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    <title>第５部　天風師の面影</title>
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    <title>天風会との出会い</title>
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    <published>2025-12-02T12:38:20Z</published>
    <updated>2025-12-02T12:39:12Z</updated>

    <summary>　こんなユニークで面白い天風会に入会文は初めてでしたので、本人に許可を得て紹介さ...</summary>
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        <name>三休</name>
        
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        <![CDATA[<p>　こんなユニークで面白い天風会に入会文は初めてでしたので、本人に許可を得て紹介させてもらいました。</p>
<p>　「天風会との出会いー有り難いご縁に感謝合掌ー」<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　石崎 孝雄 <br>　私が中村天風先生の名前を知ったのは、平成21年１月です。私に中村天風先生を教えてくれたのは、私が県警察本部生活安全部特別捜査班で勤務をしていた時にある事件を捜査して逮捕した被疑者（天涯孤独で５年前に自宅で病死）でした。<br>　事件のことを調べるのは当然ですが、被疑者（以降Ａと称する）と胸襟を開いて話をするには、心と心が繫がる、意思が通じる切っ掛けが必要なのです。私は、Ａが昔、古本屋をやっていたので、お勧めの本はないかいと尋ねたところ、うーんと一息ついて、「ひろさちやの本は面白いよ」と教えたくれたのです。<br>　私は、帰宅した夜、父に「ひろさちや」の本を借りてくるように頼み、翌日、地元の図書館に行ってもらい、１冊だけあった、ひろさちやの本「阿闍世王物語」を借りてきてもらい、感動のあまり二晩で読み終えたのです。 <br>　そして、Ａに「ひろさちや」の本、面白かったよ。次にお勧めの本は、ナニ。と尋ねたのです。するとＡは、私が、ひろさちやの本を読んだのが嬉しかったらしく、即座にホントは、ひろさちやは、２番なんだ。１番は、もっとすごい人の本なんだけど言えないと言うのです。 私、「なんで言えないんだ」。<br>　Ａ、「１番の人の名を言えない、逮捕されている自分が言うことがその人に申し訳ない、その人に恥をかかせることになる」と本当に恥ずかしそうに言うのです。私は、Ａがそこまで言うのならば、益々、聞きたくなり、「喉まで出かかっている、吐いてスッキリしろ、言いたのだろう、言わないと後悔するぞ」と迫ったところ、<br>　Ａは、「中村天風という人の本、１冊、１万はするよ、でも感動するよ」と教えてくれたのです。 それで、私は、その夜、ネットで中村天風先生を調べて、先生の偉大な稀な人生に驚愕し心臓をバクバクさせながら、１冊１万円する中村天風３部作（日本経営合理化協会）、合計３万円を買い求めたのです。（３万円の出費にも心臓がバクバク） 数日後に本が手元にきて、これまた、心臓を躍らせて目から鱗で一気に読み進み、Ａに「中村天風の名を言えなかった気持ち、良くわかるよ」と言いながら、お礼の言葉を伝えたのです。<br>　それから、20日ほどしてＡの調べが終了して、別の事件捜査に取り掛かったのです。それは平成21年２月でした。私は、Ａに教えてもらった中村天風先生の大ファンになり、平成21年３月に天風会館に赴き能力開発講座に参加し天風会員になり現在に至っております。<br>　私は、逮捕して取り調べる相手には一番最初に必ず、「俺とお前は、紙一重、人生一歩違えば、お前が刑事、俺が被疑者」と話すのです。<br>　私の信条は、上から目線ではなく、同等。平等。そのお蔭で為になること、勉強になることが沢山ありました。浅学非才の私は、「ひろさちや」、「中村天風」、この両名の方をＡに教えてもらうまで、知らないのです。<br>　数々の被疑者から、作家、小説、映画、料理、名所旧跡、色々な趣味等を教えてもらっていますが、最大の宝物がこの出会いです。私の後半の人生に光を当ててくれたのはＡです。 Ａにもう一度、お礼を言いたかったのですが、現職中は、憚られるので、私が60歳で退職した平成27年３月の直後４月にＡの自宅（私の家から80キロ）に妻と一緒にお礼に伺ったところ、２回とも留守なので、私の元職場の名刺の裏に「あなたに中村天風先生を教えてもらい、私の人生は変わりました。ありがとうございました。感謝、合掌です」と携帯電話番号もメモ書きして帰り道につきました。<br>　すると30分ほどしてＡから電話があり、お礼の言葉を告げたのです。会話をしたのは、これが最後でした。そして、歳月が流れ、令和元年、県警察本部鑑識課から私の携帯電話に連絡があり、「石崎さんの名刺を持っている、Ａが自宅で亡くなったのです。 名刺の裏に書いてある文章の説明をしてほしい」と言うので、その経緯を話しました。 <br>　私は、Ａと出会ったことから、今の私があるのです。そして、Ａが大切に私の名刺を持ってくれていたことに感謝です。Ａは、中村天風を石崎に教えて良かったと思っていたと確信しています。<br>　ご冥福を心からお祈りいたします。 有り難いご縁に感謝合掌。 天風会との出会いに重ねて感謝合掌。</p>]]>
        
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    <title>天風道３９年</title>
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    <published>2025-12-02T07:24:29Z</published>
    <updated>2025-12-02T10:03:13Z</updated>

    <summary>天風道３９年（天風の足跡を訪ねて）　　　　（令和６年２月１６日講演録）  私の自...</summary>
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        <name>三休</name>
        
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        <![CDATA[<p>天風道３９年（天風の足跡を訪ねて）　　　　（令和６年２月１６日講演録）<br> <br> 私の自己紹介から始めさせてもらいます。<br> 私は１９７０年に日本を離れ、２０２４年１月に５４年ぶりに住民票を、アメリカから日本に移して永住帰国しました野口五十六です。<br> よく、人様からなぜ帰国したのかと聞かれますと、そりゃ〜 冥土 in Japan だからですと答えています。<br> 日本の大学を終え、台湾に留学して修士課程を取得し、その後台湾の友人の電卓を、アメリカ市場に売り込むために、妻と２つのスーツケースと、１万ドル（当時にして２５０万円）のベンチャーキャピタルを持って渡米し会社を創業しました。</p>
<p>アメリカ市場に基盤ができた１５年目でしたが、これから大きく会社を成長しようとする時期に分厚い壁にぶち当たりました。</p>
<p>これまでは、２００以上の民族が共存するニューヨークの人種の坩堝の中で揉まれながらも、孤独を感じることもなくやってきましたが、この頃になると持ち前の強気だけでは攻めて行けないところまで追い詰められていました。<br> これから大きく会社を成長させて行くために、私の心を強くさせ必要になっていました。<br> こうした時に人は神と出逢い、信仰の門を叩くのだと思いましたが、私は特定の宗教を持たないし、今から既成の神を信じることもできないだろうと思いました。<br>では、どうすればこの情況を打破する事ができるのかと悩み再び哲学書や自己啓発の本を読み漁りました。<br>仕事のかたわら模索しているうちに、アメリカ産のプラス思考まで行き着きましたが、西洋思想の流れを汲むそれらの自己啓発書に、何となくバーター臭さを感じ、今一つしっくりこない悶々とした日々でいました。</p>
<p>そうした折、天風会の会員から『天風誦句集』をいただき、一読して「これはすごい！」と直感しました。<br>世の中にこれほどすごい人が居た事に驚喜を超え度胆を抜かれてしまいました。しかも、それが日本人によって７０年も前に創意されていたことに愕然としました。<br> これこそ特定な宗教に頼らなくても、厳しい国際社会を生き抜いて行く心の支えになる哲理と確信しました。<br>これが私と天風先生とのご縁でした。１９８５年、３７歳の秋分の日でした。<br> 早速、天風先生の著書を本棚に並べ、翌年に西部地区合同夏期修練会に飛んで帰り参加させてもらいました。<br> それからというもの、朝から晩まで天風、天風の毎日で、頭のてっぺんから足の爪先まで、全人格的にのめり込んでいきました。<br>なぜ追っかけを始めたかと言いますと、昭和６０年頃ですが、夏期修練会は開催されていましたが、東京本部の天風会はスランプ状態にありました。<br>アメリカから日本に出張にした時に、日曜行修会に参加しますと杉山彦一先生の素晴らしい講義に関わらず参加者はいつも１５人ほどでした。<br>このままでは世界的に優れた天風哲理が、埋もれてしまうと危惧を覚え、これではいかんと思い、よし天風先生の偉業を、掘り起こそうと決心して追いかけを始めました。<br><br> 先ずは、天風先生の本と直弟子さんの著者を追っかけて、生の声を聞く事にしました。<br> 我こそ天風師の志を継ぐ者ぞという、直弟子さんの使命感に燃えた全ての著書を追いかけました。<br> すでに多くの方が亡くなっていますが、こうした弟子さんの著書の中で、金字塔は、天風哲人の劇的な生涯を書き世界思想史に哲人の位置づけを問いかけた大井満氏の『ヨーガの里に生きる』『戦場と瞑想』、『心機を転ず』三部作があります。<br> <br> 執筆当時は天風先生の言葉を、活字にしてはならぬという呪縛（じゅばく）があった中で、破門を覚悟して制作に２５年の歳月をかけた傑作です。<br> 大井先生は天風師が亡くなった時の「しるべ」誌の編集をやっており、天風先生の近いところにいました。<br> しかし、当時すでに『ヨーガの里に生きる』が、絶版となっていまして入手困難でしたので、池袋に在った大井心理学研究所に追っかけでなく、私の手作り本を持って押しかけ、絶版はあまりに惜しいので、こういう読者がいるのですと、直々に再販をお願いしました。<br> <br> 大井先生は何かを感じたのだと思いますが、即答せず「考えて見る」だけ言いました。<br>こうして再販された返答として、新刊１冊をアメリカまで送ってくれました。<br> <br> その後文通が続きまして、大井先生から君の熱意はわかるが、「まず座れ」「１日やらざれば１日遠のく」、「だれもが天風だと思ってやればいい」と、言われました。<br> <br> 私の大井先生への最後の手紙で、天風先生の５０回忌に、私が本を出すことを約束しました。それが「天風式ヨーガと瞑想のすすめ」です。<br> この本で、天風先生がインドのヨーガを、日本に初めて持ち込んだ人で、安定打坐法を通してヨーガを日本化させたと定義しました。</p>
<p align="left">こうして私が天風関連の本を追っかけている間に；<br> 昭和の最後の秋のこと、経営合理化協会の牟田学さんが、天風講演を整理して「成功の実現」を、出版した事で、第二次天風ブームが巻き起こりました。<br> そして、私はもう著書を追っかける必要がなくなりました。<br> 天風哲理が風化してしまうなどという「取り越し苦労の厳禁」を、身を持って教えられました。</p>
<p>実は、私はアメリカ在住ということで、正規の会員にならぬまま、杉山先生の特別の承諾を得て、赤札組として天風会に出入りさせてもらいました。<br> ですから著者権に厳しい天風会教務部から距離を置くことができましたので、１９９１年（平成３年）にいち早く「TEM PU ONLINE」というドメイン名でサイトを立ち上げ、そこにこれまで追っかけてきた天風関連の資料を、すべてこのサイトに入れ込んで公開しました。</p>
<p>また、２０１２年の東日本大震災の時に、もし天風先生なら被災者をどう励ましたかを、問いかけて「心を建て直す」を出版しました。<br> ついで２０１８年に、中村天風５０回忌に、大井先生との約束でもあった、「天風式ヨーガと瞑想のすすめ」を出版しました。<br> <br> いずれも著者権で問題になるのを避けて、わずかな原稿料でしたが、<br> 全額「天風ギャラリーの維持費」に、寄贈させてもらいました。<br> また、これを機会に特別賛助会員になりました。<br> <br> 本の出版後に、池田忠一元専務理事（顧問）からお手紙をいただきました。著者権のクレームかと思い開封しましたら、こんな有り難いお手紙をいただきました。<br> （読んでみます）<br> 前略　この度は「天風式ヨーガと瞑想のすすめ」、ご恵送賜り誠にありがとうございました。<br> 最初は、このご本を、今までのような一時的な感動から、あたかも自分が悟った如く、天風先生の教義を著作権のある天風会の了承もなく発刊されたものと同類だろうとそんな気持ちで読みました。<br> しかし、一読これは良書だ、天風先生並びに天風教義を、統一道を日本だけでなく世界に発信する上で良書であると感じました。了承できるものと評価します。<br> と、ありました。これに勇気づけられ、私の次のライフワークとして、「中村天風の宇宙霊」、「目に見えない実在」を、見えるように書きたいのですが、いまだ手がつけられずにいます。<br> 先の天経懇会の忘年会で、ここにおります吉田敏男医学博士が、顕微鏡で細胞見るとそこに宇宙霊がということに衝撃を受けました。</p>
<p>２<br> さて次に、天風先生が遍歴した、足跡の追っかけに入ります、<br> 私は１８歳からかれこれ世界５０カ国ほど放浪していますので、習性として訪ねた国の雰囲気を直感で感じられるようになっていますので、天風先生が行かれた国々の雰囲気を、立体的に感じたく思いました。<br> もちろん行ったところで、天風先生の面影などないのは承知の上で追っかけました。<br> <br> 天風先生の足跡は大きく３段階別れまして、<br> 生い立ちから３２歳までの満州<br> 海外遍歴から４２歳までの海外放浪<br> 説法三昧から９２歳までとなります。<br> 天風先生の遍歴はどこを切り取っても劇的なので、それを一つ一つ話し始めますと明日の朝になってしまいますので、大まかな要所だけを、簡単に話したく思います。<br> <br> （生い立ちから３２歳までの満州ですが）</p>
<p align="left">私の追っかけは、堂に行っていまして天風先生がまだ生まれぬ前、父、中村祐興（すけおり）からのご縁から始まります。<br> 父、祐興（すけおり）は、渋沢栄一の要請で、明治５年創業、後に世界遺産となった、日本で最初の富岡製糸場の事務主任をしていました。<br> 私はその近くで生まれ育ちました。<br> <br> 天風先生の誕生については、<br> 直弟子の松原一枝さんの「中村天風　活きて生きた男」と天風先生の晩年のお弟子、松本光正（みつまさ）講師の「中村天風の歴史」があります。両著書には天風先生の生れに３歳差があります。<br> しかし、これは天風哲理の本質的な問題でないので、今はふれません。<br> <br>生い立ちから１６歳までに特出すべきは５つありまして：<br> １、生まれた時に、すでに前歯が２本生えていたので、これを心配した両親が高嶋易に見てもらったところ、<br> 「これは油断すると石川五右衛門以上の悪人になるかもしれぬ」と鑑定されています。これはある意味で当たっています。<br> <br> ２、幼児期に父が王子製紙に勤務していたことから、寮に住んでいたお雇い英国人夫婦に可愛がられ、日常のなかで英会話を身につけたこと。ここでの英語が生涯に大きく生かされてきます。<br> <br> ３、父と一緒に講談を聞いた帰りに父から「世が世なら、ふたたび大名の世がきてやがてそちも大名になる」と言われる。これが潜在意識に打ち込まれました。</p>
<p align="left">４、１５歳頃、織田信長の少年期顔負けの悪餓鬼となり、両親の手に負えないことから、頭山満翁の玄洋社に預けられ、養父、頭山満翁から「彪」「彪」と呼ばれて可愛がられています。<br> <br> ５、１６歳の時に、頭山翁の配慮で軍事探偵（スパイ）の河野金吉中佐のカバン持ちとして日清戦争開戦前の主戦場となった満州、遼東半島をお伴しています。<br> この頃に玄洋社で頭山翁を通じて孫文とも会っています。<br> （私は学生時代に大アジア主義に心酔していましたので、心情的に頭山満翁の思想と近いところにいましたので、満州時代の天風先生に抵抗なく入れました。）<br> <br> さて、時代が下がり２４歳時、陸軍参謀本部情報官歩兵大尉として採用され、1年間厳しいスパイ特殊訓練を受けて、３０００人の募集から１１３人が合格し、下関から出国し上海、北京、天津を経て、満州ハルピンに潜入しています。<br> <br> ２８歳の２月に、日本はロシアと国交断行し、１１日に日露戦争勃発。<br> <br> ロシアの後方基地であったハルピンにおいてめざましい破壊工作をし、度重なる破壊活動により、両眼に重度の視力障害を受けて右目は全く見えず、左目はわずか0.1に近く、耳は中耳炎で難聴になっています。<br> またハルピンの松花江の鉄橋爆破の爆風で下顎と歯を痛めてしまいすでに総入れ歯となり、まさに満身創痍の身となっています。</p>
<p align="left">満州奥地で情報工作を足掛け５年間。生死の境を６０回あまり経ての奇跡の生還し。選抜された１１３名の軍事探偵のうち帰還したのは９名だけという凄まじさです。<br> ２９歳、９月５日に日露戦争終結し翌年３０歳にスパイ任務を解除しています。</p>
<p align="left">（ここまでは満州が舞台でして、私は追っかけて大連から、長春、瀋陽、ハルピンまで北上しました。当時の満州里が、そのままの風景で見られました。</p>
<p align="left">特にロシアとの国境線であるハルピンは、今もロシアの建物や教会の跡があり、<br> 後方撹乱で二カ所の鉄道爆破や松花江の鉄橋破壊等が、そのままに偲ばれ、苦力に変装した天風先生やハルピンのお春が出てきそうでした。<br> <br> 今こんな追っかけをしていますと、スパイ容疑で拘束されて、中国から出国できないかも知れません。<br> ここで余談ですが：顔の洗い方でスパイが見破られたと言います。<br> ３０歳。日露戦争終結により３年４ヶ月ぶりに東京本郷の母の居る自宅に帰宅、<br> 翌年に速度の速い悪性の肺結核と診断され死に直面しています。<br> <br> 当時、結核に関する最高権威者であった北里柴三郎博士の治療を受けても好転すること無く、余命３年と言われ「かくなる上は武士らしく死ね」と言い渡されます。<br> <br> 右肺に二つの穴が開いて片肺となり、喀血は３８回にも及び、死に直面し突然恐怖におびえ始め、かくもか弱き惨めな心になり、これをどうにかしてかつての自分らしく、死をも恐れぬあのたくましい強い心を取り戻してから死のうと決意し、欧米各国へ訪歴を始めます。<br> <br> 「座して死を待つより、心の強さを取り戻したい」と救いの道を求めて渡米を決心します、実に天風先生らしい得意な発想です。</p>
<p align="left">３<br> 海外遍歴は３３歳から始まります。<br> ５月、結核患者には出国許可が出ないため身分を孫文の父親の二番目の愛人の子供「孫逸郎」と偽り、中国人になりすまして上海に密航、上海からインド洋を経て、希望岬から大西洋を横断してアメリカ大陸へ渡ります。<br> <br> ８月に９３日間をかけてアメリカ東部ニューヨークに到着し、翌月ペンシルバニア州フェロドフィアにあったモーション・モチーブの健康法に出席するも全得るものもなく期待外れとなる。<br> <br> １１月、渡米の大きな目的であった 「How to get what you want」「いかにして希望を達するか」の著者、待望のスゥエッド・マーデンとの面会が叶い訪ねると、この３０代の青年哲学者は、自分の著書を何度読んだかを尋ね、「１０回」と答えると「百万回読め真理を知らずに死ぬよりも一歩でも近づいて死ぬのは幸いなり」だけで全く得るものがなく大きく落胆する。<br> <br> ３４歳、エジソンの神経病を治療した哲学者で「How to live」の著者、カーリントン博士を訪ねても「人生の真理を求める心が尊い、あ〜尊い、尊い」と、言われただけで体よくあしらわれここでも得るものがなく、<br> <br> 当時、大金の５万円をもって渡米するもセミナー代等で半年で使い終わり、「腹の空いた痩せ犬が、道端をほっつき歩いているような状態だった」。<br> 当時の１万円は家政婦を１人使い銀行の利子で過ごせた時代。お米一升三銭。<br> <br> ３５歳。生活費と旅費を稼ぐため吉沢日本大使の紹介で、広東省の華人の富豪が、愛人３人を連れて、今でもあります5番街の名門プラザホテルで暮らしていた留学生の李宗順（後に香港で開業）の通訳と、コロンビア大学の耳鼻咽喉科の授業を代行して医師免許を取得してやり、同時に孫逸郎の名でコロンビア大学の基礎医学部で、免疫系と自律神経系統の短期講習を受講しています。<br> このアルバイトを８ヶ月ほどして８千ドルと謝礼８千ドル、１万６千ドルをもらい<br> ヨーロッパへの渡航の旅費にあてる。<br> <br> こんな短期間に博士を習得は事実なのかと質問されましたが、卒業者名簿に孫逸郎の名前で載っているとことです、私は調べていないので何とも言えません。<br>コロンビア大学で医学の知識は習得できたが、先進医学のアメリカでも結核に対して治療方法がなく、また哲学的にも得るものがなく絶望の縁に突き落とされる。<br> <br> その時に、NYの日本商社の人に医学や哲学を希求するなら英国に行くよう勧められ、大西洋の嵐に遭いながら英国に渡り、体重は５０キロと痩せ衰えて、旅行のトランクが持ち上がらぬ状態でやっとのことロンドンにたどり着く。<br> <br> ロンドンでアデント・ブリュース博士の講座「神経系統と精神活動」を、２週間受講し、受講最終日に治る秘訣を教えるとのことだったが、「健康な体でなければ心は強くなれない」「病を治す秘訣は病を忘れること」（ Forget it. This is only this.）というだけであった。<br> 「忘れ方を教えずに、どのように忘れられるか」と質しても、アジア人の後進民族に、私の高尚な哲学など解らぬと軽蔑されるだけで、ここでも得るものがなく、<br> <br> その後さらにドバー海峡を渡りベルギーに、そしてフランスに入り。ロンドンの日本クラブで新聞を読んでいる時に知り合った医師に、１９世紀フランス演劇で最も有名な舞台女優サラ・ベルナール（ユダヤ人、１８４４−１９２３）を、紹介され６ヶ月お世話になる。<br> <br> 当時ベルナールは６８歳でしたが、娘のように若く２４〜２５歳くらいにしか見えないことに驚く「女優に歳は無い」と娘のように若く、その秘密は「日に一度赤子の心に戻る事」とのことのようでした。<br> <br> 天風が巡り逢った女性の中で、サラ・ベルナールとハルピンのお春の２人を、絶世の美人と讃たえ、こんな聡明な女性と会ったのはこれまでに１人だけと懐述しています。<br> <br> ルイ二世の宮殿であったベルナールの家に３６０数名の女優が寄宿し、食事の時に女優たちが実に楽しそうに笑いながら食べるのに驚き、後にこれが天風会の食事前の「笑え」につながって行きます。</p>
<p>ベルナールの紹介でリオン大学のリンドラ心理学博士に会い「鏡による暗示法」の指導を受ける。<br> また、これもサラ・ベルナールの紹介でドイツに赴き、当時世界で最高の権威であった、ベルリン大学で「生気論」の教鞭をとっていた哲学者ハンス・ドリュース博士を訪ねる。</p>
<p>小柄で歳をました博士は、天風の質問に目を閉じたまま耳を傾けた後、ドイツ人の口癖でおもむろに「Yes, But.君の希求しているものは世界古来いからの謎であり、心というものは絶対に人間の自由にならない。それは海の魚を森に求めるに等しい」「求めて探りだせれば自分だけの喜びでなく、人類を幸福にできる喜びとなる。ともに求めて行こう」と断言される。<br> <br> （私はここでベルリン大学に追っかけ、ちょうど数ヶ月前に崩壊したベルリンの壁を見ていまして、お土産に壁のかけらを買ってきました。<br> また、パリの小さな広場におみやげ屋の屋台が出ていて、そこでダメもとで白黒の絵葉書を探しましたら、中からサラ・ベルナールの写真２枚を見つけ出した時には「やった！」と思いましいた。）<br> こうして2年間の欧米遍歴は、心を強靭にする回答を得られぬまま絶望した時、急に母の顔と日本が懐かしく恋しく浮かんできて、もう居ても立ってもいられなくなり、「えいくそ、面倒だ、日本まで行けなきゃ、途中で海の中へ飛び込んで死んだって解決つくわ」と、日本へ死に逝く帰国を決心する。<br> <br> ５月２５日「日本に帰ろう。母のいる国、富士山の見える国、そしてわが家で死のう」と、小雨そぼふるほの暗いマルセーユの港を、絶望の唾を吐き捨てるようにして失意うちに離れました。<br> ３つの客室のあるペナン行きの貨物船に乗り地中海をゆっくりと南下し、天風は客室から出る事も無く絶望のどん底、それこそ活きるゾンビが、船底に寝たままスエズ運河へ向かう途中、イタリアの軍艦がスエズ運河で座礁して不通となり、急遽迂回してエジプトの最大の港アレキサンドリアに５日間の寄港となりそこに錨を下ろしカイロまで小舟で行く<br> <br> （私は、マルセーユの港に行きたかったですが、移民の激増で治安が悪いとのことで中止しています。将来機会があれば行ってみたく思っています。）<br> <br> １９１１年６月８日、ピラミッド観光のため朝２時３０分に起床するが、３時に激しい喀血となりホテルで横になる。</p>
<p>（私はピラミット行きましたが、たんぷん天風先生は行ってないと思います。）<br> ピラミッド見学をキャンセルした事で、朝４時頃にホテルのボーイに無理やりに起こされ、抱かれるようにして食堂に連れて行かれ、モロヘーヤ（青葉スープ）を、無理して喉に流し込んでいる時に、前方の席に客として居合わせた６０歳前後と見受けられる老人（当時１０６歳ともいわれる）、カルマ・ヨガの聖者、カリアッパ導師 （Colliyaha、インド南方のペプチア人）と、運命的な出会いとなります。<br> <br> カリアッパ師に手招きされ、フラフラと近づくと、「お前は右肺に病を持っているが、母国へ死にに行くのか」、「お前はまだ死ぬ運命ではない。私について来なさい」、<br> "You can save yourself、You had better follow me.の言葉に、わかりましたCertainly.と応えて従いました。<br>（この運命的な出会いは、天風師が講演の時にいつも涙ながらに話しています）<br> <br> ６月９日、翌朝に出発。スエズ運河、紅海、アラビア海を、ヨットで従者２人を含めた４名で、途中おもだった港に２、３泊しながら６月下旬にパキスタンのカラチに入港。<br> <br> （私は天風先生の行かれた国は、全部行っていますがパキスタンだけ行っていません）<br> カラチでヨットを降り１０数頭のラクダの曳船に乗り換え、インダス川を６日間かけ２５０キロほどを北上しさらにラクダの背に乗り、広大なインダスタン平野を越え、遥かヒマラヤの東の端カンチェンジュンガの麓に在るヨーガの里ゴーゲ村に向かい、９５日間の長旅の果て、９月中旬、ゴーケ村（Gorkay）にたどり着つき、カースト制度により奴隷（スードラ）の身分として修行に入り、始めの２ヶ月間は、心の垢を洗い落とし赤子のような心になるための準備期間をとり、ゴーゲ村にて２年７ヶ月の修行が始まり、第一歩としてメハム川（Meham）で、朝のクンバハカの修行が始まり、カリアッパ師が指導したヨギの中で最速で悟り至リマス。。<br> <br> （ヨーガの里での修行期間には、１年９ヶ月と２年７ヶ月と３年と諸説があり、松本講師は確か１年９ヶ月としています、私はカリアッパ導師と会ってからからを数えて２年７月としています。天風先生は講演でよく３年と話していますが、多分欧米遍歴を含めての３年としているかと思います）。</p>
<p>ヨーガの里での修行と悟りの日々は、多い先生のヨーガの里に詳しく、また、村里、萩原、堀田、吉田講師の「カリアッパ師との対話をよむ、希望の言の葉」に、お任せして私は飛ばすことにします。</p>
<p align="left">かくして、生命の甦りを果たし修行を終えて、カリアッパ導師より「オラビンダー」覚者の聖名をいただきゴーグ村を離れる時、カリアッパ師は片手を天風の肩に置き「もし困ったことでも起これば、私の代わりに『もう一人のお前』が、それを解決してくれる。けして寂しがることはない」と優しく伝える。<br> 師と別れの際は「哭いたよ、声をあげて哭いたよ」という。　<br> 一説によると、カリアッパ導師は天風を送った後、ゴーグ村に戻ることなく行へ知らずとのこと。<br> <br> カリアッパ師に送られガンジス川を下りカルカッタを経由して上海へ向かい、密航が時効になるのを待って日本に帰国します。<br> （この間に、孫文の中国革命に同行して武漢を通り北京まで北上しています）<br> <br> ３８歳　８月帰国。<br> 船上から「霊峰富士山を見た時には、泣けて、泣けて仕方がなかったと回想しています。<br> ３９歳、密航の時効を待って晴れて中村三郎となり、帰国の挨拶に頭山満家に挨拶に行くと、<br> <br> 頭山夫婦は紋付着物で迎え上座に座わせて、翁は「あなたは選ばれた人じゃ。キリストは悟りたいために５か年、釈迦は６年、マホメットが７年、その間どこに行つたかわからなかった。<br> それで全く見違えるような立派な人間になってあらわれた。<br> あなたは自分自身をつくりかえて帰ってこられた。これは深い天の思し召しがあると思わなければいかん。<br> 『天のまさに大任をこの人にくださんとするや、必ずまずその志を苦しめる』まさにあなたがその通り。これからのあなたは、あなたの人生を生きるのではない。人の世のために生きるために、あなたは生まれ変わられた。おわかりになったか」と諭し、<br> <br> 頭山翁は天風と二人の時に、座席を改め天風に上座に座らせて「世の為、人の為に、汝は立つべし」と勧められる。それ以降、頭山翁は人前では「中村先生」と呼ぶようになる。<br> 「得意の居合い抜き天っ風のごとく天風と名乗れ」とし。<br> 以後は天風と名乗り始める。」<br> <br> 中村天風の誕生です。</p>
<p>４ヨーガの里ゴーグ村<br> 海外遍歴の中でのメインイベントは、やはりヨーガの里となります。<br>私は群馬の八木節で「ちょいと出ました三角野郎」の、おっちょこちょいのところがありまして、天風先生が４３歳でビジネス界から身を引いて辻説法をはじめたのを真似して、よし、俺も４３歳でビジネス界から一線を引き、天風先生の行かれた足跡を追い始めました。<br> <br>事始めに天風会西部地区が企画した「ヨーガの里を訪ねて」で、アメリカから参加させてもらいまいた。<br> まず、NYから１４時間飛行して護国寺に立ち寄り、天風先生のお墓まいりをし、お墓の小石を数個いただき、また昭和４４年の「志るべ」誌「哲人追悼号」のコピーを、懐にしてヒマラヤに向かいました。小石は清らなメマム川へ、追悼号は一枚一枚切り開いて、ヨーガの里に報告と意気込んでの出発でした。</p>
<p align="left">東京から９時間半飛行してニューデリーで、大阪天風会の一行と合流し、そこから更に西方に２時間バクドグラ空港に行き、待機していたマイクロバスで４時間揺られ、標高２千メートルの山々の峠を越えてヒマラヤの麓、紅茶で有名なダージリン到着しました。</p>
<p align="left">途中に標高２５９０メートルの丘にあるタイガーヒル見晴台から、ヒマラヤ連峰の東の端に位置します、第３の高峰カンチェンジュンガ、（８６１６）メートルの霊峰を遠望しました。<br> この時に一行２０名から同時に出た言葉は、「天風先生、来ましたよ！」でした。みな興奮してハイになっていました。</p>
<p align="left">翌日、目的地ゴーグ村へ、ダージリンから標高２千メートル尾根をジープに揺られながら西南に２０キロ走り、インドとネパールの国境の村マネパンジアン到着。そこから徒歩で国境の遮断棒をくぐり、８０メートルほど行くと、小さな出入国検問所がありまして、我々はネパールのビザを取得していませんでしたのでこれ以上は進めませんでした。</p>
<p align="left">そこで、旅行ガイドに交渉させ、入国１時間以内という特別な黙認許可をもらいネパール領に入りました。</p>
<p align="left">ゴーグ村はここから更に２０キロ先、山道になれない我々の足では５時間かかるとのことでした。</p>
<p align="left">それでもゴーグ村に続く山道を一歩そして一歩と近づいて行き、ゴーグ村まであと３つの山を挟んだ手前の、見晴らしのいい斜面が、我々の到達点でした。</p>
<p align="left">そこで３つ目先の谷間のゴーグ村を眺めながら、一同プラナヤマの誦句を唱和し、天風先生と同じ空気を共有してきました。<br> <br> 私がよかったと思ったのは山々の風景が日本の山々とよく似ていた事でした。<br> ゴーグ村を下見に行かれたインド人旅行ガイドに墓石を渡しメハム川の川底に約束をしながらダージリンの街を歩いてたら、彼が写真館の前でぴたりと足を止め、ウインドウの写真を指差し「ここです。まさにこの風景です」言われたので、写真屋に交渉して買ってきました。<br> <br> この写真を杉山先生にお見せしましたが、皆様にもお見せしたく持参しました。ここがそうです。到達できず無念はありましたが満たされました。</p>
<p align="left">その後、我々の無念を晴らすかのように、東京本部から第二陣、第二陣が結成され、今度はネパールの西側から入りゴーグ村まで行かれました。</p>
<p align="left">ここで、２つだけお話ししたいのですが、国境の村マネバンジャに小さな祠がありまして、そこで坐像がありました。<br> 遠くはるばる来たのだから、せめて一つのおみやげ話に、それがカリアッパ導師であってくれと祈る気持ちでのぞきましたが、一眼見て印の組み方の違いからラマ僧と分かりました。これには落胆しました。<br> <br> 第2陣で行かれたリーダーも、やはり私と同じ思いだったのでしょう、祠の坐像を写真に撮り、確かめもせず、ミスリードして「カリアッパ導師」の写真として「志るべ」誌に掲載しました。</p>
<p align="left">私は同じ祠を見た者として、カリアッパ師の尊厳にかけ「志るべ」に間違いを指摘しました。<br> <br> 更には、２陣、３陣に行かれた、吉田勝昭さんによると、ゴーグの場所自体が、ここでなくもう少し南下のヨーガ部落なのではと提起しました。これには参りました。<br> <br> パラマハンサヨギの著書「あるヨギの自叙伝」の中で、そのあたりヨーガ部落に「昔サムライが修行していた」と１行だけ書いていますので、吉田さんのいうここら辺りがそうなのかなと思ってみたりしました。</p>
<p align="left">これはコーグ村の位置を根本から覆す見解で、私は全くわからず、吉田さんも追求しきれずでしたので、初めて吉田さんのお会いした時に、ヨーガの里は『天風神話』にしましょうと提案させてもらいました。<br> この辺りの各所がヨーガの里なのですから神話でいいのです。<br> <br> 余談ですが、ヨーガの里まで行ったご褒美として、京都支部の伊達静様（テニスの伊達公子さんの大叔母さん）が、円相のお軸をアメリカまで贈ってくれました。<br> 伊達様は１０２歳で帰霊しましたが、天風先生より長生きしてしまい申し訳ない申し訳ないと言っていました。<br> １００歳の時にお祝いの電話をしましたら、不機嫌そうにまだ９８歳ですと返され、あ、あ、そうですねと、京都茶を濁しました。<br> <br> 以上が、ヨーガ神話物語です。</p>
<p align="left">５<br> 説法三昧は上野公園の樹下石上から始まります。</p>
<p align="left">１９１９年（大正８年）天風先生４３歳。<br> 「日本の精神文化に貢献したい」、「真理にふれたら、人を救わずにはおられない」「教えの原理があればなにもインドに行かなくても人を救えることができる」。<br> その救いの原理はなにか。どうすべきか、"How to say"から" How to do "へ、8年をかけて心身統一法が創意しました。<br> <br> 妻にこの仕事に自分の命をかける決意を述べ、一切の社会的地位と財産を整理して世ため人のため単身で、妻子２人を含む５人の弟子から始めました</p>
<p align="left">６月８日、朝九時、天風先生が妻・ヨシ子に向かい、<br> 「おい、今朝から始めるんだ」<br> 「何で今日からお始めになさいますの」<br> 「お釈迦様は７月８日に始めたというから、俺は６月８日だ。にぎり飯をこさえてくれ、にぎり飯を」<br>かくして、上野公園の花園稲荷神社の鳥居のはす向かい、青葉茂る樹下石上に、草鞋に脚絆姿で仁王立ちになり、右手に持った鐘を鳴らし「道行く人よ、来たれいざ」と、第一声を上げました。<br><br> ３ヶ月間、毎日握り飯を持って上野公園の樹下石上と、日比谷公園の大隈重信の銅像の前で大道説法を行い「寒風吹きすさぶ暮れせまる街頭で６０歳を越えたたった一人の女性のために統一道を説いた事もある」と感慨深く語っている</p>
<p>この信念と決断はすごいものです。ここから天風哲理のすべてが始まります。<br> （私に時代考証ですが）妻の「何で今日からお始めになさいますの」に対し、江戸っ子で粋な天風先生ですから、口にこそ出しませんでしたが、８年前の今日が、己の命を救ってくれたカリアッパ導師と出会った運命の日という熱き想いがあったからと推測します。</p>
<p>私は護国寺に行く折に、先生のお墓まいりしますが、私はどちらかと言いますとこちらの上野公園の樹下石上方が好きでよく行かせてもらっています。お墓は死ですが、ここは天風哲理が産声を上げた樹下石上だからです。<br> <br> 私は出張で日本に帰る度に、上野公園の見えるパークサイドホテルに常住し、毎朝ここまで散歩して石上に座り、先生の信念と決断を偲んでいます。同時に石の上に座り私の信念をリチャージしています。できることならこの石上の横に、「天風哲理発揚の地」と、記念碑を建てたく思うのですが、まだ気が熟していません。<br> 余談ですが；（パークサイドホテル主人は、かつて天風会員で、ここでも仲間が集会したそうです）</p>
<p align="left">６</p>
<p align="left">１９４５年（昭和２０年）６９歳。<br> ８月、終戦。<br> <br> 皇居城内で起こった「終戦玉音放送録音盤秘話」がありますが、今回はここでは省略させてもらいました。<br> ご興味のある方は大井満氏の「新機を転ず」の「終戦前夜の反乱」か、私の「Ten Fu Online」に転載していますので、こちらをどうぞ。<br> <br> 戦前は政治問題、社会な紛争事件等に関与していたが、戦後は一転しひたすら真理のみを見つめ、人間としてのあるべき姿を説いてゆくことになる。真理の道そのものが全てとして説法三昧を展開してゆくことになります。<br> <br> １０月、虎の門ビルで戦後初めての講演を再開。以後、焼け跡の各所に会場を求めて毎月講演会を行い、戦後の荒れ果てた精神の建て直しに立ち向かう。<br> <br> 戦争には反対を貫き東条首相にも直言して憎まれ、特務機関から危険人物と睨まれるほどでしたが、戦争が終結すると戦犯の責任問題が渦巻くなかで一切批判する事無く、会員にも日本を批判すること無く黙って国の再建を促す。<br> <br> A級戦犯となった広田広毅元首相（玄洋社の先輩）を、巣鴨プリズンに見舞った折り、東京裁判で何の弁明もすることなく黙って超然と死して行くことを助言する。<br> <br> ４３６人の言論家リストなかで、一人だけパージを受けずにすむが、公開講演を大きく規制されたため、この機に弟子たちに残すための天風哲理の出筆を始める。</p>
<p align="left">１９４７年（昭和２２年）７１歳。<br> GHQマイケル・ハーガー中将の要請により、元毎日新聞地下ホールでGHQの幹部約２５０人を対象に３日間の講話をする。<br> <br> たまたま来日中で同席していたロックフェラー三世に大きな感動を与え、繰り返し、繰り返しアメリカに招かれるが、日本で信念することがあるとしてこれに応ずることがなかった。</p>
<p align="left">４月、「真人生の探究」出版。講演活動を全国的に展開。<br> <br> １９４８年（昭和２３年）７２歳。<br> ４月、「研心抄」を出版。<br> ４月、護国寺の月光殿を拝借して毎月講習会を開く。戦後になり天風会の会費が安くなり一般にも解放される。</p>
<p align="left">１９４９年（昭和２４年）７３歳。<br> ４月、「練身抄」を出版。<br> <br> 一般講演ができない戦時期に、天風哲理を体系的に解説した「真人生の探究」、心のあり方を説いた「研心抄」、身体のあり方を説いた「錬身抄」を、「天風三部作」として集大成させる。<br> <br> ４月、「志るべ」誌、神戸創刊し６月から東京本部で発行。</p>
<p align="left">１９５３年、（昭和２８年）７７歳。夏、「安定打坐考抄」を出版。<br> <br> １９５５年（昭和３０年）７９歳。<br> 夏期修練会に東京で六百数十人、神戸で六百数十名、大阪で五百数十名と、２千余人に近い参加者となり終戦後１０年にして盛況をみる。</p>
<p align="left">１９５６年（昭和３１年）８０歳。<br> ８０歳過ぎて長生きの確信を得てから初めて長寿法についての教義を始める。<br> <br> １９５７年（昭和３２年）８１歳。６７年前。<br> ７月、「天風誦句集（黒）」発行。<br> <br> １９５８年（昭和３３年）８２歳。<br> ６月、「哲人哲語」（１９４８年〜５５年「しるべ」誌の巻頭２９編のエッセー）を出版。</p>
<p align="left">１９６１年（昭和３７年）８５歳。<br> ２月、６１年間連れ添った妻ヨシ子が逝去。享年７８歳、護国寺の中村家の墓の左側に妻に贈った銘碑が刻まれている。<br> 「先天一気即霊源　無作意而行自然　人生亦此制濤中　一切還元帰大霊」、この詩は色紙に書いてくださるよう頼まれても、妻に捧げたものとして誰にも書き贈る事はなかった。<br> <br> １２月、「箴言注釈」（改訂版「叡智のひびき」）発行１９５７年〜６１年「しるべ」誌、３１回の箴言。後に日めくりカレンダーとなる。</p>
<p align="left">１９６２年（昭和３８年）８６歳。公益性が認められ「財団法人天風会」となる<br> 「自らを世に売り込むようなことはしたくない。縁ある者だけを、全力を尽くしてお教え説きたい」とし、当初より宗教法人にする考えはなかった。<br> <br> ７月、「真理践行句集（緑）」発行。６２年前。<br> <br> １９６５年（昭和４１年）９０歳。<br> ４月１９日の教義で、現在只今の時点で心身統一法を論理組織で説いているのは世界でただ一人であると断言<br> （「天風先生座談」、宇野千代著）。<br> <br> １９６７年（昭和４２年）９１歳。<br> ４月、護国寺月光殿にて「神人冥合」講演を収録。<br> ９月、「誦句集」英語版を発行。<br> ８月、全国を講演に回りながら暗黙のうちに会員らにお別れが始まる。<br> 西部地区での最後になった修練会に来られた時、会員がマッサージした足がいつもと違い冷たいことにじきに<br> 来る死を予感する。<br> <br> 「新箴言注釈」（改訂版「真理のひびき」）発行。<br> 後に日めくりカレンダーになる。<br> <br> １９６８年（昭和４３年）９２歳。<br> ４月、会員たちの尽力で護国寺門前に天風会館が落成。<br> 落成を目の前にして、「心身統一法という天風哲学を自分以上に熱心に実践した人間はいない。また、だからこそ自分以上に人の心に深く伝えられる人間もいない。従って天風の２代目はいないのだから、これから先は天風会館を、自ら一人ひとりが心身統一法を学ぶ教えの殿堂としていってほしい」。<br> <br> 落成時の挨拶に会員たちの気持に感謝しながらも「法を説くのに殿堂はいらず」と、辻説法初心の気迫を吐く。<br> １１月１０日、創立５０周年記念祝賀会を開催し天風が総裁、安武貞雄を二代目会長に就任。<br> 　<br> 遺言ともとれるお言葉に；「天にへいとして輝く日月にかわりはない。俺は月を見よと指差して教えた。全国の会員に伝えよ。指を見ないで月をみよ。俺が指さそうと安武会長が差そうとも、真理の月にかわりはない」<br> １１月３０日、正午に英語の勉強の際、Probably と Perhaps のニュアンスの違いを、安武会長に質問し、その回答に「よしわかった。Thank you.」と、死の直前まで勉学され、この言葉が安武会長と交わした最後の会話となる。<br> <br> １２月１日、「今から寝るからじっとみておれ」と、午前１時５５分に帰霊。<br> 両足をさすられながら、誠に静かな大往生だった。<br> 清らな美しい眼出で黒目はあくまでも黒く白眼はあくまでも白く、濁りも充血もなく幼児の目のようであったという。老衰死。<br> <br> 「俺が仮にこれから十年、二十年と生きてみたところで、過ぎたその時になってみれば、今と同じことだと思う。人間の寿命は望んだからといって得られるものでもない。俺は俺の教えを一生懸命教えてきた。俺もその教え通りに怠らずやってきた。そして今度の病になってから、人の心の強さが人生にとっていかに大切であるかを一層よく知った。今は俺の教えが正しく世の中に伝えられることを望んでいる」。<br> <br> 直接薫陶を受けた者は全国で百万人を数え、皇族をはじめ、大臣、実業家、学者、軍人、人間国宝や文化勲章者、落語家、俳優、相撲取り、金メダリスト、スポーツ選手、小説家、サラリーマン、市井の人々に及ぶ。<br> <br> １２月７日、１２時３０分より天風会館にて、財団法人天風会葬、告別式。<br> 葬儀委員長に重宗雄三参議院議長、友人代表に笹川良一氏、一万三千本の白菊の生花で富岳をピラミッド型に造られ祭壇の中央に「天風哲人」記され額に遺影が置かれた。<br> <br> その前で粛然献花する会員、惜別無限の情はまことに胸せまる情景であった。<br> 真理を説いて五十年、人の幸福と世の平和を願った哲人ここに静かに帰霊なされた。<br> （「志るべ」誌、哲人追悼特別号、大井満記）<br> <br> １９７３年（昭和４８年）帰霊５年。<br> 「真理瞑想録」第１巻を創刊開始。生前４０年にわたる夏期修練会での真理瞑想行の示教を集録。<br> <br> １９７８年（昭和５３年）帰霊１０年。<br> 「真理瞑想録」第１３巻発行。１９７３創刊〜７８年第１３巻。<br> <br> １９８８年（昭和６３年）帰霊２０年。<br> 天風会創立７０周年に「真理瞑想録」１３巻を会員向けに合本編集して出版。<br> <br> ９月「成功の実現」中村天風述（日本経営合理化協会刊）が、ベストセーラとなり第二次天風ブームを巻き起きおこり、関連著書がたくさん出版される。<br> <br> １９９４年（平成４年）に「真理瞑想録」改訂版として「運命を拓く」講談社から刊行され文庫本となる。</p>
<p align="left">天風述；「諸君にいいたいのは、恵まれた幸運に、いい気になって、自己研磨を怠ってはいけない。<br> やがて２１世紀が来たら、思想的にも、アイデアに方面にも、必ずや、世界をリードするだけの権威ができると、私は確信している」「私が三寸息絶えて、何百年の後に、世界中が、みな宇宙霊との一体の実行者に、必ずなると確信を持っている！」</p>
<p align="left">７</p>
<p align="left">１９４５年（昭和２０年）６９歳。<br> ８月、終戦。<br> <br> 皇居城内で起こった「終戦玉音放送録音盤秘話」がありますが、今回はここでは省略させてもらいました。<br> ご興味のある方は大井満氏の「新機を転ず」の「終戦前夜の反乱」か、私の「Ten Fu Online」に転載していますので、こちらをどうぞ。<br> <br> 戦前は政治問題、社会な紛争事件等に関与していたが、戦後は一転しひたすら真理のみを見つめ、人間としてのあるべき姿を説いてゆくことになる。真理の道そのものが全てとして説法三昧を展開してゆくことになります。<br> <br> １０月、虎の門ビルで戦後初めての講演を再開。以後、焼け跡の各所に会場を求めて毎月講演会を行い、戦後の荒れ果てた精神の建て直しに立ち向かう。<br> <br> 戦争には反対を貫き東条首相にも直言して憎まれ、特務機関から危険人物と睨まれるほどでしたが、戦争が終結すると戦犯の責任問題が渦巻くなかで一切批判する事無く、会員にも日本を批判すること無く黙って国の再建を促す。<br> <br> A級戦犯となった広田広毅元首相（玄洋社の先輩）を、巣鴨プリズンに見舞った折り、東京裁判で何の弁明もすることなく黙って超然と死して行くことを助言する。<br> <br> ４３６人の言論家リストなかで、一人だけパージを受けずにすむが、公開講演を大きく規制されたため、この機に弟子たちに残すための天風哲理の出筆を始める。</p>
<p align="left">１９４７年（昭和２２年）７１歳。<br> GHQマイケル・ハーガー中将の要請により、元毎日新聞地下ホールでGHQの幹部約２５０人を対象に３日間の講話をする。<br> <br> たまたま来日中で同席していたロックフェラー三世に大きな感動を与え、繰り返し、繰り返しアメリカに招かれるが、日本で信念することがあるとしてこれに応ずることがなかった。</p>
<p align="left">４月、「真人生の探究」出版。講演活動を全国的に展開。<br> <br> １９４８年（昭和２３年）７２歳。<br> ４月、「研心抄」を出版。<br> ４月、護国寺の月光殿を拝借して毎月講習会を開く。戦後になり天風会の会費が安くなり一般にも解放される。</p>
<p align="left">１９４９年（昭和２４年）７３歳。<br> ４月、「練身抄」を出版。<br> 一般講演ができない戦時期に、天風哲理を体系的に解説した「真人生の探究」、心のあり方を説いた「研心抄」、身体のあり方を説いた「錬身抄」を、「天風三部作」として集大成させる。<br> <br> ４月、「志るべ」誌、神戸創刊し６月から東京本部で発行。</p>
<p align="left">１９５３年、（昭和２８年）７７歳。夏、「安定打坐考抄」を出版。<br> <br> １９５５年（昭和３０年）７９歳。<br> 夏期修練会に東京で六百数十人、神戸で六百数十名、大阪で五百数十名と、２千余人に近い参加者となり終戦後１０年にして盛況をみる。</p>
<p align="left">１９５６年（昭和３１年）８０歳。<br> ８０歳過ぎて長生きの確信を得てから初めて長寿法についての教義を始める。<br> <br> １９５７年（昭和３２年）８１歳。６７年前。<br> ７月、「天風誦句集（黒）」発行。<br> <br> １９５８年（昭和３３年）８２歳。<br> ６月、「哲人哲語」（１９４８年〜５５年「しるべ」誌の巻頭２９編のエッセー）を出版。</p>
<p align="left">１９６１年（昭和３７年）８５歳。<br> ２月、６１年間連れ添った妻ヨシ子が逝去。享年７８歳、護国寺の中村家の墓の左側に妻に贈った銘碑が刻まれている。<br> 「先天一気即霊源　無作意而行自然　人生亦此制濤中　一切還元帰大霊」、この詩は色紙に書いてくださるよう頼まれても、妻に捧げたものとして誰にも書き贈る事はなかった。<br> <br> １２月、「箴言注釈」（改訂版「叡智のひびき」）発行１９５７年〜６１年「しるべ」誌、３１回の箴言。後に日めくりカレンダーとなる。</p>
<p align="left">１９６２年（昭和３８年）８６歳。公益性が認められ「財団法人天風会」となる<br> 「自らを世に売り込むようなことはしたくない。縁ある者だけを、全力を尽くしてお教え説きたい」とし、当初より宗教法人にする考えはなかった。<br> <br> ７月、「真理践行句集（緑）」発行。６２年前。<br> <br> １９６５年（昭和４１年）９０歳。<br> ４月１９日の教義で、現在只今の時点で心身統一法を論理組織で説いているのは世界でただ一人であると断言。<br> （「天風先生座談」、宇野千代著）。<br> <br> １９６７年（昭和４２年）９１歳。<br> ４月、護国寺月光殿にて「神人冥合」講演を収録。<br> ９月、「誦句集」英語版を発行。<br> ８月、全国を講演に回りながら暗黙のうちに会員らにお別れが始まる。<br> 西部地区での最後になった修練会に来られた時、会員がマッサージした足がいつもと違い冷たいことにじきに<br> 来る死を予感する。<br> <br> 「新箴言注釈」（改訂版「真理のひびき」）発行。<br> 後に日めくりカレンダーになる。<br> <br> １９６８年（昭和４３年）９２歳。<br> ４月、会員たちの尽力で護国寺門前に天風会館が落成。<br> 落成を目の前にして、「心身統一法という天風哲学を自分以上に熱心に実践した人間はいない。また、だからこそ自分以上に人の心に深く伝えられる人間もいない。従って天風の２代目はいないのだから、これから先は天風会館を、自ら一人ひとりが心身統一法を学ぶ教えの殿堂としていってほしい」。<br> <br> 落成時の挨拶に会員たちの気持に感謝しながらも「法を説くのに殿堂はいらず」と、辻説法初心の気迫を吐く。<br> １１月１０日、創立５０周年記念祝賀会を開催し天風が総裁、安武貞雄を二代目会長に就任。<br> 　<br> 遺言ともとれるお言葉に；「天にへいとして輝く日月にかわりはない。俺は月を見よと指差して教えた。全国の会員に伝えよ。指を見ないで月をみよ。俺が指さそうと安武会長が差そうとも、真理の月にかわりはない」<br> １１月３０日、正午に英語の勉強の際、Probably と Perhaps のニュアンスの違いを、安武会長に質問し、その回答に「よしわかった。Thank you.」と、死の直前まで勉学され、この言葉が安武会長と交わした最後の会話となる。<br> <br> １２月１日、「今から寝るからじっとみておれ」と、午前１時５５分に帰霊。<br> 両足をさすられながら、誠に静かな大往生だった。<br> 清らな美しい眼出で黒目はあくまでも黒く白眼はあくまでも白く、濁りも充血もなく幼児の目のようであったという。老衰死。<br> <br> 「俺が仮にこれから十年、二十年と生きてみたところで、過ぎたその時になってみれば、今と同じことだと思う。人間の寿命は望んだからといって得られるものでもない。俺は俺の教えを一生懸命教えてきた。俺もその教え通りに怠らずやってきた。そして今度の病になってから、人の心の強さが人生にとっていかに大切であるかを一層よく知った。今は俺の教えが正しく世の中に伝えられることを望んでいる」。<br> <br> 直接薫陶を受けた者は全国で百万人を数え、皇族をはじめ、大臣、実業家、学者、軍人、人間国宝や文化勲章者、落語家、俳優、相撲取り、金メダリスト、スポーツ選手、小説家、サラリーマン、市井の人々に及ぶ。<br> <br> １２月７日、１２時３０分より天風会館にて、財団法人天風会葬、告別式。<br> 葬儀委員長に重宗雄三参議院議長、友人代表に笹川良一氏、一万三千本の白菊の生花で富岳をピラミッド型に造られ祭壇の中央に「天風哲人」記され額に遺影が置かれた。<br> <br> その前で粛然献花する会員、惜別無限の情はまことに胸せまる情景であった。<br> 真理を説いて五十年、人の幸福と世の平和を願った哲人ここに静かに帰霊なされた。<br> （「志るべ」誌、哲人追悼特別号、大井満記）<br> <br> １９７３年（昭和４８年）帰霊５年。<br> 「真理瞑想録」第１巻を創刊開始。生前４０年にわたる夏期修練会での真理瞑想行の示教を集録。<br> <br> １９７８年（昭和５３年）帰霊１０年。<br> 「真理瞑想録」第１３巻発行。１９７３創刊〜７８年第１３巻。<br> <br> １９８８年（昭和６３年）帰霊２０年。<br> 天風会創立７０周年に「真理瞑想録」１３巻を会員向けに合本編集して出版。<br> <br> ９月「成功の実現」中村天風述（日本経営合理化協会刊）が、ベストセーラとなり第二次天風ブームを巻き起きおこり、関連著書がたくさん出版される。<br> <br> １９９４年（平成４年）に「真理瞑想録」改訂版として「運命を拓く」講談社から刊行され文庫本となる。</p>
<p align="left">天風述；「諸君にいいたいのは、恵まれた幸運に、いい気になって、自己研磨を怠ってはいけない。<br> やがて２１世紀が来たら、思想的にも、アイデアに方面にも、必ずや、世界をリードするだけの権威ができると、私は確信している」「私が三寸息絶えて、何百年の後に、世界中が、みな宇宙霊との一体の実行者に、必ずなると確信を持っている！」</p>
<p>８<br> 運命を拓く<br> <br> 再度、本お追っかけに戻りますが、冒頭でも話しました、「天風誦句集」について、私の考えを話してみます。<br> <br> 「天風誦句集」は、<br> １９５７年（昭和３２年７月）の６７年前発行され、我々の聖書のようなものですが、さすがに今では文体や語彙に古い表現がありますので、これを若い人に読めと言っても少々無理があります。<br> ２０１５年（平成２７年７月）５８年後に大版となって発行されました。<br> 私はついに改定版が出たかと、おおいに期待したのですが、読んで驚きました。一言一句も同じでした。会員の方は、なんと真摯で真面目で信心深いことかとし感心してしまいました。</p>
<p></p>
<p>一方の「天風瞑想録」ですが：<br> １９７８年（昭和５３年５月）に４６年前、天風瞑想録１３巻を発行。<br> １９８８年（昭和６３年４月）１０年後に合併本が発行されました。<br> １９９８年（平成１０年６月）またして１０年後に「運命を拓く」として講談社から出版され大ベストセラーとなり、更に文庫本となり本屋に平積みになっています。<br> 　　　　　　　　　</p>
<p>「運命を拓く（天風瞑想録）」と「天風誦句集」との違いですが：</p>
<p>１、「運命を拓く」方では、「神仏」の箇所はすべて「宇宙霊」統一しています。<br> ２、我々は慣れてしまって気がつきませんが、「運命を開く」には「誓いの言葉」と「プラナヤマの誦句」、最後のページの「安定打密法の真諦」の和歌がありません。<br> ですから天風会員でなくも、いま話題の大谷翔平選手にも広く受け入れられ、</p>
<p>ベストセーラーになっていまして、天風会員だけでなく会員を超えています。<br> 「運命を拓く」は、安定打坐と心身統一体操の動入がなく理入となっています。　<br> <br> ３、「誓いの言葉」でも、「平和と愛を失わざる」とありますが、「平和」でなく「調和」がふさわしいと思います。<br> 平和はピースでして、調和はハーモニーです。<br> 戦後当時は、戦争に疲れ「平和」、「平和」の「平和絶対で、平和を叫ばねばならないご時世でしたので、天風先生も影響を受けざるを得ませんでしたが、しかし「真善美」明らかに「誠と愛と調和」です。<br> したがって「平和」は「調和」に置き換えてはいかがなものでしょう。<br> 心身統一体操でも「平和体操」の名称も、いつしか「積極体操」変わっています。<br> <br> 「天経懇」は、天風会の外郭団体とのことですので、「私の誦句」を公開します。<br> 私はこのように変えて誦句しています。</p>
<p>誓いの言葉<br> 今日一日　<br> 怒らず、恐れず、悲しまず<br> 正直　親切　愉快に　<br> 力と　勇気と　信念とをもつて<br> 自己の人生に対する　責務を果たし</p>
<p>誠と　愛と　調和に　満たされた　（平和と愛とを失わざる）<br> 立派な真人として　生きることを　（人間）<br> 自分自身の　厳かな誓とする。</p>
<p>て、ことで「運命を拓く（天風瞑想録）」と「天風誦句集」を、語彙を統一させたらと考えます。</p>
<p></p>
<p>　上野恩賜公園 　</p>
<p>　１９１９年、大正８年６月８日、きれいに晴れ上がった心地よい朝、和服と袴のいでたちで草鞋に脚絆姿の男が、妻のこしらえた握り飯を風呂敷に包み、本郷の自宅から池之端を通りぬけ五條天神社の坂をあがり、花園稲荷神社の鳥居の右斜め前の石上で仁王立ちになり、右手にもった鐘をガランガランと鳴らし「道行く人よ、来たれいざ」と、第一声をあげました。<br> 　この男は何者かと立ち止まった数人に向かい、バナナの叩き売りのような調子で；「おい、そんなところに立っていないで、こっちにきな。往来の邪魔になるじゃないか。これからいい話しを聞かせてやるから、こっちにきな。安心しろ、銭は一文ももらわねえ」。<br> 「いいかい、人間の運命なんてものは、何時どうなるかわからんぞ。だから、ぼうっとして生きていたんじゃだめだぞ」。<br> 「健康なんかは、心の持ちよで必ず建て直すことができるんだ。運命だってそうだ、<br> 心一つの置きどころでねぇ、人間というものは、心の持ち方ひとつで、幸せにもなれるし、不幸にもなる。だからねぇ、どんな場合にも心を強く持っていれば、必ず道は開けてくるものなんだ」。　　　　　　　　　　　　　　　　<br> 　自ら命の甦りを果たした体験をもとに、病める者、悩める者、貧しき者を救おうと、本来あるべき人の道、命の道を説法し、「いいかい、続きを聞きたかったら、明日またきな。ゆっくり聞かしてやるから」と、締めくくりました。<br> 　するとたちまち無届け演説として上野警察署に引っ張られましたが、「私はこれから毎日のように説法をする。そのたびに届けを出しているわけにはいかない。話しの内容を聞いてくださればわかる」と署内で演説した結果、「交通妨害せざる限り、上野警察署管内においては差し支えない」との許可書が発行されました。<br> 　こうして晴れた日も雨の日にも大道説法が続き、なかには５分とたたぬうちに「この野郎、頭がおかしいんじゃないか」と立ち去る人、「時には寒風吹きすさぶ暮れ迫る街頭で、６０歳を越えたたった一人の老婆のために人の道を説いたこともあった」が、<br> 一方で立ち去り難く興味深げに聞いてくれる聴衆が少しずつ多くなってゆくことに手答えを感じていました。<br> <br> 　上野恩賜公園の樹下石上を家となす決意をしたこの男、中村天風はかつて東京実業貯蔵銀行の頭取、電灯会社や製粉会社などいくつかの経営に携わった実業家で、紳士録にも名を連ねていたが、すべての事業を整理し、地位や名誉を捨て、大道説法をはじめたのはいったい何故なのか。<br> 　中村天風は、九州柳河藩主の立花鑑徳を祖父に持ち、明治９年に東京北区王子の紙幣官舎で育ちました。上野界隈で幼年期を過ごし、６歳にして御徒町の今泉八郎道場に通い剣と儒学を学び、湯島小学校を卒業しています。<br> １５歳の時に福岡の修猷館中学を退学後は、日露戦争前に軍事探偵として満蒙で活躍。帰還した３０歳の時に悪性の奔馬性肺結核を発病、当時の最高権威であった北里柴三郎から余命３年と見放され「かくなる上は武士らしく死ね」と宣告されました。<br> 　かつて満蒙の奥地軍事偵察をしていた頃は、勇猛で死などまったく恐れなかったが、結核を患いすっかり痩せ細り気弱で哀れな男になり下がってしまった。どうせ助からぬ命なら、どうにかして以前のような頼もしい勇猛な強い心を取り戻してから死のうと思いたち、日本の著名人をはじめアメリカと欧州各国を遍歴し、当代先鋭の哲学者、心理学者、生命科学者、宗教家を訪ね歩きましが、三年の遍歴で知り得たものはごくわずかで、強い心を再生する答を得られませんでした。<br> 　世界三分の二を訪ね歩いても救われぬ我が身に絶望し、失意のうちに帰国を決意し、桜の咲く国、富士山の見える国に帰ろう、せめて日本の土で死のうと地中海の船上にいました。<br> 　その帰郷の途上でたまたま前を行くイタリアの砲艦が、スエズ運河で座礁したため、やむなくエジプトのホテルに宿泊することになり、その食堂で英国王室の招きでヨーガを伝授して帰路についていた大聖者カリアッパ導師に遭遇し、導師は微笑みながら天風をテーブルに手招きして、「お前は右の胸に病を持っているね。日本に死に逝くのか、お前はまだ死ぬ運命じゃない。救われる道を知らないでいるから、私と一緒においで」と、一筋の光が差し出されました。　<br> 　翌日、導師に連れられ三ヶ月後にヒマラヤ秘境のヨーガの里に入り、１年７ヶ月にわたる言語を絶する難行苦行のすえに命の甦りを果たしました。<br> 　「もし、あのまま日本へ帰ってきちゃったとしたら、私の今日もある道理がなく、あなた方も私と一緒に喜びの人生を味わうことができずに終わったでしょう。マルセイユを発って２週間、因縁ですよ。どう考えてみても、事実は小説より奇なりであります」と、講演のときに瞳を潤ませながら話す起死回生のドラマでした。<br> 　この導師と遭遇した運命の日が、ちょうど８年前に遡る６月８日の朝でした。そうであればこそ己の命を甦らせてくれたこの日を、大道説法の門出に選ばれたのでしょう。　　　　　真理に目覚めた者は人を救わずにいられない。導師は天風との別れの際に、「そなたの体験と行法をもって、世の人々を救え。もし困ったことが起きても、もう一人のお前が、それを解決してくれる」と諭しています。<br> <br> 　今でこそヨーガは一般に知られていますが、当時の天風はヨーガがなんたるものか、ヒマラヤ山麓のどこで修行しているのかさえ知りませんでした。そのような状況にもかかわらず、優れた導師から本格的な修行をさせてもらい、ヨーガの覚者にまで大吾し、命の甦りを果たしたという事実は、世界でも例のないことでして、しかも導師のヨーガは諸流派のなかで最も精神性の高い教えでした。<br> 　こうした偶然が重なり、天風はこれまで密法とされてきた正統ヨーガを、日本で最初に持ち帰った人となりました。<br> 　これはもう選ばれし者としか思えません。しかし、それだけのことなら一人のヨギー覚者として半生を終えたにすぎませんが、天風は命の甦りを果たして帰国した後、ヨーガでなぜ己の命が再生できたのかと根本原理の探究をはじめ、自身の体験をもとに難解なヨーガ密法を、医学と心理学の幅広い知識から人間が本来あるべき道、命の道を、誰もが日常生活のなかで容易に実行できるように集大成させて行きました。<br> 　こうして大道説法をはじめて５カ月ほどたったある日の事、説法を終えて帰り支度をしていたところに、背広姿の一人の若い紳士が、「いつもお話しを聴かせていただいています」と丁寧に挨拶し、「実はお願いがありまして、我々の友人のあつまりに桜倶楽部というのがあるのですが、そこで是非こういうお話をしていただきたい」と、問いかけてきました。<br> 　天風は快諾し約束の日に、丸の内の日本工業会館の中にあった桜倶楽部で、政財界の名士を前に３時間の講演したのを機に、「これは大道で聴く話じゃない」と、多くの賛同者と聴衆を次々に得て行くことになりました。<br> 　これが後に、財団法人「天風会」に発展してゆき、昭和四十三年、天風９２歳で生涯を閉じる５０年間に、直接薫陶を受けた者、皇族をはじめ、大臣、実業家、学者、軍人、人間国宝、文化勲章者、落語家、俳優、相撲取り、金メダリスト、スポーツ選手、小説家、サラリーマン、市井の人々、全国のべ百万人に及ぶと『哲人追悼特別号』に記載されています。上野恩賜公園の樹下石上で産声を上げた心身統一法が、大きく生成して行きました。<br> 　天風は生前「ときどきあそこへ行って、あの石台を見ちゃあ、思わず熱い、胸にせきくるものを感じながら帰ってくるんです」と、懐述していました。<br> 　その石台は今もなお花園稲荷神社の鳥居前の街灯（東京LA−2-1）の奥に在ります。　　　石台の上に立って周りを見ますと、長く続く桜並木と上野森美術館から不忍池に通じる道が交差する小さな広場になっていて、路上に桜模様の道案内が描かれています。<br> 　６月と言えば青葉が茂り道行く人がその前を通り過ぎて行きます。なんでもない台石ですが、世のため、人のため、日本人の心の復興に生涯をささげたいと草鞋に脚絆姿で仁王立ちした天風の初志を、そのままに偲ばせています。<br> 　できることならば、百年の風雪を機に、この石台の横に銅板で、『誠・愛・調和／／中村天風／心身統一法発祥の礎石／／１９１９年６月８日』と、記念碑が刻まれることを、心から祈念しています。　　　　　　　　　　合掌<br> <br> 　</p>
<p>追記；スペイン風邪猛威の中での説法</p>
<p align="left">参考文献<br> おおいみつる「心機を転ず」春秋社<br> 橋田雅人「哲人中村天風先生抄」広済堂<br> 野口五十六「天風式ヨーガと瞑想のすすめ」幻冬舎<br> 天風会志るべ誌『哲人追悼特別号』<br><br><br></p>]]>
        
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    <title>飛天の塚　</title>
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    <published>2022-12-22T12:26:00Z</published>
    <updated>2022-12-22T20:03:17Z</updated>

    <summary>　本サイトで月一回のペースで書いてきました「第５部、天風師の面影」を、１２月をも...</summary>
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        <name>三休</name>
        
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        <![CDATA[<p><img alt="IMG_4429.jpg" src="/essay/IMG_4429.jpg" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" width="239" height="290">　本サイトで月一回のペースで書いてきました「第５部、天風師の面影」を、１２月をもって終了することにしました。<br>　その報告を込めて１２月初旬に、中村家と杉山彦一先生の「飛天の塚」に、お墓参りしてきました。<br> 　中村家のお墓には、天風会初代中村天風会長、２代目安武貞雄会長、３代目野崎郁子会長が納骨されています。４代目杉山彦一会長は、巣鴨霊園の共同墓地「飛天の塚」となっています。４代目で会長名義が無くなりましたので、杉山彦一が最後会長となりました。<br> 　また、毎年行われてきた墓前供養も天風会百周年をもって取り止めになりました。<br> 　１９８５年に私が天風会に参加した時は、杉山会長のもとでまだ天風師の温もりがあり、できるだけその面影を残そうとサイトに書き続けてきました。<br> 　しかし、今年３０年ぶりに鎌倉修練会に春秋と２度参加させてもらい、また東京の講演会に参加しました。そこで感じたことは天風師すでに書籍の中の人となりつつあり、さらに杉山先生の名講義を知る会員さえ少なくなっていました。<br>　時の流れを思えば当たり前のことなのですが、私にとりこれは衝撃でした。<br>　明治も昭和も遠くなり、もう「天風師の面影」を書き続けることもなくなったようですので、２０２２年１２月で終了とさせてもらうことにしました。これまでありがとうございました。<br> 　　　　　　　冬至の日、ミュンヘンの旅から。</p>]]>
        
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    <title>弗為胡成</title>
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    <published>2022-11-30T15:10:32Z</published>
    <updated>2023-01-20T13:21:15Z</updated>

    <summary> 　本著書は１９６１年に天風会に入会された服部嘉夫先生の米寿を祝い、会員有志によ...</summary>
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        <name>三休</name>
        
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        <![CDATA[<p><img alt="12:1.jpg" src="/essay/12%3A1.jpg" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" width="213" height="320"> 　本著書は１９６１年に天風会に入会された服部嘉夫先生の米寿を祝い、会員有志により２０２１年に出版されました。非売品のため千葉賛助会の吉田勝昭様からいただきました。<br> 　著書には服部先生の写真はもちろんですが、天風師の遺筆をはじめ、歴代の会長の遺影、現役会員の写真等が豊富に掲載されていました。<br> 　天風会に入門されてから６０年間、ひとすじに心身統一法を実践されてこられたことに敬服いたしました。また、これは戦後の天風会の歴史そのもので貴重な資料にもなっています。<br> 　私が１９８６年の日曜行集会に初参加した時、亡き天風師の温もりが残るなか、杉山彦一会長のもとで服部先生は講師をされていました。<br>　服部先生が指導する「呼吸操練」「統一体操」は、力強く、気がこもり、とても素晴らしくもので、今でも目に焼き付いています。<br> 　私は平成時代から「一人天風」を実践していまして、天風行修会をまるまる無沙汰してしまい、服部先生のご活躍を知らずにいました。３２年ぶりに鎌倉の行修会、東京の講演会に参加させてもらい、服部先生が天風会の大御所になっておられたことを拝見し誠に嬉しいかぎりでした。<br> 　「弗為胡成」、なさずんば、なんぞならん。明るく、朗らかに、統一道を実践し、誠に天晴れな人生を見させてもらいました。 　　　<br>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　天風師本命日に記す</p>
<p>追記；服部先生は２０２２年１２月２９日に逝去。<br>　　　お悔やみ申し上げます。<br><br></p>]]>
        
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    <title>得一日過一日</title>
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    <published>2022-10-31T15:02:00Z</published>
    <updated>2022-10-31T15:05:55Z</updated>

    <summary>　「得一日過一日」（一日を得て、一日を過ごす）は、昭和２８年に天風師が書かれたお...</summary>
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        <![CDATA[<p><img alt="TP39.jpg" src="/essay/TP39.jpg" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" width="98" height="300">　「得一日過一日」（一日を得て、一日を過ごす）は、昭和２８年に天風師が書かれたお軸です。<br> 　天風会京都支部に昭和２７年３月に入会された古参会員の伊達静様が、家宝として所蔵していたもので、私が２００３年１１月に伊達家を表敬訪問した折、京風のお屋敷に掛けられていたお軸でした。<br> 　「もしよろしければお持ちなされ」と言われ、果たして頂いていいものかと躊躇しながらも、ご好意に甘んじて持ち帰り、自宅の寝室に掛けて毎朝黙読していました。（伊達静さんは天風先生より長生きしてしまい申し訳ないと言われていましたが１０２歳で天寿をまっとうしました）。<br><img alt="IMG_4152.jpg" src="/essay/IMG_4152.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" width="225" height="319">　先日のこと、１９８５年に知人の紹介でニューヨークを訪問した方が、ホテルのロビーで初対面の私に「天風誦句集」をくださいました。その誦句集は、その後の私の人生に大きな影響を与えました。<br>　その恩人から「今年に入って１０時間にもおよぶ心臓の大手術をし、死線をさまよい名医に命を引き上げてもらった」と連絡を受けました。目下リハビリ中で、元気を取り戻しつつあり、医師から車の運転も許可されたとありました。すごい生命力です。<br> 　翌朝、私が打坐していた時にふと閃きがあり、このお軸は私よりこの方にこそ相応しいと思い至り、さっそく恩返しの思いを込めてお贈りしました。<br> 　７０年の時を経て、伊達様から私に、そして、いま時を得て恩人に渡りました。あたかも天風師が生きているかのようです。<br> 　先方から「一日千秋のおもいでお待ちしております」、「届きました。開けました。見とれました。床の間に掛けました。感激です。正にこの掛け軸と一心同体の毎日です。心から感謝いたします」と、連絡を受けました。</p>]]>
        
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    <title>力の結晶</title>
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    <published>2022-10-07T18:24:15Z</published>
    <updated>2022-10-07T18:57:07Z</updated>

    <summary>　先ずは心の準備運動として「力の結晶」を復読し、鎌倉秋の「誦句と瞑想」行修会に参...</summary>
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        <name>三休</name>
        
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        <![CDATA[<p><img alt="9:28.jpg" src="/essay/9%3A28.jpg" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" width="211" height="320">　先ずは心の準備運動として「力の結晶」を復読し、鎌倉秋の「誦句と瞑想」行修会に参加してきました。<br> 　今回も主催者スタップと参加者の真摯な姿勢に心を動かされました。この姿を参観できるだけでも行修会に来た意義がありました。<br> 　ただ、私は毎度の「真理瞑想」講義の時、慣れぬマスクをつけたままの安定打坐のためか、深呼吸ができずすぐさま寝入ってしまったことを反省しています。一つ心に残ったのは「現象の中には必ず実在ある」でした。<br> <img alt="IMG_4092-thumb-autox240-1975.jpg" src="/essay/IMG_4092-thumb-autox240-1975.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" width="188" height="240">　幸いにもに雲一つない秋晴れに恵まれ、希望者のみで２日目の早朝、富士山を眺めながら江ノ島のパワースポット巡りをしてくださいました。<br>　天風師も来られただろう島の最奥部にある岩屋まで行き、古くは弘法大師や日蓮上人も修行したといわれる江の島信仰発祥の地を崇められました。この２件だけで満たされた行修会でした。<br> 　それに春期行修の閉会式に帰宅列車を急ぐため途中で失礼した「力と　勇気と　信念だ！」の三唱を、今回はきちんと補填してきました。<br>　２０２３年の春も参加したく思っています。<br>（写真は岩屋の近くから富士山を仰ぐ）</p>]]>
        
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    <title>自覚から信念へ</title>
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    <published>2022-08-31T15:20:23Z</published>
    <updated>2022-09-30T00:24:42Z</updated>

    <summary>　鎌倉春期行修会と対になっている秋の「誦句と瞑想」行修会に参加することにしました...</summary>
    <author>
        <name>三休</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://www.tempu-online.com/essay/">
        <![CDATA[<p><img alt="IMG_3879.jpg" src="/essay/IMG_3879.jpg" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" width="320" height="185">　鎌倉春期行修会と対になっている秋の「誦句と瞑想」行修会に参加することにしました。<br> 　春期は「天風誦句集」黒色の小冊から「力の誦句」、「思考作用の誦句」、「運命の誦句」、「信念の誦句」を、真理瞑想の題材にしていました。<br> 　秋期は「自覚から信念へ」とさらに一歩踏み込みまして、杉山元会長が大学院コースとも言われた「真理行修誦句集」緑色の小冊の「瞑想篇」から、「自己本来の内省の悟」、「正しき活き方の自覚」、「幸福への誦句」、「安心立命への誦句」を、真理瞑想のテーマにして構成されています。<br>　「瞑想篇」は、私の好きな誦句集ですので、これは外すわけに行きませんので参加してきます。それに春期行修の閉会式に帰宅列車を急ぐため途中で失礼させてもらい肝心な締め「力と　勇気と　信念だ！」の三唱をやらずに帰宅しまった無念が残っていました。今回はその補填もあります。<br> 　いざ、鎌倉へ！</p>]]>
        
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    <title>真理瞑想、付録</title>
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    <published>2022-07-31T15:14:20Z</published>
    <updated>2022-07-31T15:15:33Z</updated>

    <summary>　６月のサイトに杉山元会長の真理瞑想を、第６部「創造的人生」として掲載しました。...</summary>
    <author>
        <name>三休</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://www.tempu-online.com/essay/">
        <![CDATA[<p>　６月のサイトに杉山元会長の真理瞑想を、第６部「創造的人生」として掲載しました。8月は真理瞑想の付録として書き留めてあったフレーズや落ちを記載しました。<br> 　これで私が書き起こした杉山瞑想録テープの全部となります；</p>
<p>「我が生命は大宇宙の生命と繋がっている」<br> 「活きて　活きて　活きて　ひたむきに活きて　生き抜く」<br> 「吉野山　ころんでもまた　花のなか」<br> 「時は命なり」<br> 「大宇宙は結合と建設、分解と還元を繰り返し、繰り返し、そして絶対の生を貫く」<br> 「私は宇宙霊と一体である」<br> 「同行二人」<br> 「自分自身に対する言葉、他人に対する言葉、宇宙霊に対する言葉、すベてに積極一貫」<br> 「口害を振りまくな」<br> 「３０、４０鼻たれ小僧、５０、６０花ならつぼみ、７０、８０働き盛り、９０を過ぎて迎えが来たら、１００まで待てと追い返せ」<br> 「楠千年ふたたび今日の若葉かな」<br> 「天風会は宗教ではないが、宗教的な焼きつくような信念を教えています」<br> 「修行は信念を創るため」<br> 「天風会は本体論から入ります。そのまま本人が強いのだとの断定から入りますから、スカットしていて極めて爽快で天風先生的ですね。現象界から入りますと、現象界がどうにもならないから、神仏を設定してそれに頼ることになりますから、どうしても他力本願となってしまいますね」<br> 「何かあるのが人生だ、何もなくないよ、嵐のあるのも人生です。天風会は新興宗教でないから、拝めば荒らしが避けてゆくなど決して言わない」<br> 「１０円投げ入れて、無病息災、商売繁盛、家内安全を祈願したら、１願３円３０戦ではないか、そんな虫のいい話はないよ。それを受け入れたら神仏は受託収賄になってしまう。こんな神仏を冒涜した話もないね」<br> 「大自然から与えられたものはネイチャーであり、それをいかに引き出して創造するかがカルチャーであります。このネイチャーとカルチャーを、一体化したところに心身統一法が堂々として展開される」<br> 「できます　やります　頑張ります」vs「いやです　だめです　出来ません」<br> 「飲みたい、食いたいは動物心、理性心の行き詰まり、その理性をうまく統御するのが霊性心」<br> 「超常現象のテレパシー、透視、念力、予知能力は誰にでもある。それには出来るという信念、心の積極化、安定打坐の開発訓練が必要である」「たとえ骨が砂利石の如く砕けても、肉がなますの如く飛び散っても、けして弱音を吐くまいぞ。常に心というものは菊水の御旗を潮風になびかせる如くに常に颯爽たれ！」<br> 「お金をかけなければ幸福になれない人は、いつまでもお幸せになれない。幸福とは感じるものである」<br> 「箱根山　籠に乗る人　かつぐ人　してまた草鞋をつくる人」<br> 「晴れてよし　曇りてよし　富士の山」<br> 「悟れたと思った時が迷いなり」</p>
<p></p>]]>
        
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    <title>吾等の誓</title>
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    <published>2022-06-30T15:15:46Z</published>
    <updated>2022-06-30T15:56:37Z</updated>

    <summary>　天風誦句集の冒頭に「誓詞」という「誓いの言葉」があります。 　これは今アメリカ...</summary>
    <author>
        <name>三休</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://www.tempu-online.com/essay/">
        <![CDATA[<p><img alt="IMG_3313.jpg" src="/essay/IMG_3313.jpg" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" width="211" height="306">　天風誦句集の冒頭に「誓詞」という「誓いの言葉」があります。<br> 　これは今アメリカ野球で大活躍しています大谷翔平選手が、愛読していたという「運命を拓く」の誦句集では、惜しい事になぜか割愛されていますが、天風会員が先ず行修のはじめに唱える大切な誦句となっています；<br> 　「誓いの言葉」<br> 　今日一日　<br> 　怒らず　怖れず　悲しまず、<br> 　正直　深切　愉快に、<br> 　力と　勇気と　信念を持って<br> 　自己の人生に対する責務を果たし<br> 　恒に平和と愛とを失わざる<br> 　立派な人間として生きることを、<br> 　厳かに誓います。<br> 　<br> 　非売品の本著書は、天風会第四代目杉山彦一会長が、たった８行だけの誦句に２段擦りで１８３ページを割いて、一行一言ずつ解釈したものです。「志るべ」誌に、３年間１５回に連載したもので、それほど大切な誦句ではありますが、これには驚きました。<br> 　でも、私は天風師のお叱りを覚悟で、最後の三行に修正を加えました；<br> 　常に誠と愛と調和に満たされた<br> 　立派な真人として生きることを、<br> 　自分自身の厳かに誓いとする。<br><br>補足：<br>　「吾等の誓」を拝読し、思うことがあり私の一番好きな杉山元会長の真理瞑想「創造的人生」を、本サイト第６部として追加掲載することにしました。これで私が書き出した杉山講演の全部となります。是非ご参考してください。</p>]]>
        
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    <title>力と勇気と信念だ！</title>
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    <published>2022-05-31T15:39:01Z</published>
    <updated>2022-05-31T15:47:40Z</updated>

    <summary>　５月、「鎌倉春期修練会」と「東京新緑の一日行修会」参加してきました。 　行修会...</summary>
    <author>
        <name>三休</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://www.tempu-online.com/essay/">
        <![CDATA[<p><img alt="IMG_3208.jpg" src="/essay/IMG_3208.jpg" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" width="320" height="240">　５月、「鎌倉春期修練会」と「東京新緑の一日行修会」参加してきました。<br> 　行修会の締めの言葉と動作「力と勇気と信念だ！ ソ〜レ 力と勇気と信念だ！ソ〜レ　力と勇気と信念だ!」を、長らく忘れてしていました。さっそくアメリカに持ち帰り再実行を始めました。これはこの度の大きな収穫でして。<br> 　修練会終了後の余韻のなか、清々しさ、爽快さ、宇宙に浮いたような無重力の感覚はなんなのだろう。宇宙霊に魂が抱かれるとはこのことなのだろうか。<br> 　当初３０年ぶりの修練会でしたので、自己流の行修と天風会の基本とのズレを調整したく参加しましたが、統一式体操に若干の修正があつただけでした。考えてみれば日々繰り返していることなので、たいしてズレることもなかったようです。ですのでこれまで通りの自己流を続けて行くことにしました。<br> 　しかし、今回「鎌倉春季修練会」と「東京新緑一日行集会」に参加してみて、天風教義の面で以前とは大きく変わった事がありました。かつて杉山元会長の教義の時に、まだその時でないという配慮からか「宇宙霊」という語彙を、極めて慎重に控えめ使用していました。<br> 　ところがこの度、講師陣が教義されたなかには「宇宙霊」「宇宙霊と一体」という語彙が、かくも頻繁に出てきました。これは私にとり「進化と向上」という嬉しい響鳴となりました。<br> 　天風師は「二十一世紀が来たら、思想的にもアイデアの方面にも、必ずや世界をリードするだけの権威ができると確信している」と言われましたが、今がその時なのだと確信した次第です。</p>
<p>　　「私は宇宙霊と一体となって甦り<br> 　　　新しい元気を持って、積極一貫<br> 　　　喜びと　感謝と　笑いに満たさ<br> 　　　れて進み行かん」</p>]]>
        
    </content>
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    <title>空の声を聴く</title>
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    <published>2022-04-30T21:26:16Z</published>
    <updated>2022-05-06T01:41:51Z</updated>

    <summary>　５月３日から５日の「鎌倉春期修練会」に参加することは、すでに書きましたが、１５...</summary>
    <author>
        <name>三休</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://www.tempu-online.com/essay/">
        <![CDATA[<p><img alt="IMG_2995.jpg" src="/essay/IMG_2995.jpg" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" width="227" height="296">　５月３日から５日の「鎌倉春期修練会」に参加することは、すでに書きましたが、１５日の「新緑の一日行修会」（空の声聴く、１日まるごと安定打坐）、東京の会にも参加することにしました。<br> 　この日は札幌から会場へ直行して１１時からの飛び入りとなります。午後からの講演題目が「安定打坐と自己の確立」、「安定打坐で今を活きる」と実習と安定打坐に特化した行修会になるので参加することにしました。東京の会もコロナ以後はじめての行修会になるという。<br> 　これまた３０年ぶりの参加とでして、５月はすっかり天風となります。いずれも私のような参加者は「出戻り組」と言われるようですが、出戻りでも帰る家があるのは幸せなことです。<br> 　別件ですが、天風会の名誉顧問であられた尾身幸次氏が、先日４月１４日に永眠されたと発表された（享年８９歳）。<br> 　また一人、天風のお弟子さんが還霊された。鎌倉春期修練会の冒頭で、クンバハカ黙祷ができました。<br> 　ご冥福を祈ります。　合掌</p>]]>
        
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    <title>鎌倉春期修練会</title>
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    <published>2022-03-31T15:06:32Z</published>
    <updated>2022-03-31T15:07:42Z</updated>

    <summary>　５月３日から５日に開催される「鎌倉春期修練会」に、赤札組として３０年ぶりに参加...</summary>
    <author>
        <name>三休</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://www.tempu-online.com/essay/">
        <![CDATA[<p><img alt="IMG_2816.jpg" src="/essay/IMG_2816.jpg" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" width="468" height="146">　５月３日から５日に開催される「鎌倉春期修練会」に、赤札組として３０年ぶりに参加することにした。<br> 　上記にあります富士を仰ぐ江ノ島の写真を見て即決しました。まさに富士と湘南の海に呼ばれた感です。<br> 　参加の目的は先月のエッセーに書きましたが、「不孤」孤ならずとして長い間一人で行修を続けていますと、どうしても基本からズレが生じてきます。私はそれを「天風２.０」とし、それでよしとしてきましだが、まずは「１.０」と「２.０」の調整です。<br> 　天風師が直接指導した５０年間を「天風会１.０」、帰霊後は直弟子と古参会員を軸とした５０年を「天風会２.０」、そしてこれからの５０年間を孫弟子や新会員が継承してゆく「天風会３.０」とするとのことです。たいへん興味深い区切り方だと思います。<br> 　私は「２.０」のままでいいのではないかと考えていましたが、世の中が情報デジタル社会に大きく変わった今、そうも言っていられなくなりました。<br> 　では、「天風会３.０」とは、何をもって３.０なのかを考えさせられています。新しいよい方法があれば、即刻に取り入れてきた天風師なら、この新時代にどう対応して行くのか考え続けています。<br> 　「真理は不滅」と言われるなかで、易不易をどう選別して行くのか、すでに「３.０」に進化しているのか、今回の修練会だけでは方向性が見えないとは思うが、その糸口だけでも掴めれば考えています。</p>]]>
        
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    <title>天風会３.０</title>
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    <id>tag:www.tempu-online.com,2022:/essay//3.1967</id>

    <published>2022-02-28T16:49:04Z</published>
    <updated>2022-02-28T17:00:00Z</updated>

    <summary>　「志るべ」２０２２年１月号に「天風会は３.０」なるコンセプト策定し、ポストコロ...</summary>
    <author>
        <name>三休</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://www.tempu-online.com/essay/">
        <![CDATA[<p>　「志るべ」２０２２年１月号に「天風会は３.０」なるコンセプト策定し、ポストコロナに向け永続的な発展を推進してゆく」とのことです。<br> 　天風師が直接に教示した５０年間を「天風会１.０」、帰霊後に直弟子や古参会員を中心に引き継いできた５０年間を「天風会２.０」とし、今後５０年間を孫弟子や新会員が継承してゆく「天風会３.０」とするとのことです。今風の ITバージョンアップの用語を用いて上手く仕分けています。<br> 　私は海外で３７年間一人行修しているため「１.０」の基本は押さえながらも、いつしかかなり自己流になって来ています。また行修に無いものを補うために、また加齢に対応しながら変えて来ています。私はそれを「天風哲理２.０」と自称して来ました。私はそれでよしとしてそこに留まっています。<br> 　さて、そこで「天風会３.０」とは、何なのかと考えてしまいました。何をもって３.０なのか。ITを駆使したデジタル化の教義を指すのか、それも一つの方向性かもしれません。孫弟子も高齢化し少なくなって来ていますので、新たな「天風会３.０」の世代替えの工夫が必要なのかと思います。<br> 　私は天風師ならこのデジタル新時代にどう対応したかを常に考え続けています。師は「真理は絶対」「宇宙霊は不滅」と言っています。それを、ひ孫弟子や玄孫弟子がどう受け継いでいくのか、天風会は難しい課題に直面している事と推察します。会のご健勝を祈りたい気持です。<br> 　私の考えますのは無理して３.０とバージョンアップしなくも、基本というか基盤となる天風哲理１.０の行修を徹底させ、それを継承して行けばよいと思う。それが天風会のやることで、後は各自の求道に任せておけば良いのでないか。<br> 　誠に有り難いことは「道を求めて来た者に、そこに教えの場がある」が、天風会の存在価値です。求める者にいつでも１.０のドアを開けておくべきです。数ではない、一人が求めて来たら、その一人にアナログの１.０を全力で教授すればいい。<br>　真理は絶対、一人を恐れるな、天風は一人であった。</p>]]>
        
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    <title>コロナ対策</title>
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    <id>tag:www.tempu-online.com,2022:/essay//3.1956</id>

    <published>2022-01-31T21:21:17Z</published>
    <updated>2022-01-31T21:23:53Z</updated>

    <summary>　コロナ感染の非常事態宣言の騒ぎもまる２年になります。天風会も厚労省の感染拡大防...</summary>
    <author>
        <name>三休</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://www.tempu-online.com/essay/">
        <![CDATA[<p>　コロナ感染の非常事態宣言の騒ぎもまる２年になります。天風会も厚労省の感染拡大防止策の指示にしたがい、行修会を中止してZOOMでの教義に切り替えました。<br> 　私はこの間に「もし天風師ならどの様な行動を取ったか」と常に問いかけてきました。<br> 　師はスペイン風邪流行の真只中で、上野の樹下石上で辻説法を始めています。また、インフルエンザや花粉症にも「顔に褌をして何になる」と言われています。なんのための心身統一、呼吸操練なのだと言うことです。その一方で「人様に迷惑をかけなければ」を、前提としています。ではどう行動したらいいのか考えました。<br> 　私自身は武漢ウイルスと闘うことを決意して、負けてなるものかと不用不急の中でも有要有急として１日も休まず通常通り仕事を続けてきました。でも、頑なにならず必要に応じてはマスクし、ワクチン接種しました。<br> 　今こそ天風哲理の実践と思いましたが、天風会のとった選択を非難する気もありません。社会的責任と自己の責務の葛藤もあった事と思います。<br> 　ただ、ZOOMでの教義にこれでいいものかと考え続けていました。私も仕事上テレワークーでZOOMをよく使うのですが、教義の使用はどんなものかと思っています。ZOOMは目と目が合わないという限界がありまして、生身の人間との臨場感が気薄なってしまいます。というか気が伝わらないのです。仕方のないことと言え、また講師の方々のご努力に敬意を表しますが、これだけでは行き詰まります。<br> 　師は天風会館の落成の時にこうも言っています；<br> 　「心身統一法という天風哲学を自分以上に熱心に実践した人間はいない。また、だからこそ自分以上に人の心に深く伝えられる人間もいない。従って天風の二代目はいないのだから、これから先は天風会館を、自ら一人ひとりが心身統一法を学ぶ教えの殿堂としていってほしい」。<br> 　殿堂は閉めることなく、ZOOMではもの足りぬ方に予約制で、健康確認と相合距離を保つことを前提で、教えの場としていつでも解放したら思います。<br> 　言葉では習得できない体得の教義もあります。その時に教えの殿堂は有り難いものです。求道は一方通行でなく、自らが求めて行くものです。その時に教え殿堂が在ることはなんとも有難い。</p>]]>
        
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    <title>２０２２年</title>
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    <id>tag:www.tempu-online.com,2022:/essay//3.1947</id>

    <published>2021-12-31T21:23:45Z</published>
    <updated>2022-01-03T17:53:10Z</updated>

    <summary>天風会の方は「朝日」を「宇宙霊」に置き替え「私は宇宙霊と一体となって甦り」と詠ま...</summary>
    <author>
        <name>三休</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="https://www.tempu-online.com/essay/">
        <![CDATA[<p>天風会の方は「朝日」を「宇宙霊」に置き替え「私は宇宙霊と一体となって甦り」と詠まれることでしょう。<br><img alt="年賀２２.png" src="/essay/%E5%B9%B4%E8%B3%80%EF%BC%92%EF%BC%92.png" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" width="610" height="851"></p>]]>
        
    </content>
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