創造する宇宙

     真理瞑想行修    1992年(平成4年)

     テーマ:『創造的人生』 杉山彦一元会長
            「創造する宇宙」
            「創造する生命」
            「創造する人間」

 「創造する宇宙」

 宇宙ー生命ー人間を、少し眺めてみただけでも、不思議に思えてならないことが沢山あります。
 私は最近この大宇宙の創造性に対しまして、思わず手を合わせたくなるような気持ちで感謝するようになりました。
 物理科学は対象を冷ややかに見つめ冷静にそれを観察し、そのものズバリを言えばいいわけです。哲学はその事実に立つて、それを意義づけをして行きます。
 現象を理解する時、外面からの科学的な態度と、内面からの哲学的な態度の両面から把握して行くことによって初めて本当に理解することができます。
 これから不思議と思えてならない大宇宙の創造という大テーマを、科学と哲学の両サイドから見て行きたく思います。近代的な科学性をもったみなさまの頭脳と純粋な感性とを信頼しながらお話を進めたく思う。
 1969年、日本時間の昭和44年7月21日午前5時17分、世界の人々の興奮と緊張の眼差しを集めたアポロ11号「イーグル」は、ついに月面着陸に成功しました。人類史上初めて人間が月面「静かな海」に降り立った劇的な一瞬でありました。
 地球から月までの距離は38万4400Kmでありまして、この距離をアポロ11号は軌道をグルグル回りながら行きますので4日と6時間かかりましたが、もし直線で行きますと70時間で到着できます。またこれをジャンボジェットで行きますと16日、新幹線ひかり号の時速200Kmで行くとしたら80日かかります。現在一番早いと言われます光速や電波の秒速30万Kmで1.3秒です。光や電波的なスピードでみますとそれほど遠い距離でもないのですね。
 これを太陽との距離でみて行きますと、地球から太陽まで距離は約1億5千万Km、アポロの時速で5500Kmで約3年、ジャンボジェットで約17年、新幹線ひかりで約85年で到着することになります。光や電波で8分19秒ですから相当の彼方にあるわけです。
 その太陽は直径が地球の108倍で、約140万Kmもありまして地球が130万個入ってしまう巨大なものです。表面温度が6000万度、内部が1300万度といわれるガス体で、一刻一刻と水素からヘリウムへと核融合し続け、1分間にざっとダンプカー4000台分の石炭を燃やしているのと同じ巨大な原子炉となっています。
 そこから発せられる光と熱によって我々生物がこうして生きていられるわけです。考えてみればこの不思議なことが、すでに約50億年前から燃え続けていると言うのですから大変な事であります。しかもこの太陽と同じようなものが、銀河系にさらに1000億個もあると言われていますから、これはすごい事ですね。
 この銀河系に中に白い帯状をなす天の川は、数百億個の恒星の大集団があります。中国ではこの天の川を挟んで牽牛
の彦星と織姫星という七夕伝説をこしらえましたが、天文学的に言えば、この彦星はワシ座のアルタイルという星でして地球から16光年、織姫星はコト座のベガという星で26光年の所にあります。そして、彦星と織姫星の間がまた16光年と言いますから、二人が会うのは1年に1回どころか、光速だけで16年かかってしまう計算になります。光や電波は秒速30万Km、1秒間に地球を7周り半すると言われてますから、この速度で1年間走り続けますと9兆4600Km走ることになり、天文学上でこの1単位を1光年としたわけです。ずいぶん大きなモノサシがあったものです。
 この天文学的なモノサシで銀河系を測ってみますと、直径が10万光年、厚さが3万光年でして、ちょうどラグビーのポールを押しつぶしたような円盤状をしています。この銀河系も2000億個の恒星の大集団をひきつれて自転をしており、そのスピードは中心から3万3千光年離れた太陽系のあたりで、秒速250Kmというものすごいスピードで回転しているのにもかかわらず、一周するのに2億5万年かかると言われています。
 私たちはこの銀河系に所属していますが、これと同じ様な銀河が隣にもまたその隣にもありまして、遠くから眺ると雲のように見えることから星雲と言われたり、また大海原に浮かぶ島のように見えることから島宇宙と呼ばれています。そして大宇宙の中には1000億個という島宇宙が散らばっているとされています。銀河系のお隣の大マゼラン星雲団までの距離が17万光年、なんと光で17万年走った所にあります。聞きなれた隣人の強大な銀河であるアンドメダ大星雲はなんと210万光年も離れたところあります。すごいものだと驚いてはいけません。おとめ座のソンプレロ星雲は4000万光年彼方にあります。
 これにも驚いてはいけません。ペルセウス座星団は1億8千万光年の彼方、まだまだ驚いてはいけません。ウミヘビ座星団は33億光年、ウシカイ座というグループは35億年も彼方と言われています。現在最も遠い天体といわれていますクエーサーはなんと約130億光年とされています。しかもまだまだ宇宙の果てはわかってません。観測機械が発達すると、その機械で見えた範囲が宇宙の果てと呼ばれています。
 これだけみても大宇宙はすごいものだという事がわかるでしょう。この大宇宙を創造したものは誰たい。鹿島建設でも大成建設でもない人力をはるかに越えた大自然の動きだというほかない。大自然は誠にすごいものだと言うしかありません。この大宇宙の中には、ただただ目をみはるばかりの創造性があるということを、みなさん方は改めて確認した事と思う。
(参考:地球から一番近い恒星は4.3光年、生まれた子が幼稚園に入園。地球から一番明るい星、おおいぬ座のシリウスが8.7光年で小学3年生。北極星が800年で平安時代、おうし座かに星雲が3400光年で古代エジプトの時代。ヘルクレス座星雲が2万1000光年でマンモスのいた氷河時代、アントロメダ座星雲210万年で人類の誕生。ペガスス座 星雲1億3000万光年で恐竜の時代となっています)。|

 さてその大宇宙ですが、今世紀の初めまでは静かなものだと考えられていました。相対性理論のアインシュタインにしても宇宙は静かなものだと考えていたようです。それが観測技術が発達してそこからとらえたデータから判断すると宇宙は静かなどころか極めてダイナミックで活動的であることがわかってきました。活動する宇宙、それも激しく活動する宇宙、星の中では強力に電波を放射しながら、非常の速さで遠ざかって行くクエーサーといわれる超新星や、とても新しい星がいくつもあることが発見されて来ました。そして、これを契機にして宇宙の様相はガラリと変ってきたのであります。
 1929年、カルフォルニアのウイルソン天文台でエドウィン・ハップルが、100インチの望遠鏡を使いアントロメダ星雲と地球との距離を正確に測ろうとして、何回も何回も測ってみたところ測るたびに誤差が生じてくるので、これはいったい何故だろうと分析した結果、アントロメダは地球からだんだん遠ざかって行く事を発見しました。しかも、遠くにある星雲はなんと毎秒115Kmの速さで遠ざかっていました。大宇宙は静かどころか膨張し
ていることがわかりました。大宇宙は広がりつつあるという、この偉大なる発見は20世紀の知的革命の基礎になりました。この観測計算で行きますと大宇宙は10億年ごとに5%から10%膨張することになるわけです。また今度はこのどんどん遠ざかる各星雲の線を逆行して元の方向に戻して行くと、各星雲の距離はだんだんに縮小されてついにはゼロになるところから、どの星雲も一つの所へと集約されということもわかってきました。と言うことは大宇宙の各星雲は最も初期の段階では一点であったということがわかり、それが一気に大爆発して以来、宇宙の彼方に向かって飛び散り続けている事とが解明されました。この巨大な爆発を「ビックバン」と言っています。各星雲が地球と比例して遠ざかっていることや、現在観測されていますヘリウムなどの軽い元素の存在は、星の内部の原子核反応で考えたのでは説明がつかないことなどから、どうやらこのビックバ ン説がかなり間違いのないものとして有力説になっていま す。
 しかし、ビックバンの理論はまだ完全に完成しているとは言えず、物理学者は量子力学、相対性理論、不確定性原理という角度から数学的にこれを解明しようとしています。ビックバンが非常に高温であったと想像されることは、粒子が非常に速く動いていた事、強大な核力が働いていた事、大きなエネルギーがあったことを意味し、全ての宇宙がビックバンから始まったとすれば、宇宙の空間も時間もそこから始まったと考えるしかなくなります。現代の宇宙論はビックバンという大きな問題にぶっかっており、これをどう解釈し乗り越えて行くかは天文学者あるいは物理学者の大きな課題になっています。
(参考:カー ルセー ガンは大宇宙の年齢と出来事を、一年間に置き換え てわかりやすく言っております。ビックバンが1月元旦、2月に最初の星 雲ができ、4月に我々の銀河系が誕生しています。太陽系は9月9日に出現、14日に地球誕生、25日頃に生命誕生の準備が整い、10月16日頃、最古の生物が出現、12月になって大気中の酸素が、1900年に魚類、23日には爬虫類、ついで26日には哺乳類、31日の午後10時30分頃ついに人類が誕生したといっています。この例えで行きますと人類は「行く年くる年」これから新しい春を迎えようとしていることになります。人類は原始の時から黙示録的に上方への意欲をしめし、それが二本足で立ち上がる力となり、頭上の宇宙を見上げて天なる神を発見し、さらに天上への意志は哲学と芸術と科学を発達させて行きました。人間の進化はその根源的生命をなした大宇宙への回帰が、天上への意欲となって創造的進化を実現させてゆきました。地球は広い、その広さよりも宇宙はさらに広い、そしてその宇宙よりもさらに広いものを、人間は心のなかに有している)。

 この大宇宙に対して、昔の人はさまざまなことを考えていました。我々の大先輩の古代の人々は、まだ科学者とも言えぬほど科学が発達していなかった頃からいろいろな議論をしています。もろもろの学説を、今からみれば幼稚のものもありますし、これはなかなかの卓見と耳を傾けさせられるものもあります。学問の発達したギリシアではさまざまな学説が提起されています。ギリシアの植民地イオニア地方に始まるミネトス学派といわれる哲学者グルーブがありました。紀元前6世紀の頃と言うのですから、日本はまだ文化らしい文化もない頃です。彼らは「宇宙の始まりはなんだ」と、いろいろなことを考えていたようです。なかでも代表的な思想家で哲学の祖といわれていますタレスという人がいました。当時は宇宙の創造というものは神様のお力であるといういわば神話的なものが中心でありましたが、クレスを中心とする学派は、神様ということは言わずに物質が根本だという考え方をしました。しかもその物質も単なる物質で はなく活動し成長する可能性をもった物質、いわば物が活動するという宇宙には種があったのだとする「物質論」の考え方をしました。ミネトス学派は宇宙の始まりの「種」を万物の根源たるものとして「アルケイ」と名ずけていました。これ以上還元できない原初的なものという意味です。そしてこの始まりの始まりも大宇宙の根本をなす物質を、タレスは「水」であるとしました。タレスは「水」が宇宙の創造の根源とみていました。アルカシメデスという哲学者はこれを「空気」だとしました。「空気」というものが薄く結合すると水とか雲になり、濃厚に結合すると土とか石になるが、その根源はみな「空気」であるとしました。現代からみれば大変幼稚な学説のように思えるが、彼らは真剣にそう考えていたようです。ヘラクレイトスという哲学者は、万物は流転すると考えまして「一切のものは変化する」その変化の根源は「火」であるとしました。一切の物が変転するのは、根源に「火」があるからとしました。エンペドクレスという学者はこれを「地、水、火、風」という四元素説の多元論をとなえています。
 この四元素が結合したり分離したりして一 切のものができると考え、しかもこの結合と分離をなす力が、何にかというと「愛と憎しみ」だとしています。物理学の中に人間の感情を入れ込んでいるところが面白いですね。宇宙空間に愛の力がみなぎると世界は平和になり、憎しみが満ちると世界は破滅に向かう。現代社会でも流行しそうななかなか面白い学説をとなえたものです。いろいろな学者がいろいろな事を言うものですね。ギリシァ時代の紀元前によくもこんな事を考えたものだと思います。
 このエンペドクレスの四元素説はアナクサゴラスからレオキッボスを経てデモクリト スの「原子論」へと引き継がれて行き、これらの学説は最終結としてデモクリトスの「原子論」に集約されました。古代物理学の完成者はこのデモクリトスと言えましょう。彼は一切物質はこれ以上に分離できない「アトム」というものから構成されていると考え、アトムは不生不滅のものであるとしました。これが大宇宙の究極の要素であり物質の多様性は、このアトムの動きによって決ると彼は主張しました。それでは「この大宇宙はどうして出来たのだろう」というと、無辺の広大な宇宙空間の中でアトムの運動の結果として大きな渦巻きが発生し、そこから必然的に天体が生じたのだというのがその説ですね。後にこの思想がカントラボラウスの星雲説、あるいはブルノーというドミンコ会の憎侶の大胆な説に発展しまして「神や霊魂さえもアトムから構成されていて、万物はアトムの動きによって決るのだ」と主張したことにより、彼は1600年に火あぶりの刑に処せられてしまいました。「アトム」の世界観は完全に唯物観の立場にたち、世界の原初は必然性によって支 配されていて、そこには目的性はないとしました。

 以上のように、古代ギリシァを中心とした宇宙論の中身をみてきましたが、それではこれから現代の人は宇宙をどのように考えてきたかを見て行きたく思う。「アトム」という言葉は現代でも使われていて、もうこれ以上には分割できない不分割のもいうギリシァ語であります。しかし、この分割できないとされてい た「アト ム」が、 現代において分割されてきたのであります。そして原子というものは中心に原子核があり、その外側を原子が回っていて、原子核には陽子と中性子とがあるということがわかってきました。だが陽子と中性子がどうして結び付いているかがわかりませんでした。1934年に日本の湯川博士が「陽子」と電子を結びつけているものがあるとして、それは電子の200倍の重さをもったもので、陽子と電子の中間の重さであることから、中間子と名ずけたい」と予言しました。かくして3年後アメリカの宇宙船の中から電子の200倍の重さの新粒子が発見され、予言通りに「中間子」と名ずけられました。1994年に湯川博士は日本人で初めてのノーベル賞を受賞しました。
 こうしてこれ以上には分割できないはずのアトムが、次ぎから次ぎにと分割され新しい粒子がいくっも発見されまして、現在では150種類以上になっているそうです。今度はこれらの分割された新粒子をどう説明したらよいのかがテーマとなり、1964年カルフォルニア工科大学のMベルマンとGシュワイクが一っの理論で説明を試みて「クオーク理論」を提起しました。この学説は有力なものとされていますが、クオークを更に追求してゆくと6種類のクオークに分類されてきました。これが更に電子に近いレプトンというグ ループがまた6種類発見されました。どうやら素粒子の理論はクオークが6種類、レプトンが6種類の12粒子グループになるようでして、これを更にどう解釈したらよいかと世界の学者がここに頭脳を集中させました。これらの粒子グループを分類してみると、相互作用の強いグループと弱いグループ、電磁気の強いグループ、重力に対する反応が違うグループの4っの主だった性格に分類されました。今度はこの性格をどう説明したらよいかをさらに追求し、アメリカのハーバード大学ワインバーグとバキスタンのサラムが、これをうまく説明する「統一理論」を打ち出しました。どうやらこの理論で半分はうまく説明できるようでして、1979年にノーベル賞を受賞しました。しかし、これでもまだまだ説明しきれないものを、さらに完全に説明しょうとしているのが「大統一理論」であります。その大統一理論からニュートリノの出量はいったいなにかということで「超統一理論」が進められたり「超重力理論J 「超ひも理論」が打ち出されたりしているようです。我々の知らない世界ですけれど、物理学者は懸命に大宇宙の原初の真理に近ずこう、近ずこうとして日夜研究を続けているようです。ずいぶんと難しい世界があったものですね。
 さて、そこで重大な問題に入ろうと思う。どうやら大宇宙を観測してみる とビックバンがあったということは認めざるを得ないようです。ビックバンの物質はなんであったかは、当時の記録はありませんので推測するしかないわけですが、このビックバンをどう説明するか、これに解答を与えようとしたのが、かのクルマ椅子の天才といわれるスティーヴンホーキングであります。ここでホーキングの宇宙論を簡単に述べておきたく思う。 彼はいったいこのような観測的事実と細かい物理学のデ ータの上に立って、ビックバンをどのように説明したのでありましょうか。彼はするどい頭脳の持主ですから、もし宇宙に始まりがあったとするならば、それを創造したものとして神様の手を惜りなければならないとするのならば、宗教になってしまい物理学ではなくなってしまう。宗教の手を借りなくても、物理学は物理学で解決していかなければならない。もし神様がお創りになったとしてしまえば物理学の敗北になりますから、彼は現在まで累積された物理学のデータを駆使しながらビッ クバ ンを解明しようと試みているわけです。
 ホーキングは宇宙は宇宙で自己充足があると仮定し「宇宙の始まりと宇宙の終り」という概念をとっぱらってしまおう考えました。そうすれば別に超自然的な神様の手を惜りなくても宇宙は説明できるとしたわけです。ホーキングは宇宙の始まりに対して量子理論を適用して考えまし。そうして行き着いたものが虚時間という考え方でした。彼はなぜ虚時間を考えたかと言うと相対性理論が考えている宇宙の始まりという仮定を避けるためでした。そして虚時間は空間の方向と同じになり、時間と空間は全く同様 に扱われることになったため時間にも、初めも終りもないと考えました。結局、時空は球面のように有限で自己充足的なものとなりうるものであるから、時空から境めを取り去ることができ、境めがなくなれば境めの条件も考えなくてすむと説きこれを「無境界の境界条件」としました。またホーキングはこれは事実かどうかということは問わない、問題はこれで有効に説明できるか否かであり、事実がうまく説明できれば、観測的にとらえられない抽象概念でも許されると言っています。結局、彼の宇宙論は「宇宙の始まりは時間と空間の区別がなく、時空の構造は時間と空間を同じ立場で含んだ四次元の閉じた空間である」としました。時間は虚としてありますので、宇宙の始まりも消滅してしまうものであります。我々ではとても考えないことをホーキングは考えているようです。ずいぶんと難しいことですね。みなさんはわからなくていいから「ずいぶんと難しいことを考えるものだ」という事を知ればそれでいいです。彼は別に神様を登場させなくても宇宙の始まりを説明できるとしたのは、それは神の否定ではなく物理学だけで説明できるもので、神を登場させるまでの必要もなかったからだとするものです。
 しかし、ホ ーキングは「私は人格的な神を信じておりません。強いてあなたがたが望むなら、 神は物理学的法則を体言したものとお考えになってもよいでし ょう」 と言ってもいます。私は天風先生がかって「神というものは法則視せよ」と、相当強く言われてましたことをよく憶えています。神を人格視すると言うことは「こんなにお賽銭をあげて拝んでいるのだから、もうそろそろ幸せをくれてもいいでわないか」という様な取り引きみたいのになってしまいます。そうではなくて神を法則視せよとは、厳然たる法則が宇宙の中にあるのだということで、天風先生は「神は法則の鎧を着ている」という言い方をしたことを憶えております。
 ホーキングは面白い表現をする人でして、宇宙はなぜ存在するかという 問いに対して「もしそれに対する答えが見いだせれば、それは人間の理性の究極的な勝利となるだろう、、なぜならそのとき神の心をわれわれは知るからだ」と言っています。彼は宇宙はなぜ存在するかという問いには解答をしておりません。彼はわれわれみんなが宇宙における人問の位置ずけを、より一層理解するように努めなければならないと言っていますが、同時に大宇宙の中での人間の位置や価値ずけは物理学でなく哲学がやることですと言っています。彼は神の力を借りることなく「万有引力の法則」「一般相対性理論」「量子力学理論」j「不確定性原理」を駆使して、宇宙の最初の所を説明しきろうとした訳です。彼は宇宙論から神様を追い出しながらも、同時に自分自身の理論の限界をも心得ているようでして、宇宙がなぜ存在するか、これは物理学の問題ではなく哲学の問題であるから、物理学者としては答えはないかも知れません。「もし答えが見いだせたとすれば、我々は神と同じだけのものを知ることになるでしょう」と言っています。彼はこの問いに対する哲学からの参加を呼びかけているようです。彼は物理的な観測や理論に限界のあることを認めて、宇宙論というものは科学者の研究と哲学者の思索によって進められて行かねばならない重要なテーマであるとしています。
 どうやら大変な議論になってきました。これまでの議論はすべて宇宙の根本は物質であるとする立場に集約されています。しかし一方では、古代から宇宙の根源は物質ではないとする哲学も存在していました。このような人の中にピタゴラスがいます。「ピタゴラスの定理」で有名な彼は、ミネトスとはそう遠くないサモス島の出身で、ペルシャ軍のイオニア侵攻の難をさけて南イタリアのクロトという所へ移住し、そこで宗教教団を組織して活動していました。彼はその教団で罪深い人の魂を浄化するには数学と音楽と天文学が必要であると考えました。弦楽器で音が出るその振動数の比が整数になっている時には快い気持ちになる協和音であり、その比がよくない時には不協和音になっているとしまして、宇宙それ自体は調和のとれたものであるとしました。調和とともにあるものは数であり、数と言うものは素晴らしいものであり数には神聖があるとしました。また最初に地球が円いものだと言ったのもコスモスを宇宙の意味で使ったのも彼でした。すでに今の太陽系に近いものを考えていたようで、数を持ち出して宇宙には調和がなければいかんと考えていました。なかなかこの人は現代にも通じる面白い着想をもった人だということがおわかりいただけると思う。
 彼の次ぎに出てきた人は、ギリシァ哲学の最高峰といわれていますプラ トンでした。紀元前427年頃、アテネに生まれた彼の宇宙観もけっこう面白いものです。宇宙感覚の世界は見える世界で「可視の世界」と超感覚の世界これは見えない世界で「不可視の世界」とに分け、不可視の世界を「イデア」と称しました。そしてこのイデアの世界をとらえるには純枠思考しかないと言っております。禅宗の言い方にそくりですね。天風先生のお考えの中にも、これと類似したものがあります。「およそ現象世界にその生命を生かしつつあるものは、何れもすべてが「見えざる実在の力」に依ってその命が保たれているのである。
 このプラトンに次いで哲学の世界では、彼の双璧とされていますアリストテレスの哲学もまた面白いですね。この人は本来が生物学者でしたから、生命というものを非常にしっかりとらえています。生命体においては組織の各部分がかってに振舞うのではなく、生命体の全体性をなりたたせ生命体のプランや目的にうまく沿うように機能する「生命には全体性がある」と主張し、宇宙もまた一つの巨大な生命体であると説いています。そしてそこで行われる諸々の出来事は全てあらかじめ決っており、その計画にもとずいて進行していると「目的論」をとなえました。彼のこの「目的論」に真っ向から対峙するものが、先ほどのデモクリトスの「原子論」になるわけです。無限の空間の中を自由自在に無目的に飛び回る原子が全てを決めるのだとする「原子論」に対して、宇宙空間の出来事はあらかじめそこにストーリーがあって、その目的にそって動いているとするの「目的論」と真っ向から対峙する哲学でした。このデモクリトスを中心とする 「原子論」は 、そのまま現在の原子論へと流れていま す。
 さあ、ここでだんだん結論へとおし進めて行きます。なぜ私が長々とこ んなことをクドクドとうんざりするほど申し上げ、またこれからも申し上げるのか、いろんな学者先生がいろんな事を言っていますが、ではいったいどうすればいいのか。私たちは結局、どの先生が何を言ったか、ああだこうだと学説はいろいろあるけれども、ではいったい私たちは何をよりどころにして生きればいいのだろうか、我々は学者ではない、学説より もどう活きるかというところにポイントがあり、そのために学んでいるわけです。いったい「我々人間は何をするためにこの地球に来たのか」、いろんな学説、実験データ、実証もいいでしょうが、では「いったい我々はどう活きたらいいのでしょうか」、この問いに対して科学は今日も究極を追求していますが、「なるほど」とうなずける程のセオリーを打ち出せずに、どう活きたらいいのかの問いに答えておりません。したがって学説だけに留まり心を動かすまでになっていません。

 ここから哲学が始まるんですね。我々は私たちの活き方をしっかりと価値ずけてくれる、確かな宇宙観、生命観、人間観が欲しいわけです。私も学生時代からいろんな哲学を学らんでみましたけど、私を支えてくれるもは無く、さりとて自分から考えようとしても、それほどよい哲学が浮かばない、迷いに迷った日々がありました。それらの模索のなかで見事に究極的に合点を得たのが天風先生の哲学でした。
 これまで見てきたように大宇宙の一番の根本は何か、いろいろな先生が学説を披露しています。宗の儒学者はこれを「先天の一気」としています。気はエネルギーですが、この気はエネルギーの根本エネルギーの意味でして「気」は科学と哲学との橋渡しをする面白い言葉だと思う。アリストテレスはこれを、一切の根本の「第一原因 」とし、カントは「実在」、ヘーゲルは「絶対」、ヤスベレスは「包括者」、天風先生は「根源的実在」「根源主体」ということをしばしば申されました。禅ではこれを「無」と表現し、無はないの意味でなく「見えざる実在」という意味です。大乗仏教、特に般若心経では「空」です。空とはカラッポという意味でな く、数字ていうゼロの事で「一切の本源」の 意味です。これら哲学でい う「先天の一気」「第一原因」「実在」「絶対」「包括者」「無」「空」「根源主体」等の用語は、みんな同じ感じのするものです。宗教ではこれをやさしくとらえて行き、ユダヤの宗教においては、一切を創つたのは造物主でこれを「エホバ 」と敬称し、それを改革したイエスは、さらに身じかに引きよせて「天にまします我らの父よ」と呼びかけ、イスラム教では 「アラー」、ヒンズー教では「宇宙霊」、神道では「天照大神」、現代宗 教では「大生命」という言い方をしています。天風先生はこれらを包括して「大宇宙の根源主体」と言いました。しかし先生はただ堅い言葉で処せられただけではありません。「大宇宙の根源主体は、宇宙空間にただほっねんと座しているようなものでなく、その働きはまさに活発に天地に満ち満ちている」、根源主体は溌剌と動いているのだという、この把握の仕方が天風先生らしいみずみずしさだと思う。
 「根源主体は巨大な力と叡智とを持つ」、太陽はすごいエネルギーを持つ、この太陽と同じ物が銀河系だけでも1000億個あるという。すごいものですね。宇宙はエネルギーのシンボルであると言ってもいいくらいです。大宇宙の中には巨大な力が存在する、大きなものは太陽から、小さなものはアトムに至るまで、アトムは1cm平方に1憶個も入ると言いますから小さいですね。そのアトムが爆発すれば広島、長崎の街が壊滅する。 そのような力を誰が封じ込めたか、自ずから然りネイチャーです。大自然と言うものはすごいことをなさる。そのすごい力で一切を創造していることになります。しかも大宇宙の根源主体はすばらしい測り知れない叡智をも持つ。冬の雪、雪は見事なまでに結晶していますね。素敵なデザインです。 どうしてあのデザインを考えたのかと不思議に思う。植物の花を見れば、その背後にすばらしい叡智が輝いている。花は科学者であり芸術家でありデザイナーだと思う。動物でも孔雀の羽は美しい。お蚕は植物繊維を食べて生糸という動物繊維を吐き出すのですから手品師の様なことをやってのける。人間の叡智はこれは言うまでもなく過去100年、200年の間に示した叡智はすばらしい見事なものだ。
 しかも、その力と叡智はけしてデタラメではなく厳粛なる法則性を持って活躍している。この法則性をとらえて行くのが科学であり、人類はその法則の通りに宇宙に飛びだして行き、そしてまた帰って来た。ということは、この宇宙空間はデタラメではなく法則性が存在するという事である。この力と叡智を法則的に使いながら、この大宇宙はなにをしているかというと、絶えざる創造活動をしているのであります。
 これが今回のテーマです。宇宙空間に働く根源主体は、けして遊んでいるのではなく絶えざる創造活動している。そして、それをどうするかと言えば、進歩と向上の方向性に向かっています。人類は物の進化、生命の進化、人間文化の進化、より良く、より正しく、より清らか、より美しく、より便利にと懸命に懸命に創造活動を続けている。大宇宙はその方向性に向かって動く、そして一切を大調和あらしめようとしているのであります。高気圧が低気圧に流れ、水が高いところから低いところへ流れるように、大宇宙は常にバランスをとる方向に向かっている。「大宇宙の根源主体は巨大な力と測り知れない叡智を、法則的に使いながら絶えざる絶妙な創造活動をし、進化と向上の方向性に向かって、一切を大調和あらしめようとしている」と、天風先生は厳然と我々に教えられた。

 この天風先生の宇宙観の特徴をなすものは、先ずその根本に科学性があると言うことです。現在の科学が捉えたものを、常に常にご自身のお教えのなかに取り込んでおられました。科学の基本に反するような哲学ではどうにもなりません。物理学や生理学の用語を哲学用語として使われておりかつ、その哲学も科学的な知識が基本となっているからこそ、我々は先生お教えに新鮮な魅力を感じました。
 また先生のお弟子さんのなかには、原子力科学の第一線で活躍している方々も、先生のお教えを素直に聴いておられました。天風先生の宇宙観に科学性があったと同時にまた哲学ですから当然そこには哲学体系がありました。天風哲学は宇宙の根源位置を説明するのに、根源主体、実在、絶対、無、空などの用語を、こだわりなく使われており、神と言おうが仏と言おうが、根源的実在と言おうが、みな同じことであると言われていました。そして科学が言い得ない事、ホーキングが一歩さがって触れなかった、「人間は何のためにこの地球に生まれて来たのか」の問いかけに対して、天風先生は堂々と一歩も二歩も前に出てお教えくださいました。天風先生は「大宇宙の創造的働きによって私たち人問は生まれでてきたのである。大宇宙の根源主体は創造活動をしながら進歩と向上を実現しようとしている。これこそ宇宙根源主体の大いなる御わざである。それを理解し自覚して、それに積極的に参加して進歩と向上を実現して行くことが、私たち人問に与えられた使命である」と、はっきりと断言されていました。我々人間を非常に価値高く評価なされ、人間存在の意味ずけを明確にしております。人間は断じてこの世に罪滅ぼしのために生まれてきたのではないと言い切っております。
 また、こうした天風哲学は多くの哲学者が行っているような観念的哲学ではありません。ノリとハサミで貼り合わせて造ったような哲学てはなく、血を吐きながら、自分の全生命をぶっけながら、自ずからそこに編み出してた哲学であります。ですから当然の事として(血の通った)実践哲学になって行きました。天風先生は常に「どうするんだ」「どう生きるんだ」「そんなこかと言ってるうちに死んでしまうぞ」という、迫られた緊張のなかに身を置き「どう生きるか」という問いかけに、常に挑戦させらていました。こうした生き方が我々にびたりとするわけです。我々は余裕をもった観念哲学を、いまさら勉強しょうとは思わない。我々は「この人生をどう価値高くして活きればいいのか」を、まず獲得したいわけです。そして、人問存在を価値高く意義ずけ、意味ずけて評価し、そのような人生を建設したいわ けです。人間に価値に 意味を与えて、勇気ずける宇宙観、生命観 、人生観が欲しいわけです。そのようなことからしても、天風先生の哲学とい うものは、現代はもとより未来にわたって人類を導びくにたる一流哲学であると、私は信じる。天風哲学はこれからの時代を、十分にリードして行くにたる哲学であると思います。結局は大宇宙の根源主体の働きは何かということです。
 天風先生はこれを英語で「"Natural Active Capacity" 自然的能動物と表現しておりました。つまりは大宇宙の根源主体は、創造的活動体であり、宇宙の本質的働きは創造であります。つまるところ「大宇宙の根源主体は、巨大なる力と測り知れない叡智を法則的に使いながら、絶えざる絶妙な創造活動をし、進化と向上の方向性に向かって、一切を大調和ならしめようとしている大生命体であります」
 かくして天風先生は、この宇宙観をもとに「心身統一道」を、展開して行くのであります。

       (1993年年2月14日、野口書き起こす)





 

創造する生命

創造する生命

 昨日は「創造する宇宙J をテーマにしてマクロ的なお話しをしました。今日は「創造する生命」をテーマにミクロ的なお話をしたく思う。昨日の宇宙の不思議についで、今日は生命の不思議さについてのお話となります。
 生命を無視した科学や哲学は危ないです。科学の究極である原子爆弾は一瞬のうちに人類を壊滅することも可能であるわけですから、我々はしっかりとした生命観をもった科学や哲学が必要になります。人類はたとえ肌の色が白かろうと、黒かろうと、黄色かろうと、命にとって尊さは同じです。その人類共通の大切な命について、これからお話しようと思う。
 「天風会とは何をする会ですか?j と問かれたら、「天風会とは命を扱う会ですと答えればよいと思う。今買ったらすぐに上がるなどという株は天風会では扱っていません。ダイヤを半額で手に入れるなんていう販売方式を、天風会では扱っていません。確かにお金も必要ですし、ダイヤも必要でしょう。しか し、亡くなった人の棺桶にザクザクとダイヤを入れて見たところで何の価値はない。本人が死んでいるからです。ダイヤに価値を与えているのは生きている人問です。誰にとっても生命は大切です。その生命を原理的に捉えて行くのが哲学であります。哲学は原理の学です。哲学には経済哲学、経営哲学、芸術哲学などいろいろな範囲がありますが、哲学の中心をなすものはなんと言いましても生命哲学です。20世紀の科学が物理学を主流とするならば、21世紀の科学はおそらく生命学であることは十分に予想されています。その生命はけしてデタラメで生きているのではなく、呼吸器にしろ、消化吸収にしろ、一つの法則性に基づいて働いています。これを研究して行く学問が科学であります。とくに生命の科学は「生理学」「生科学」これをひっくるめて「 医学」となります。 そしてこれまでに多くの医学博士が生まれ、多くの生命原理が生まれています。
 しかし、原理だけでしたら何にもなりません。その原理を人間の生命において実践されなければならない。そして我々の生命のなかには、すばらし い原理があることに目覚めなければなりません。天風哲理は生命を科学と哲学の両面から理論を構成しています。その理論にもとずいて生命の実践を重視して行く会でもあります。すなわち理論と実践から成り立っ ているもので科学的にも哲学的にも正しい理解をして、正しく実践し、正しく確証して行く会であります。
 今日のテーマもこの生命というものを、科学と哲学の両面から扱ってゆこうと思う。欲張りではありますが、この両面から扱いませとん本当の理解というものに到達できないからです。これだけアウトラインを申し述べて本日のテーマに入ります。
 この大宇宙の根本に巨大なエネルギーがあるということはすでに申し上げ誰もが認めるものであります。そのエネルギーが、中性子へ転化しそこからエレクトロンの電子が飛びだして陽子ができます。この中性子、電子、陽子で基礎的なアトムが造られます。そしてまたその結合によっていろいろな元素ができまして、現在までに約108余の元素が認められています。その元素がまた化合して300万種以上のもの物質ができあがっているというのですからすごい事です。この300万種以上といわれるなかで、いったい我々の体というものは、いくつの元素で成り立っているのでしょうか。
 我々の体の中にある一番分量の多いのは、酸素でして90%を占めます。人間は酸素できていると言って良いくらいです。それならライターで火をつければ爆発するかといえば、そうでもありません。酸素の大部分は化合物でH2Oとなっている水ですから火はつきません。90%の酸素、それから炭素と水素と窒素が主なものです。その外にカルシュウム、リン、カリウム、イオウ、ナトリウム、クロオール、マグネシュウム、鉄、これ辺のところが大部分を占めています。それに本当の微量ですがマンガン、銅、ヨウ素、亜鉛、これらは少しあればで足りるんですね。全部で16種から17種類くらいの元素で人間は造られているわけです。これはイヌでも馬でも人間でも違いがありません。哺乳類はだいだい同じ様な材料でできていることは、分析してみればすぐわかる事です。
 さて、最初はエネルギーであったのが物質を造ってきたわけです。この初段階における物質を無機物質といっています。生活機能をもたない水、酸素等がそれです。それらが炭素を主な成分として進化してくるのを有機物質といいます。無機物質より有機物質のほうがより進化した物質となります。物にも進化あるわけでして、クンバク質、脂肪、炭水化物のデンプンなどは、物質の中でもかなり進化したグル ープですね。その中でも特に複雑に結合しているのがタンパク質です。我々の食べているタマゴ、お肉というものは高分子のタンパク質といわれるものです。分子量が数万から数十万といいますから.生物の中でも横綱クラスです。生物が進化してくるまでには、相当の時が流れているわけです。
 ここで一つのエピソードを、お話しましょう。1887年、明治20年ですが、ベテルブルグ大学のイワノススキーという学生が「タバコの葉にモザイク状の模様ができる病気はいったい何の病気か?」と、テー マを出されて研究していました。モザイク病の黒い汁を取りだして他のタバコの葉につけたところ、やはりモザイク病になったことから伝染病であることがわかりました。それでは、そこに必ずばい菌いるものとして顕微鏡で覗いても見つ かりませんでした。「いったい何だ」ということで、ばい菌を通さないフィルターをつかってみたが、やはり伝染するのでばい菌よりも小さいものがいることがわかりました。そしてこれをフィルターの濾過器を通過してしまうことから、漉過性病原体と名ずけました。ところがこれだけでなく濾過器を通過してしまうものが、次ぎから次ぎへと発見されまして漉過性病原体というものはいくつもあることがわかりました。そしてこのグ ルー プを「ビールス」と名ずけました。ラテン語で「毒』という意味です。英語で「virus」です。
 1935年、今度はアメリカのスタンレーが、このタバコの葉のビールスを結晶として取り出しました。結晶でしたら無生物の物蜇のはずなので すが、この結晶を他の生物の細胞に入れてやるとその結晶が繁殖を始めたわけです。繁殖をはじめれば、それは生物ということになります。そこでよく調べてみると細胞構造は見られず、原形質も持っていな いのですが、核酸という遺伝子の材料はもっており繁殖作用があることがわかったわけです。ある時は物質であり、またある時は生物であることから、 生物学者は驚いてしまった わけです。そこでこれを「半生命体」と名ずけたようなわけです。この半生命体のビールスが発見されてから、無生物と生物の境がなくなってしまいました。ビールスは現在までに60種くらい発見されていまして、みなさま方もすでにビ ールスと関係をもたれた人が大勢います。ハシカこれはビールスですね。おたふく、百日咳、天然痘、ホーソー、狂犬病、黄熱病、ビールス性肝炎これらはビールスですね。エイスもどうやらこのグルーブのようです。このビールスをバネにして出来たのがアメーバ ーです 。アメーバーの細胞はたったの1 個でして最も簡単な生命体ですが、やっていることは素晴らしいことをやってのけます。触覚があり食物選択をもち、消化吸収、排泄作用、そして成長と繁殖と単細胞のくせによくここまでやるものです。35億年後に人類が出て来るのですが、その人類のもっ感覚、弁別摂取、消化吸収、排泄、成長、繁栄の全ての原始形をすでに持っているわけですから、これは不思議かっ驚きです。私は「心身一如J ということが観念的にも体験的にもわからなかったのですが、医学を学らびアメーパーを顕微鏡で見た時にやっとわかりました。これは私にとり偉大な発見でした。「心身一 如」になるほどと納得が行きまして、後は安定打坐をして体験的にこれを把握して行けばよくなったわけでした。
 かくして物質からビールス、そしてアメーバーへと生命は進化してきたわけですが、それではいったい生物とはどういうものなのか、生物はどういう条件を揃えているのか、ここで生物の特徴を生物学的に申し上げておきたく思う;
1.体は細胞から成り立っている。それぞれの形をした細胞構造を持っている。
2.体の物質成分として、タンバク質、その他なん種類かの有機物質で構成されている。
3.体を構成している物質は絶えず変化して行く。新陳代謝メタポリズムがある。
4.外の環境が変化すると、それに反応、対応して行く適応能力がある。
5.体は時の流れの中で変形して行く。生から死までの変形にみられる。
6.体の一部が変り、子供ができる増殖作用がある。
7.子供は親とよくにてくる遺伝作用がある。
8.多くの代を重ねているうちに新しい種が出てくる。
 ここに8っをあげましたが、これらの特徴はバラバラに表れるのではなく、統 一的調 和的にな っていることから、生物学においては「生命は秩序である」、生命とは調和であると言い切っております。ですから生物では、これが一番の特徴であると思う。

 さて、ここから外側の話からだんだん内側のお話しに入いろうと思う。
 35億年の生命の最先端に立って我々人類がいることは誰もが疑うことができない事実です。多くの優れた進化を持っていますが、中でも一番優 れているものは何といいましても大脳の励きである。大脳の働きは他の動物を断然に引き離した人類の顕著な特徴になっています。人間の大脳は第一線級の細胞を140憶個と第二線級の支援細胞を600億個有しています。この膨大な細胞を使って人間は対象を理解し推測し、創意工夫をして 科学を発展して行きました。またこれから理性的な励きとともに、もう一っ「自覚」というものが上げられます。自覚とは直感的に生命的でわかる悟りに近いもので哲学を形成してゆきました。人問はこの理性が開発した哲学と自覚が形成した哲学の両翼の立場に立って我々の生命を正確に捉えて行かなければなりません。イヌやネコは自分がイヌやネコであることもわからぬままに、イヌやネコをやっています。我々は科学や哲学を使いながら、我々人間をもっと理解しなければなりません。なぜならば人問をやっているからです 。
 それでは我々人間をやっているその「命とはなんでしょうか?」これは大きなテーマですね。禅宗に行くと、命というものを捉えようとする考案があります;
 「やみの夜に 嗚かぬからすの 声きけば 生まれぬ先の 父母ぞ恋し」、一般的に考えますとやみの夜にからすが見えるわけがありません、嗚かぬからすの声が聞こえるわけはありません。また生まれてからの父母なんですから、生まれぬ先に父母なんて居るわけないのであります。いったい何を言っておるのかと思うのですが、実はこれは「命の本体は何か」という大きな考案でして、我々の生命の本来元来は触れることのできない、無味無臭で我々の五感を越えた実在であるというのが回答です。我々の五感感覚を越えた純粋直感でもって生命を捉えよとのことです。
 ではその「生命の本質的な働きとはなんでしょうか?」、生命の本質的は活きて、活きて、活きて、活きて、活きて、ひたむきに活きてやまない働きであります。しかし、この感覚を言葉として知るのではなくて生命の実感としなければなりません。すなわちそれは、生命とは活きて、活きて、活きて、活き抜いて行くだけの強いものであります。強いものであるからこそ35億年も活き抜いてきたわけであります。そのうえ生命とは叡智をも持ちます。天風先生は「生命とは素晴らしい力と叡智をもつ」と、断言しております。
 それでは「生命の活動」はいかなるものか?」、生命の活動はけしてデタラメではなく厳しい法則性をもって活動しています。生命の働きは呼吸するにも、消化吸収、排泄するにも、全て法則性をもって働いています。 法則性があるからこそ、そこに生理学、生科学が成立するという事です。その「生命活動の顕著な活動とは何か」といいますと、生命は創造的であるということです。それでは「生命はどんな状態で堅持しているか」といいますと、生命の状態は、活きて、活きて、活きて、活きて、活き抜くのですから、天風先生は「生命の状態は常に積極的である」と言っています。生命が積極的であることは、日夜休むことなく働く自律神経をみればわかります。10万の黴菌が侵入すれば、10万の赤血球を出してこれを食い殺します。
 更にもう一つの生命の状態は「調和的j」であります。我々には体温を一定に保もとうとする恒常性機能があり、交感神経と副交感神経が相互にバランスを取ろうと働いていますし、感覚神経と運動神経が調和を保とうとしています。まさに「生命は積極と調和であります」。天風先生は後に心身統一道を試みた時に表面にでてきましたのがこの積極と調和でした。
 では「生命は積極的で調和的でどの方向に向かっているのでしょうか?」、生命は前進的に進化と向上に向かっています。このことは単細胞から35億年の進化の過程をみれば一目瞭然であります。生命とはよくよく考えま すと素晴らしいものであります。
 ここで一つの結論を述べておきます:
「生命の本質は活きて、活きて、活きて、活き抜く働きをしています。活きて、活きて、活き抜くために、生命は力と叡智とをもつ。そしてその活動は法則的であり創造的である。そして活きている生命の状態は常に積極的で調和的であり、生命の本質は進化的で向上的であります」なるほど生命というものは、すごいものだということがおわかりになると思う。
 以上の生命の特徴を申し上げると、昨日の「創造する宇宙」の結論と一致してくることがおわかりになることと思う。宇宙の大生命から生まれでた小生命ですから似ていていいわけです。一筋の河の流れと同様で、生命の流れの水源にあたるものが大宇宙ということになります。ですから宇宙の大生命と同じように造られているのが、我々の小生命であるから、その特徴も一致してくるというわけです。ここで天風先生のお言葉「我は宇宙霊とつながっている」、「我は宇宙霊と一体である」へと結晶されてくるわけです。

 さてここでさらに大宇宙の支流とされる小宇宙、我々の生命の尊厳についてのお話に移ることにします。
 人間の生命誕生についてお話をしながら、生命の実在というものを、より価値高く評価して行きたく思います。
 人間が誕生する際にいったい男性と女性とがどれほどに関わっているのでしょうか。この問いに対しまして、私は結論から申し上げますと「男女がタッチした分は0.1%で、誕生のきっかけを造ったのに過ぎない 」と考えています。
 誕生までの過程を少し説明します;人間の誕生の始まりは、先ず男性の精子からであります。おたまじゃくしの 形をした精子は単細胞でアメパーと同じですが、生命35億年の情報を持った遺伝子です。これが一回の性行為で射精されます数は3億個から5億個とされています。一方の女性の卵巣は28日ごとに排卵されてちょうど卵管を出てきたところに折りよくこの精子団が突き進みますと、その精子団のうちの1個の精子が卵巣と受精します。3億から5億個の中の1個ですのでゼロのような数字です。しかも女性の28日ごとの機会ですから、双方の空ぶりを換算しますと、まさに5000億分の1の確率といわれますから、人間として有ることは、実に困難で有り難きことのわけです。ですから誕生ということは、科学的にみましても実に「有難い 」ことなのでありま す。 先ずは生まれたということは、尊い有難い事なのでありますから、我々はこの有難い命を大切にしなければなりません。
 かくして受精しますと30時間後には、早くも細胞の分裂活動が始まり子宮に向かつて移動して行きます。3日後には細胞の役割分担が決り6日目には子宮に着床します。20日目に2mmほどになり一本の筋が出来てきます。この筋を形成する時に地球の重力作用が大切とされています。そして2、3日目に立てに走る筋から脊椎ができ胚葉も3つに分れてきます。外胚葉からヒフと感覚器官からと各神経系統が出来上がって行きます。中胚葉から骨、筋肉、そして循環器系統の心臓や血管などが形成され、内胚葉から呼吸系統の肺、消化吸収器官の胃や腸が出来てくるそうです。 
 35日になると指などの輪郭が形どられ、35日に8mmほどに成長し、なんとこの時にすでに子孫への原子生殖細胞が生まれています。60日目に母のおなかの浴水のなかで体は3cmほどに成長してきます。おなかの浴水は原始の海の成分に近いもので胎児にもエラのようなものがあり魚類の時代を経ているかのようです。まま尻尾のようものが表れてじきになくなってきます。
 150日目に脳が日本猿の脳ほどに、8ヶ月目では顔も赤く体毛につつまれたサルのようであり、10ヶ月目で脳はゴリラほどになるといわれています。出産の直前の生まれでる試練として一 瞬だけ酸欠状態に なります。これは母体から離なれて心臓の最後の穴の部分が閉まりオギャーという産声とともに肺呼吸へと切りかわって行きます。生命の最先端にたつ人間生命の誕生です。生命進化35億年を系統発生と言いますが、これを母のおなかの中で、わずか10力月の突貫工事でやってのけるのですから誠に神秘でもあり偉大なるものあります。この一貫したみ は人間の機能をはるかに越えています。おおいなる生命の働きが男女にきっかけだけを造くらせ、後は赤ちゃんが生まれてくるまでの全作業の99.9%を請け負っているわけであります。
 生理学からみましてもなるほどと納得が行きますね。これが正しい大生命に対する認識だと思います。どんなにたくましい男性でも、男だけでは生命は生まれません。どんなに美しいミス ユニバースでも、女性だけでは産むことはできません。男と女に付随しているものが少しだけ違うのですね。違うから喧嘩するのではなくて、違うから協力しなさいということです 。大生命の計画によって成長するとホルモン分泌によって、どこからか恋心が芽生えまして、やがて「むすぶ」という行為がでてきま す。この事を日本人はよくわきまえておりまして、男女がむすばれて出来た女の子を「むすめ」といい、男の子を「むすこ」呼んで、赤ちゃんを「産んだ」とは言わずに「さずかった」と言う表現をしています。仏教では「仏様からのあずかり者」、神道、キリスト教でも「神の子」と言っています。
 しかし、この誕生した生命は有限であります。70か、80か、90年たてば亡くなるのですから有限です。ですから有限の内に子孫を残しまして、その子孫の有限、また有限、有限と、有限が継続しまして永遠の生命というものが創り出されてくるのでありま す。
 私が今ここに存在すると言うことは、父母がいて、そのおじいちゃん、おばあちゃんがいて、そのまたおじい、おばあがいて、そのまた ー ー ー ーと1 億回これを繰り返しみなさい、一世代35年としましたら、35億年のアメーバーの時代に到達します。生命はこのころから活きて、活きて、活きて、活き抜いてきたのであります。私の命もこのころから一度も死んでいないのです。もし死んでいればこの私はこの世にいませんからね。誠に「有り難きこと哉」です 。
 だから私の本当の年は35億年と72歳ということになります。大正9年に生まれたということは現象面の歳でしょ。生物学的にみてもこうなるでしょう。それ以前をさらに物理学的に、また哲学的に遡れば「私は大宇宙とともに生きていた」ということになるでしょ。昭和の何年に生まれたなんてのは大間違いです。
 この偉大なる生命をいただいた私が、いい加減に活きていいわけがないでしょう。「私もうダメ、活きられない」なんて弱音を吐けば、縄文式時代の祖先が「私たちの時代には冷蔵庫も炊飯器も無い時代だったが、大地にしがみっき、はいつくばって活きて、活きて、活き抜いて来たんだよ。 こんな恵まれた世の中でダメとはなんでえ」と、文句を言いますよ 。またいい加減の事をしたら、10万年後の子孫が「平成時代の人類はなんて馬鹿なことをしてくれたのか」と言いますよ。振り返れば祖先、前を向けば子孫、生命は活きて、活きて、活き抜くのですから、我々はいい働きをしなければなりません。祖先の生命があり、私の生命があり、そして子孫の生命があるのですから、私が勝手なことをしていいはずありませ ん。命を単なる70年、80年の単位で捉えるのではなく、永遠の命の中で捉えてゆくのが正しい認識であると思う。
 これが本当の生命に対する考え方です。ですから「私の命も尊い、あなたの命も尊い」のであります。さらには大生命体のなかでは、私とあなたとの区別もなくして同じ大生命の根源からっながっている小宇宙として「自他一如」であります。
 最後にこの永遠の生命の素晴らし真実を把握し、それを見事に歌上げています宮沢章二氏の「ひばりのかあさん」を紹介して終ることにします:

  ひばりのかあさん
            宮沢章二作
  ひばりのかあさん
  たまごを うむよ
  ひとっ ふたっ みっっ
  よあけの むぎばたけ

   たまごのなかに
  なにがあるのか
  わからない
  とっても だいじなものが
  あるの
  だから ころんとひかるの

  ひばりのかあさん
  たまごを だくよ
  ひとっ ふたっ みっっ
  あめふり むぎばたけ 

  たまごのなかに
  だれがいるのか
  わからない
  とってもかわいいものが
  あるの
  だから ぬれてはこまるの
             
    (1993年年2月17日、野口書き起こす)

     

創造する人間

「創造する人間」

 宇宙そのものが創造的であり、生命そのものが創造的であります。
 大宇宙から生まれでた生命はすごい働きをし、その中でも人間は素晴らしい創造性を発揮します。宇宙が創造的、生命が創造的、そして人間がまた創造的です。
 人間は他の動物には見ることのできない価値ある創造性を有しています。この人間の持っている素晴らしい創造性の中心に何が一番大きな役割をしているかと言いますと潜在意識であります。
 しかし、この潜在意識を上手に使って行こうとするものは実在意識なのです。結局は心の働きですね。だから心をうまく使うと創造活動ができるわけです。その創造性の開発法には、いろいろなトレ ーニ ングがあるのですが、それはこの講義の一言では言い尽くせませんので後日また改めて講習の機会を持ちたく思います。
 今日は科学と哲学の次ぎにある「実践」について講義をしておきたく思う。我々は日常生活の中で、価値というほどおおげさなものでは無いにしろ、絶えず創造というものを念頭にして、生活をしていかなければなりません。なぜならばそれは他の生物には無い人問だけに与えられている最も人間たらしめる営みであるからです。
 今日は身近かな働くということについて、深い立場からお話をしそれを人間の創造性へと結んで行きたく考えています。日常生活のなかで、多くの人々が働いているわ けですけれども、これを価値高く評価しまた価値高く働いてもらうようにお話をしようと思う。
 ただ動くのであるならば低気圧だって動きます。小川のせせらぎ 春のそよ風だって動きます。「動」という字は物理的、自然的ですね。この動に人問を表した行ニンベンの「人」がつきますと働くとなります。ですから「ニンベン」の人をつけるということは人間の作為ということです。人間が目的、価値、意義などを考えてながら動いた場合が、働くということになります。ですから働くということは人間的で、動というのは物理的、自然的ですね。競馬の馬は私よりもお金を稼いでいます。だが競馬の馬は働いているのではありません。このレースは幾らだとか菊花寅の配当金は幾らかなどとは考えずただ条件反射的に走っているだけです。私たちは馬や牛のように意義や価値を知らずに働きたくはない。歯車のように部分品で思考もなくただ条件反射的に働きたくはない。なぜ人間は働かなれればならないのか。働くという事が、人生生活においてどんな価値を持つのかを、堂々と理解した上で価値高く働きたいものです。こういう事を扱う領域が「職業観」となります。観とはということは見方ですね。一時間この温度の仕事場で働くとすると、どのくらい汗をかくかを考えるのは「働きの科学」「働きの生理学」です。どういう行動をしたらより合理的になるかを考えるのは「経営学」「人間工学」です。今日ここでお話するのは「なぜ人間は働かなければならないのか?」という、働くことに価値ずけをし、意義ずけをして行く哲学方面からのお話しです。

 私は学生諸君や新入社員を対象にした研修講義の時に、働く意義について「私は何のために働くか」のアンケートを書かせています。10数年これをやっていますが、何時も決ったように全く同じ答えが帰ってきます。それらはだいたい4つの職業観に分類されます;
第一、自己保存的職業観。
 生きているから食べなければ生きられないから、生きるため食うために働くというものです。しかし、これが出来たとしても別に偉いことでもないね。これは動物も植物もみんなやっている事だ。生物はみんな自分自身で生きています。
第二、種族保存的職業観。
 家族を養うために働いている。子供の教育費のために働いているというものです。これも出来たからといって、そんなに偉らいこともないね。動物社会でもそれぞれがやっている事です。ツバメなども1匹の子供に対して1日に200回のエサを運び、しかもヒナの成長に応じてブヨからミミズなどへと食内容も変えてエサをやっているようです。
第三、欲望満足的職業観。
 自己保存は「食的」で種族保存は「性的」ですね。動物はこの食と性の欲望で生きているといえます。人問も動物ですからこれと同じ欲望をもちます。しかし、同時に人間は進化した動物でもありますから、他の動物には見られない、高度の欲望を持ちます。しかも人間は社会集団のなかで生活していますから、さらに複雑な欲望を持ちます。家が欲しいの、土地、車、海外旅行、ダイヤ、いい着物が欲しいなどもみなこの範疇です。
 しかしその中でもこうなりたいという希望もありま。希望は人間 らしい営みなんです。希望はどうしてもプライベ ートな感じがしまして多分に個人的な意味あいがありますが、それが完成された時に社会や福祉のためになれば理想となります。人類、社会、福祉に役に立つ希望ならそれは理想になります。みなさんも理想を持って欲しい。「杉山先生、理想など持てません」と言うのなら希望くらいは持って欲しい。それより以下は動物と同じレベルになってしまうから譲れません。
第四、金銭目的職業観。
 なにをするにもすべて金。先立つものがなければ始まらない、一切がお金至上主義でお金が欲しいからです。学生諸君、新入社員のアンケートの回答は、ほとんど以上の4つに分類されます。さてお金というものは大変に大切なものです。いくらあっても 足りないもので、お金を欲しくない人はそんなにいません。お金は昔から何時でも、どこでも欲しいということは、誰でもが同じことです。それではお金を獲得することが働くという事の結論か。人間はお金さえ獲得巣ればそれでいいのか。お金さえ獲得すれば働くことは終ってしまうのか。
 ここからが杉山先生の講演に入る。お金を乗り越えたところで、我々はもう一つの働き方をしなければならない。これが第五番目の職業観です。
第五、社会的職業観。
 世のため、人のために役立つ働き。なぜ社会的に役立つ事を持ってきたかというと、私たちはこの社会生活のなかで99.99%までは、人様のご厄介になって生きているからです。みんなのお世話になっています。
 1万円札の製造コストは20円、5千円札は13円だそうだ。しかし、一万円札そのものには価値はない。鼻紙にもなりません。1万円扎に1万円の価値を与えているのは品物です。人間お互いに品物を造っている。お互い様にその品物を使用して社会生活をしているわけです。日本民族は昔から、その社会性をよくわきまえていまして、「箱根山 籠にのる人か つぐ人 してまたワラジを作る人」という言葉があります。それぞれが、それぞれの仕事を分担して、お互い様でうまく行くのがこの世の中です。だったらあなたは何ができるのですか 。「これだ」という仕事を持っていますか。全てをお願いします、しかし一つだけは俺に任せてくれというものを持っことがこの職業観だ。すなわち社会の一員としてお世話になるのだから、一つぐらいはお前も分担しておやりなさいな」というものです。そして、これを一人前と言います。成人式で一人前でなく社会の責務を立派に果たした時にこそ初めて一人前です。
 それでは社会の一人前になるためには、何をするのかと言いますと、先ず専門の「知識』を持っことです。そして、それをやり遂げるだけの「技術」と実践力を持っことです。社会はそんなに馬鹿ではない。見るものは見ています。価値のないものにお金など使いません。ですから社会に通用する知識とそれをやりとげる技術を持てと言うことです。しかも世の中はどんどん進んでいますから知識も技術でも停滞してしまえば退歩していることになりますから、たゆまぬ努力が必要です。そしてこの「知識」と「技術」にさらに「真心」を持てと言うことです。
 「真心などと何をそんな古くさい事を言って」と言う人がいるが、そう言う人の感覚こそが古くさいわけです。真心こそは人類が社会生活をる限りにおいて最高の価値を持つものである。今の日本はこれを軽視する風潮があるが、はなはだ残念なことです。昔の日本人は「一河の流れ、一筋のもと、袖すり合うも多少の縁jとして、豊富な真心をもっていました。日本がどんなに繁栄しても、飽食で真心は養えませんし、どんなにいいものを着飾っても、真心は養いませんので、よくよく心すべきものてす。知識、技術、真心の3つが揃えば商売は繁盛しそして立派に社会の責務を果たす事ができます。そして社会的職業観を全うすることが出来ます。ここまでで私の話しは終ってもいいわけですが、みな様は高度な意識をもっていますからさらに高度な話しを続け、第六の職業観に入ります。ここでやっと今日のテーマにたどり着いたことになります:
第六.創造する喜びの職業観。
 創り出す喜び、創造する喜び、やり遂げた喜び、これは最上の喜びであります。この喜びは宇宙の心と結び付くものだからこれは強いものです。どうせ仕事をするのでしたら喜んでやりたいものです。また働くとはこうありたいものです。 この創造する喜びを見っけるのはそんなに困難なことでもありません。少し工夫すれば身近なところに幾らでも創造の喜びはあります。人様のお役に立つ仕事も創造の仕事です。世の中にはいやだいやだと言いながら、奴隸のように仕事をするのを「苦動」といい、働くことは辛くていやだがお金のためと自分の労働力を切り売りして、金銭と引き替えるマルクスさんのブロレタリア的なものを「労働」いいます。創造の喜びを感じ、明るく、楽しく働くのを「喜動Jといいます。同じ仕事をするのでしたらこうありたいものです。
 そうした「喜動Jの心で自分を創造し、家族を創造し、社会を創造し、 国家を創造し、世界を創造して行きたいものです。地球には53億人(1993年時点)になんなんとする人類が、これから3つの自覚と実践をして行かねばなりません。「人と時と場の自覚と実践」であります。世界の平和、人類の幸せ、世のため、人のためには「だれかが、いつか、どこかで、やるだろう」では駄目なのです。この御輿は「いつかは、だれかが、かつぐだろう」と言ってたら、何時までたっても誰もかつがない。「私が、今、ここで 、かつぐ」のでなければなりません。永遠の時を、ここに今、無限の場をここに限定して、人間であるあなたが今、実践したその時に、あなたは実存的な人間になるわけです。ただ口先だけ評論をやっているのではなく、「私がやらなければ、誰がやる」、「今やらなかったら、何時やる」、「ここでやらなかったら、どこでやる」、それを「私が、今、ここでやろう」とい事をふまえた時にこそ、あなたは最高の価値を捉えたわけでしよう 。
 私たちはそれぞれの現場でそれを実践して行かなければなりません。プロは逃げてはいけません。プロは顔を背けては行けません。プロというものは現場から離れては行けないのです。火事なのに消防士が逃げていたら火は何時までも消えません。ですから「俺が、今、ここでやらなけ れば、誰がやる』。これが創造して行く喜びですよ。社会的にも効果のある価値と意義のある仕事です。そうしますと、そこから生き甲斐と喜び張り合いというものが湧き出てきます。
 みなさんは、天風会員の中でも一番身近かな方々でしょう。どうぞ天風先生のお教えを確実にとらえて、実践して行ってもらいたい。仕事という日常の中にも創造ということは十分にできるものです。宇宙の創造と生命の創造が、誰の中にも流れているわけですから、我々人間も創造的に活 きて行くことが、生命を捉えた活き方であり、最も人間的な活き方になるわけです。世の人に役に立つよりよいものを創りあげて行く時に、社会性と創造性の二つが重なり合いまして、我々の喜びは何十倍のよろこびとなります。
 「創造する宇宙」、「創造する生命」、「創造する人間」、「創造の人生」は、生命の喜びであり、宇宙の喜びてあります。
 みなさま方が、これらを調和的に統一し、価値ある人生を、建設されます事を、心より祈って、私の講義を終えることにします。

       (1993年2月18日、野口書き起こし)

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