚にまつわる禅問答の話しが残されている。

・6月、大阪放送局開局記念講演に「病と病気」をラジオで放送。ついで「笑いの哲学」「働きの哲学」「成功の秘訣」等をレコードに吹き込む。
・11月に、自宅を本郷中丸福山町に移転。


1926年(大正15/昭和元年)50歳。
この頃からテレパシーやインスピレーション等の特殊霊的作用が明確に出来上がる。
・心身統一の根本原則を発見するのに8年を用し、更にその真理を具現化するのに8年をついやして心身統一法創建。

1927年(昭和2年)51歳。
・本部道場が落成。この頃に全てが悟った気になり怠惰な気持が生じた時に、日本ペイントの長谷川直蔵氏が持って来た京都大学の図書館から有名な画家が描いた「十牛図」を見て初心に還り精進する。この絵を大阪会員の野尻画家に摸写させて「十牛図」を用いて講演する。

・京都の岡崎動物園のライオンが檻から逃げ出し、天風がライオンを檻に戻す騒動がある

1928年(昭和3年)52歳。
・11月、母、長子(テウ)逝去。

1929年(昭和4年)53歳。
・父の一存で一人娘の鶴子(24歳)が
天風会第二代目の安武貞雄会長に嫁ぐ。

1930年(昭和5年)54歳。
・春、京都桃山御陵を参拝した時に、青年と石段を駆け上り競争しても一人だけ先頭を切って一気に駆け上がる。
・娘の鶴子を嫁がせた後、肺病を心配し女学生の頃からの弟子であった16歳の菅野真瑳子を養女として向かい入れる。

1932年(昭和7年)56歳。
・天風式クンバハカ法の創意をはじめる。

1934年(昭和9年)58歳。
・数人の大学運動部の者と出町柳から鞍馬まで長距離競走するも、他を引き離して先頭になり「踊っていると思って右足と左足をかわるがわる出せばよい」と話す。
・みすぼらしい花売りの学生を見て、お弟子に花を買わせてから、その学生に「花を売ってみんなを楽しませていることで、君自身を敬することになる」と諭す。

1936年(昭和11年)60歳。
・二二六事件で決起将校の持ち物の中に、天風の書かれたものがあり特務か身辺を細かく調査され呼び出されたが不起訴となる。

1939年(昭和14年)63歳。
・5月に「統一歌」ができる。

1940年(昭和15年)64歳。
・1月、「統一医学会」を「天風会」と改称。終戦にいたるまで全国的に活動を展開。

1941年(昭和16年)65歳。
・12月8日、開戦宣言を大阪の宿で聞き大声をだして哭く。「これで日本が、皇紀撩乱たる何千年の国体に傷をつけられる時が来たのか。日本が世界に誇っていた国民の自尊心が傷つけたれるんだ。危なくするとてえと、お互い、宿るべき家もなくなるような悲惨な目に遭うぞ」と語った。

1941年〜45年(昭和16年〜20年)65〜69歳。
・12月8日、「思いおこせ日米開戦からの四カ年間が、いちばん私の人生の歴史の中で、本当に文字通り苦難の毎日でした」と話す。(マイルストーン「得意淡然、失意泰然」を参照)

1941年(昭和17年)66歳。

・春、札幌講演を3日前にして、東京ガス会社の値上げ事件の調停の疲労から声が出なくなり医師から悪性の癌の疑いがあり即刻手術を言い渡されるも、断固として札幌に向かい今井記念館に集まるた3千人余りの聴衆の熱意に応えて、壇上に上がり血の塊を吐いて血を流しながら講演を行う。それ以後は全治してしまう。

1945年(昭和20年)69歳。
・3月、特別強制疎開により東京本部が取り壊され茨城県布川町に疎開。
・3月、布川近くにB29が墜落し捕虜となったアメリカの飛行将校を無事に収容所で過ごせるようにする。

・疎開時は週に一度皇宮警察官の講話だけで後は布川町に起居し、残った時間は近くの鉄橋の坂下まで行き東京から疎開で引いて来るリヤカーを坂上まで後押の手助けを、誰知ることなくやる。
・8月14日、天皇陛下の「終戦玉音放送盤」を秘匿して、陸海軍の将校の奪回から守る。
 翌15日終戦。(本サイト第3部「終戦玉音放送録音盤秘話」参照)

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