2015年11月アーカイブ

藤平光一氏の珍問答

 藤平光一著「中村天風と植芝盛平 氣の確立」(1998年刊)に書かれたクンバハカ法に関する天風師との珍問答ですが、読み返すたびに不快になります。
 師を超えようとする志は尊敬しますが、そのために師を否定して
自己を正統化するのはいただけません。いったん正師として仰いだのですから、離れてからも敬して超えて行くのが修行の道かと思います。
 先日、天風哲理に真摯な研鑽者からこの問答に関して2度目のメルマガをいただきました。メルマガの
読者からこれに関してたびたび質問があり、それに回答したメルマガでした。
 私はこの著書をすでに処理してしまい手元にありませんので、このメルマガをそのままに引用させてもらいました;

      *      *      *

 実は私もクンバハカの実践初期の頃、もう10年以上前のことですが、この本を見て迷い不安がよぎったことがあります。どういう箇所かと申しますと;

 (藤平氏)「あるとき私は天風先生に、クンバハカのような、あんな呼吸法はダメですよ、と言ったことがある。

 すると先生は「どういう意味だ?」と、私の顔を見た。
 クンバハカとは、天風先生が弟子たちに教えたヨガの呼吸法で、不動の心と身体をつくることを目的としていた。つまり、これができれば、リラックスも心身統一体もできるということである。しかし、私にはそうは思えなかったのだ。

 「いや、先生、クンバハカというのは間違っていますよ。だって先生、クンバハカをやっていますか?」

 「いや、やっておらん」

 「じゃあ先生は、自分でやっていないことを人にやれと言うんですか?」

 「うーん・・・わしはいつでもできるからいいんだ」

 「ねえ、先生、いつでもできる状態にあるということは、つまり、いつでも完全にリラックスしている状態にあるということですね」

 ちょうど、そのとき、中村天風先生の高弟が二人いた。

そこで二人にクンバハカを実際にやってもらってから、私が二人の胸を押すと、二人とも簡単にひっくり返った。

 「先生、クンバハカは安定打坐、すなわち心身統一でしょう。こんなクンバハカはないでしょう」と私が申し上げると、天風先生は「そのとおり」と答えられた。

 「それでは次に私がやってみます」と言って、私があぐらをかき、そのまま両脚を上げ、不安定な姿勢になった。そして、私の両肩を、先生の高弟に二人がかりで押させた。ところが、統一体になった私がビクともしないでいると。

 「おまえ、それは何だ」と天風先生が聞かれた。

 「これが本当のクンバハカでしょう、先生が教えたいのはこれでしょう」私がそう言ったら、先生は「そうだ」と返事をされた。

 「先生、これが正しいのでしたら、今のクンバハカは間違っていますよ」 

 当時、クンバハカ法は下腹に力をこめろと教えられていた。しかし、力をこめたのではリラックスなどできるはずがない。尻の穴を締めるということは正しい。人間は死ぬと、尻の穴から便が出る。

つまり、生きている以上は尻の穴を締めているのが正しい状態である。リラックスしていれば、自然に尻の穴は固く締まっている。

 しかし、下腹に力を入れれば、必ずみぞおちにも力が入る。これでリラックスなど、できるはずがない。下腹はこころをしずめるところであって力を入れるところではないのである。もしも天風先生の教えどおりに坐れば、どうしても身体は安定しない。それは読者も実際にやってみればすぐに理解できるはずだ。この状態で身体を押されれば、簡単にひっくり返ってしまうのである。もしも自然体ができていたなら、まさしく不動でなければならないはずなのだ。
 ところが天風先生は、リラックスした結果としてビクともしない不動体になるのに、弟子たちにその出来上がった"形"から教えようとしたために、弟子たちはかえって不動体にならない。力んだもろい姿になっていた。つまり、結果として、天風先生の教えとはまるで逆のことを弟子がやっていることになるのである。

 ( 中略 )

 天風先生は、はるかに年下の私から、杖術も含め、いろいろなことを習うのも、全然こだわりのない心でおられた。そういう点は本当に立派だったと思う。

      *      *      * 

 この著書「中村天風と植芝盛平 氣の確立」は、天風師亡き30年後に書かれたものです。私はこの問答は自身の「心身統一合気道」を正統化するためのフィクションでないかと考えています。
 先ず天風師がこんなとぼけた会話をするわけありません。まぁ、そんなことはどうでも一向に構わないのですが、いただいたメルマガにありますよに「実は私もクンバハカの実践初期の頃、もう10年以上前のことですが、この本を見て迷い不安がよぎったことがあります」と、クンバハカ法を実行している初心者を迷わすようですので読み捨てておけなくなり、私の所感を書くことにしました。

 ここに記された藤平氏の問答に沿って行くことにします。「*」は私の所感になります;

 「あるとき私は天風先生に、クンバハカのような、あんな呼吸法はダメですよ、と言ったことがある」

*藤平氏は戦後の弟子といいますから、当時70代の天風師の威風に向かってこんな不遜な口のきき方をする人はいなかったです。
*それにクンバハカ法と呼吸法は別の法でして、教義にプラナヤマ法(呼吸操錬)はありますが、クンバハカ呼吸法などありません。混合しているようです。

 「クンバハカとは、天風先生が弟子たちに教えたヨガの呼吸法で、不動の心と身体をつくることを目的としていた。つまり、これができれば、リラックスも心身統一体もできるということである」

*クンバハカ法はヨガの呼吸法でもありません。単なる呼吸する時の基本姿勢でして、リラックスすることでも心身統一でもありません。クンバハカ体勢で隙をなくしますが、それはリラックスではありません。

 「先生のクンバハカというのは間違っていますよ。だって先生クンバハカをやっていますか?」

 「いや、やっておらん」

*24時間クンバハカ体勢の天風師にこんな間の抜けた質問をできるわけありません。クンバハカを意識しなくてもすでにできていますから、特にやる必要ないうことです。その意味では私もやっていません。
 もし師が本当に「やっておらん」と回答したのなら、わからぬ者に説示しても仕方ないと突き放したわけです。

 「じゃあ先生は、自分でやっていないことを人にやれと言うんですか?」

*実に師に対しなんとも失礼な質問です。
 天風師自身が天風哲理の一番熱心な実践者でした。講演を面白く教義するために講談調の誇張もありますが、嘘は一つもありません。教義は「正直」で嘘はなく「深切」でやさしく「愉快」で楽しいものでした。自分にできないことを人に教えていません。実証主義に徹していまして長寿に関する講義ひとつとってみても、本人が80歳越えてから始めています。


 「うーん・・・わしはいつでもできるからいいんだ」

*こんなことを言うわけがありません。その本意は「いつでもクンバハカの体勢ができているから、特にやらなくもいいんだ」と、なります。ここで再度教示をしていますが、気の先生は「気」がつかぬようです。

 「ねえ、先生、いつでもできる状態にあるということは、つまり、いつでも完全にリラックスしている状態にあるということですね」

*繰り返しますがクンバハカはリラックスするためでありません。生活の中での基本姿勢です。基本姿勢はリラックスと違います。

 「ちょうど、そのとき、中村天風先生の高弟が二人いた。 そこで二人にクンバハカを実際にやってもらってから、私が二人の胸を押すと、二人とも簡単にひっくり返った」

*もしそうでしたら高弟の名前をだすべきです。高弟は誰を指すのかだいたい察しがつきますが、この問答についてなんら言及していません。もしあれば文献を教えてください。
*その高弟は合気道のためのクンバハカをしていません。日常生活の中でのクンバハカ体勢です。もし仮に簡単にひっくり返ったとしてもクンバカ体勢になっています。
「吉野山 ころんでもまた 花のなか」です。

 「先生、クンバハカは安定打坐、すなわち心身統一でしょう。こんなクンバハカはないでしょう」

*クンバハカと安定打坐は天風哲理の基盤をなす両輪なっていますが、クンバハカは安定打坐でありません。まったく別です。また心身統一はこの両輪だけでなく、体系化された天風哲理の実践を通して習得して行きます。

 「私が申上げると、天風先生は『そのとおり』と答えられた」

*天風師は藤平氏を相手にしていません。したがってこんな一方的な会話はなかったと思います。

 「それでは次に私がやってみますと言って、私があぐらをかき、そのまま両脚を上げ、不安定な姿勢になった。そして、私の両肩を、先生の高弟に二人がかりで押させた。ところが、統一体になった私がビクともしないでいると。

 「おまえ、それは何だ」と天風先生が聞かれた。「これが本当のクンバハカでしょう、先生が教えたいのはこれでしょう」


*確かにこれも合気道で鍛えたクンバハカなのでしょうが、これなら相撲取りのシコ・クンバハカにしても押してもビクともしません。

 ここが藤平合気道クンバハカと天風式クンバハカの大きな違いになります。天風師本人は不動のクンバハカを習得していましたが、弟子たちにはそこまで要求していません。「見切り千両」で一般の人は別に合気道の黒帶を極めるのでもなく、相撲取りになるのでなく、日常生活の中でのクンバハカなのですから、これくらいでいいと見切っています。
 この見切りが天風哲理の優れた特徴で素晴らしいところであり、天風師のやさしさでもあります。一才能に特化するのでなく人生におけるバランスを重視し、宇宙霊と一体となった霊的生活を本意としました。


 「先生、これが正しいのなら、今のクンバハカは間違っていますよ」

*どちらのクンバハカも正しいのです。合気道の不動のクンバハカを極めるもよし、日常の生活のなかの基本姿勢のクンバハカもよしで、どちらが正しいかと正当性を競うものでありません。クンバハカ法の基本を習得したら、あとは自分の目的に合ったクンバハカを工夫して実行すればよいわけです。
 私もクンバハカをより確かなものにするため、ドローイング運動を始め
腹横筋や腹斜筋など体幹深層部の腹筋を鍛えて、脇腹をベルトかコルセット締める要領(きつめのジーンズやスカートをはく時の感じ)で意識的に腹を凹ませて腹圧を高め、収縮させながら肛門をグッと締める方法を試みています。それだからといって天風式クンバハカを否定するわけではありません。継続は力の積み重ねです。

http://www.tempu-online.com/essay/2014/02/

http://www.tempu-online.com/essay/2014/03/
 

 「天風先生は、はるかに年下の私から、杖術も含め、いろいろなことを習うのも、全然こだわりのない心でおられた。そういう点は本当に立派だったと思う」

*たしかに天風師はこれが真理だと悟れば、その日からそれを採用しました。真理にたいして従順かつ柔軟で日々更新を旨とし自説に固守しませんでした。が、この珍問答の後にクンバハカ法が修正されたとは聞いていません。

*師の謙虚さを誉めることで自己を正統化するとはなんとも傲慢です。一法だけをみて天風哲理の全体がみえていません。まさに「釈迦に説法」でして、釈迦の手の上の悟空がごときフィクションです。

 藤平光一氏は2011年5月に亡くなりました。
 一を以て人生を貫き、合気道においては極限を極めた達人で立派な方でした。氏のご冥福を祈り致します。
 

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