天風道39年(天風の足跡を訪ねて) (令和6年2月16日講演録)
私の自己紹介から始めさせてもらいます。
私は1970年に日本を離れ、2024年1月に54年ぶりに住民票を、アメリカから日本に移して永住帰国しました野口五十六です。
よく、人様からなぜ帰国したのかと聞かれますと、そりゃ〜 冥土 in Japan だからですと答えています。
日本の大学を終え、台湾に留学して修士課程を取得し、その後台湾の友人の電卓を、アメリカ市場に売り込むために、妻と2つのスーツケースと、1万ドル(当時にして250万円)のベンチャーキャピタルを持って渡米し会社を創業しました。
アメリカ市場に基盤ができた15年目でしたが、これから大きく会社を成長しようとする時期に分厚い壁にぶち当たりました。
これまでは、200以上の民族が共存するニューヨークの人種の坩堝の中で揉まれながらも、孤独を感じることもなくやってきましたが、この頃になると持ち前の強気だけでは攻めて行けないところまで追い詰められていました。
これから大きく会社を成長させて行くために、私の心を強くさせ必要になっていました。
こうした時に人は神と出逢い、信仰の門を叩くのだと思いましたが、私は特定の宗教を持たないし、今から既成の神を信じることもできないだろうと思いました。
では、どうすればこの情況を打破する事ができるのかと悩み再び哲学書や自己啓発の本を読み漁りました。
仕事のかたわら模索しているうちに、アメリカ産のプラス思考まで行き着きましたが、西洋思想の流れを汲むそれらの自己啓発書に、何となくバーター臭さを感じ、今一つしっくりこない悶々とした日々でいました。
そうした折、天風会の会員から『天風誦句集』をいただき、一読して「これはすごい!」と直感しました。
世の中にこれほどすごい人が居た事に驚喜を超え度胆を抜かれてしまいました。しかも、それが日本人によって70年も前に創意されていたことに愕然としました。
これこそ特定な宗教に頼らなくても、厳しい国際社会を生き抜いて行く心の支えになる哲理と確信しました。
これが私と天風先生とのご縁でした。1985年、37歳の秋分の日でした。
早速、天風先生の著書を本棚に並べ、翌年に西部地区合同夏期修練会に飛んで帰り参加させてもらいました。
それからというもの、朝から晩まで天風、天風の毎日で、頭のてっぺんから足の爪先まで、全人格的にのめり込んでいきました。
なぜ追っかけを始めたかと言いますと、昭和60年頃ですが、夏期修練会は開催されていましたが、東京本部の天風会はスランプ状態にありました。
アメリカから日本に出張にした時に、日曜行修会に参加しますと杉山彦一先生の素晴らしい講義に関わらず参加者はいつも15人ほどでした。
このままでは世界的に優れた天風哲理が、埋もれてしまうと危惧を覚え、これではいかんと思い、よし天風先生の偉業を、掘り起こそうと決心して追いかけを始めました。
先ずは、天風先生の本と直弟子さんの著者を追っかけて、生の声を聞く事にしました。
我こそ天風師の志を継ぐ者ぞという、直弟子さんの使命感に燃えた全ての著書を追いかけました。
すでに多くの方が亡くなっていますが、こうした弟子さんの著書の中で、金字塔は、天風哲人の劇的な生涯を書き世界思想史に哲人の位置づけを問いかけた大井満氏の『ヨーガの里に生きる』『戦場と瞑想』、『心機を転ず』三部作があります。
執筆当時は天風先生の言葉を、活字にしてはならぬという呪縛(じゅばく)があった中で、破門を覚悟して制作に25年の歳月をかけた傑作です。
大井先生は天風師が亡くなった時の「しるべ」誌の編集をやっており、天風先生の近いところにいました。
しかし、当時すでに『ヨーガの里に生きる』が、絶版となっていまして入手困難でしたので、池袋に在った大井心理学研究所に追っかけでなく、私の手作り本を持って押しかけ、絶版はあまりに惜しいので、こういう読者がいるのですと、直々に再販をお願いしました。
大井先生は何かを感じたのだと思いますが、即答せず「考えて見る」だけ言いました。
こうして再販された返答として、新刊1冊をアメリカまで送ってくれました。
その後文通が続きまして、大井先生から君の熱意はわかるが、「まず座れ」「1日やらざれば1日遠のく」、「だれもが天風だと思ってやればいい」と、言われました。
私の大井先生への最後の手紙で、天風先生の50回忌に、私が本を出すことを約束しました。それが「天風式ヨーガと瞑想のすすめ」です。
この本で、天風先生がインドのヨーガを、日本に初めて持ち込んだ人で、安定打坐法を通してヨーガを日本化させたと定義しました。
こうして私が天風関連の本を追っかけている間に;
昭和の最後の秋のこと、経営合理化協会の牟田学さんが、天風講演を整理して「成功の実現」を、出版した事で、第二次天風ブームが巻き起こりました。
そして、私はもう著書を追っかける必要がなくなりました。
天風哲理が風化してしまうなどという「取り越し苦労の厳禁」を、身を持って教えられました。
実は、私はアメリカ在住ということで、正規の会員にならぬまま、杉山先生の特別の承諾を得て、赤札組として天風会に出入りさせてもらいました。
ですから著者権に厳しい天風会教務部から距離を置くことができましたので、1991年(平成3年)にいち早く「TEM PU ONLINE」というドメイン名でサイトを立ち上げ、そこにこれまで追っかけてきた天風関連の資料を、すべてこのサイトに入れ込んで公開しました。
また、2012年の東日本大震災の時に、もし天風先生なら被災者をどう励ましたかを、問いかけて「心を建て直す」を出版しました。
ついで2018年に、中村天風50回忌に、大井先生との約束でもあった、「天風式ヨーガと瞑想のすすめ」を出版しました。
いずれも著者権で問題になるのを避けて、わずかな原稿料でしたが、
全額「天風ギャラリーの維持費」に、寄贈させてもらいました。
また、これを機会に特別賛助会員になりました。
本の出版後に、池田忠一元専務理事(顧問)からお手紙をいただきました。著者権のクレームかと思い開封しましたら、こんな有り難いお手紙をいただきました。
(読んでみます)
前略 この度は「天風式ヨーガと瞑想のすすめ」、ご恵送賜り誠にありがとうございました。
最初は、このご本を、今までのような一時的な感動から、あたかも自分が悟った如く、天風先生の教義を著作権のある天風会の了承もなく発刊されたものと同類だろうとそんな気持ちで読みました。
しかし、一読これは良書だ、天風先生並びに天風教義を、統一道を日本だけでなく世界に発信する上で良書であると感じました。了承できるものと評価します。
と、ありました。これに勇気づけられ、私の次のライフワークとして、「中村天風の宇宙霊」、「目に見えない実在」を、見えるように書きたいのですが、いまだ手がつけられずにいます。
先の天経懇会の忘年会で、ここにおります吉田敏男医学博士が、顕微鏡で細胞見るとそこに宇宙霊がということに衝撃を受けました。
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さて次に、天風先生が遍歴した、足跡の追っかけに入ります、
私は18歳からかれこれ世界50カ国ほど放浪していますので、習性として訪ねた国の雰囲気を直感で感じられるようになっていますので、天風先生が行かれた国々の雰囲気を、立体的に感じたく思いました。
もちろん行ったところで、天風先生の面影などないのは承知の上で追っかけました。
天風先生の足跡は大きく3段階別れまして、
生い立ちから32歳までの満州
海外遍歴から42歳までの海外放浪
説法三昧から92歳までとなります。
天風先生の遍歴はどこを切り取っても劇的なので、それを一つ一つ話し始めますと明日の朝になってしまいますので、大まかな要所だけを、簡単に話したく思います。
(生い立ちから32歳までの満州ですが)
私の追っかけは、堂に行っていまして天風先生がまだ生まれぬ前、父、中村祐興(すけおり)からのご縁から始まります。
父、祐興(すけおり)は、渋沢栄一の要請で、明治5年創業、後に世界遺産となった、日本で最初の富岡製糸場の事務主任をしていました。
私はその近くで生まれ育ちました。
天風先生の誕生については、
直弟子の松原一枝さんの「中村天風 活きて生きた男」と天風先生の晩年のお弟子、松本光正(みつまさ)講師の「中村天風の歴史」があります。両著書には天風先生の生れに3歳差があります。
しかし、これは天風哲理の本質的な問題でないので、今はふれません。
生い立ちから16歳までに特出すべきは5つありまして:
1、生まれた時に、すでに前歯が2本生えていたので、これを心配した両親が高嶋易に見てもらったところ、
「これは油断すると石川五右衛門以上の悪人になるかもしれぬ」と鑑定されています。これはある意味で当たっています。
2、幼児期に父が王子製紙に勤務していたことから、寮に住んでいたお雇い英国人夫婦に可愛がられ、日常のなかで英会話を身につけたこと。ここでの英語が生涯に大きく生かされてきます。
3、父と一緒に講談を聞いた帰りに父から「世が世なら、ふたたび大名の世がきてやがてそちも大名になる」と言われる。これが潜在意識に打ち込まれました。
4、15歳頃、織田信長の少年期顔負けの悪餓鬼となり、両親の手に負えないことから、頭山満翁の玄洋社に預けられ、養父、頭山満翁から「彪」「彪」と呼ばれて可愛がられています。
5、16歳の時に、頭山翁の配慮で軍事探偵(スパイ)の河野金吉中佐のカバン持ちとして日清戦争開戦前の主戦場となった満州、遼東半島をお伴しています。
この頃に玄洋社で頭山翁を通じて孫文とも会っています。
(私は学生時代に大アジア主義に心酔していましたので、心情的に頭山満翁の思想と近いところにいましたので、満州時代の天風先生に抵抗なく入れました。)
さて、時代が下がり24歳時、陸軍参謀本部情報官歩兵大尉として採用され、1年間厳しいスパイ特殊訓練を受けて、3000人の募集から113人が合格し、下関から出国し上海、北京、天津を経て、満州ハルピンに潜入しています。
28歳の2月に、日本はロシアと国交断行し、11日に日露戦争勃発。
ロシアの後方基地であったハルピンにおいてめざましい破壊工作をし、度重なる破壊活動により、両眼に重度の視力障害を受けて右目は全く見えず、左目はわずか0.1に近く、耳は中耳炎で難聴になっています。
またハルピンの松花江の鉄橋爆破の爆風で下顎と歯を痛めてしまいすでに総入れ歯となり、まさに満身創痍の身となっています。
満州奥地で情報工作を足掛け5年間。生死の境を60回あまり経ての奇跡の生還し。選抜された113名の軍事探偵のうち帰還したのは9名だけという凄まじさです。
29歳、9月5日に日露戦争終結し翌年30歳にスパイ任務を解除しています。
(ここまでは満州が舞台でして、私は追っかけて大連から、長春、瀋陽、ハルピンまで北上しました。当時の満州里が、そのままの風景で見られました。
特にロシアとの国境線であるハルピンは、今もロシアの建物や教会の跡があり、
後方撹乱で二カ所の鉄道爆破や松花江の鉄橋破壊等が、そのままに偲ばれ、苦力に変装した天風先生やハルピンのお春が出てきそうでした。
今こんな追っかけをしていますと、スパイ容疑で拘束されて、中国から出国できないかも知れません。
ここで余談ですが:顔の洗い方でスパイが見破られたと言います。
30歳。日露戦争終結により3年4ヶ月ぶりに東京本郷の母の居る自宅に帰宅、
翌年に速度の速い悪性の肺結核と診断され死に直面しています。
当時、結核に関する最高権威者であった北里柴三郎博士の治療を受けても好転すること無く、余命3年と言われ「かくなる上は武士らしく死ね」と言い渡されます。
右肺に二つの穴が開いて片肺となり、喀血は38回にも及び、死に直面し突然恐怖におびえ始め、かくもか弱き惨めな心になり、これをどうにかしてかつての自分らしく、死をも恐れぬあのたくましい強い心を取り戻してから死のうと決意し、欧米各国へ訪歴を始めます。
「座して死を待つより、心の強さを取り戻したい」と救いの道を求めて渡米を決心します、実に天風先生らしい得意な発想です。
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海外遍歴は33歳から始まります。
5月、結核患者には出国許可が出ないため身分を孫文の父親の二番目の愛人の子供「孫逸郎」と偽り、中国人になりすまして上海に密航、上海からインド洋を経て、希望岬から大西洋を横断してアメリカ大陸へ渡ります。
8月に93日間をかけてアメリカ東部ニューヨークに到着し、翌月ペンシルバニア州フェロドフィアにあったモーション・モチーブの健康法に出席するも全得るものもなく期待外れとなる。
11月、渡米の大きな目的であった 「How to get what you want」「いかにして希望を達するか」の著者、待望のスゥエッド・マーデンとの面会が叶い訪ねると、この30代の青年哲学者は、自分の著書を何度読んだかを尋ね、「10回」と答えると「百万回読め真理を知らずに死ぬよりも一歩でも近づいて死ぬのは幸いなり」だけで全く得るものがなく大きく落胆する。
34歳、エジソンの神経病を治療した哲学者で「How to live」の著者、カーリントン博士を訪ねても「人生の真理を求める心が尊い、あ〜尊い、尊い」と、言われただけで体よくあしらわれここでも得るものがなく、
当時、大金の5万円をもって渡米するもセミナー代等で半年で使い終わり、「腹の空いた痩せ犬が、道端をほっつき歩いているような状態だった」。
当時の1万円は家政婦を1人使い銀行の利子で過ごせた時代。お米一升三銭。
35歳。生活費と旅費を稼ぐため吉沢日本大使の紹介で、広東省の華人の富豪が、愛人3人を連れて、今でもあります5番街の名門プラザホテルで暮らしていた留学生の李宗順(後に香港で開業)の通訳と、コロンビア大学の耳鼻咽喉科の授業を代行して医師免許を取得してやり、同時に孫逸郎の名でコロンビア大学の基礎医学部で、免疫系と自律神経系統の短期講習を受講しています。
このアルバイトを8ヶ月ほどして8千ドルと謝礼8千ドル、1万6千ドルをもらい
ヨーロッパへの渡航の旅費にあてる。
こんな短期間に博士を習得は事実なのかと質問されましたが、卒業者名簿に孫逸郎の名前で載っているとことです、私は調べていないので何とも言えません。
コロンビア大学で医学の知識は習得できたが、先進医学のアメリカでも結核に対して治療方法がなく、また哲学的にも得るものがなく絶望の縁に突き落とされる。
その時に、NYの日本商社の人に医学や哲学を希求するなら英国に行くよう勧められ、大西洋の嵐に遭いながら英国に渡り、体重は50キロと痩せ衰えて、旅行のトランクが持ち上がらぬ状態でやっとのことロンドンにたどり着く。
ロンドンでアデント・ブリュース博士の講座「神経系統と精神活動」を、2週間受講し、受講最終日に治る秘訣を教えるとのことだったが、「健康な体でなければ心は強くなれない」「病を治す秘訣は病を忘れること」( Forget it. This is only this.)というだけであった。
「忘れ方を教えずに、どのように忘れられるか」と質しても、アジア人の後進民族に、私の高尚な哲学など解らぬと軽蔑されるだけで、ここでも得るものがなく、
その後さらにドバー海峡を渡りベルギーに、そしてフランスに入り。ロンドンの日本クラブで新聞を読んでいる時に知り合った医師に、19世紀フランス演劇で最も有名な舞台女優サラ・ベルナール(ユダヤ人、1844−1923)を、紹介され6ヶ月お世話になる。
当時ベルナールは68歳でしたが、娘のように若く24〜25歳くらいにしか見えないことに驚く「女優に歳は無い」と娘のように若く、その秘密は「日に一度赤子の心に戻る事」とのことのようでした。
天風が巡り逢った女性の中で、サラ・ベルナールとハルピンのお春の2人を、絶世の美人と讃たえ、こんな聡明な女性と会ったのはこれまでに1人だけと懐述しています。
ルイ二世の宮殿であったベルナールの家に360数名の女優が寄宿し、食事の時に女優たちが実に楽しそうに笑いながら食べるのに驚き、後にこれが天風会の食事前の「笑え」につながって行きます。
ベルナールの紹介でリオン大学のリンドラ心理学博士に会い「鏡による暗示法」の指導を受ける。
また、これもサラ・ベルナールの紹介でドイツに赴き、当時世界で最高の権威であった、ベルリン大学で「生気論」の教鞭をとっていた哲学者ハンス・ドリュース博士を訪ねる。
小柄で歳をました博士は、天風の質問に目を閉じたまま耳を傾けた後、ドイツ人の口癖でおもむろに「Yes, But.君の希求しているものは世界古来いからの謎であり、心というものは絶対に人間の自由にならない。それは海の魚を森に求めるに等しい」「求めて探りだせれば自分だけの喜びでなく、人類を幸福にできる喜びとなる。ともに求めて行こう」と断言される。
(私はここでベルリン大学に追っかけ、ちょうど数ヶ月前に崩壊したベルリンの壁を見ていまして、お土産に壁のかけらを買ってきました。
また、パリの小さな広場におみやげ屋の屋台が出ていて、そこでダメもとで白黒の絵葉書を探しましたら、中からサラ・ベルナールの写真2枚を見つけ出した時には「やった!」と思いましいた。)
こうして2年間の欧米遍歴は、心を強靭にする回答を得られぬまま絶望した時、急に母の顔と日本が懐かしく恋しく浮かんできて、もう居ても立ってもいられなくなり、「えいくそ、面倒だ、日本まで行けなきゃ、途中で海の中へ飛び込んで死んだって解決つくわ」と、日本へ死に逝く帰国を決心する。
5月25日「日本に帰ろう。母のいる国、富士山の見える国、そしてわが家で死のう」と、小雨そぼふるほの暗いマルセーユの港を、絶望の唾を吐き捨てるようにして失意うちに離れました。
3つの客室のあるペナン行きの貨物船に乗り地中海をゆっくりと南下し、天風は客室から出る事も無く絶望のどん底、それこそ活きるゾンビが、船底に寝たままスエズ運河へ向かう途中、イタリアの軍艦がスエズ運河で座礁して不通となり、急遽迂回してエジプトの最大の港アレキサンドリアに5日間の寄港となりそこに錨を下ろしカイロまで小舟で行く
(私は、マルセーユの港に行きたかったですが、移民の激増で治安が悪いとのことで中止しています。将来機会があれば行ってみたく思っています。)
1911年6月8日、ピラミッド観光のため朝2時30分に起床するが、3時に激しい喀血となりホテルで横になる。
(私はピラミット行きましたが、たんぷん天風先生は行ってないと思います。)
ピラミッド見学をキャンセルした事で、朝4時頃にホテルのボーイに無理やりに起こされ、抱かれるようにして食堂に連れて行かれ、モロヘーヤ(青葉スープ)を、無理して喉に流し込んでいる時に、前方の席に客として居合わせた60歳前後と見受けられる老人(当時106歳ともいわれる)、カルマ・ヨガの聖者、カリアッパ導師 (Colliyaha、インド南方のペプチア人)と、運命的な出会いとなります。
カリアッパ師に手招きされ、フラフラと近づくと、「お前は右肺に病を持っているが、母国へ死にに行くのか」、「お前はまだ死ぬ運命ではない。私について来なさい」、
"You can save yourself、You had better follow me.の言葉に、わかりましたCertainly.と応えて従いました。
(この運命的な出会いは、天風師が講演の時にいつも涙ながらに話しています)
6月9日、翌朝に出発。スエズ運河、紅海、アラビア海を、ヨットで従者2人を含めた4名で、途中おもだった港に2、3泊しながら6月下旬にパキスタンのカラチに入港。
(私は天風先生の行かれた国は、全部行っていますがパキスタンだけ行っていません)
カラチでヨットを降り10数頭のラクダの曳船に乗り換え、インダス川を6日間かけ250キロほどを北上しさらにラクダの背に乗り、広大なインダスタン平野を越え、遥かヒマラヤの東の端カンチェンジュンガの麓に在るヨーガの里ゴーゲ村に向かい、95日間の長旅の果て、9月中旬、ゴーケ村(Gorkay)にたどり着つき、カースト制度により奴隷(スードラ)の身分として修行に入り、始めの2ヶ月間は、心の垢を洗い落とし赤子のような心になるための準備期間をとり、ゴーゲ村にて2年7ヶ月の修行が始まり、第一歩としてメハム川(Meham)で、朝のクンバハカの修行が始まり、カリアッパ師が指導したヨギの中で最速で悟り至リマス。。
(ヨーガの里での修行期間には、1年9ヶ月と2年7ヶ月と3年と諸説があり、松本講師は確か1年9ヶ月としています、私はカリアッパ導師と会ってからからを数えて2年7月としています。天風先生は講演でよく3年と話していますが、多分欧米遍歴を含めての3年としているかと思います)。
ヨーガの里での修行と悟りの日々は、多い先生のヨーガの里に詳しく、また、村里、萩原、堀田、吉田講師の「カリアッパ師との対話をよむ、希望の言の葉」に、お任せして私は飛ばすことにします。
かくして、生命の甦りを果たし修行を終えて、カリアッパ導師より「オラビンダー」覚者の聖名をいただきゴーグ村を離れる時、カリアッパ師は片手を天風の肩に置き「もし困ったことでも起これば、私の代わりに『もう一人のお前』が、それを解決してくれる。けして寂しがることはない」と優しく伝える。
師と別れの際は「哭いたよ、声をあげて哭いたよ」という。
一説によると、カリアッパ導師は天風を送った後、ゴーグ村に戻ることなく行へ知らずとのこと。
カリアッパ師に送られガンジス川を下りカルカッタを経由して上海へ向かい、密航が時効になるのを待って日本に帰国します。
(この間に、孫文の中国革命に同行して武漢を通り北京まで北上しています)
38歳 8月帰国。
船上から「霊峰富士山を見た時には、泣けて、泣けて仕方がなかったと回想しています。
39歳、密航の時効を待って晴れて中村三郎となり、帰国の挨拶に頭山満家に挨拶に行くと、
頭山夫婦は紋付着物で迎え上座に座わせて、翁は「あなたは選ばれた人じゃ。キリストは悟りたいために5か年、釈迦は6年、マホメットが7年、その間どこに行つたかわからなかった。
それで全く見違えるような立派な人間になってあらわれた。
あなたは自分自身をつくりかえて帰ってこられた。これは深い天の思し召しがあると思わなければいかん。
『天のまさに大任をこの人にくださんとするや、必ずまずその志を苦しめる』まさにあなたがその通り。これからのあなたは、あなたの人生を生きるのではない。人の世のために生きるために、あなたは生まれ変わられた。おわかりになったか」と諭し、
頭山翁は天風と二人の時に、座席を改め天風に上座に座らせて「世の為、人の為に、汝は立つべし」と勧められる。それ以降、頭山翁は人前では「中村先生」と呼ぶようになる。
「得意の居合い抜き天っ風のごとく天風と名乗れ」とし。
以後は天風と名乗り始める。」
中村天風の誕生です。
4ヨーガの里ゴーグ村
海外遍歴の中でのメインイベントは、やはりヨーガの里となります。
私は群馬の八木節で「ちょいと出ました三角野郎」の、おっちょこちょいのところがありまして、天風先生が43歳でビジネス界から身を引いて辻説法をはじめたのを真似して、よし、俺も43歳でビジネス界から一線を引き、天風先生の行かれた足跡を追い始めました。
事始めに天風会西部地区が企画した「ヨーガの里を訪ねて」で、アメリカから参加させてもらいまいた。
まず、NYから14時間飛行して護国寺に立ち寄り、天風先生のお墓まいりをし、お墓の小石を数個いただき、また昭和44年の「志るべ」誌「哲人追悼号」のコピーを、懐にしてヒマラヤに向かいました。小石は清らなメマム川へ、追悼号は一枚一枚切り開いて、ヨーガの里に報告と意気込んでの出発でした。
東京から9時間半飛行してニューデリーで、大阪天風会の一行と合流し、そこから更に西方に2時間バクドグラ空港に行き、待機していたマイクロバスで4時間揺られ、標高2千メートルの山々の峠を越えてヒマラヤの麓、紅茶で有名なダージリン到着しました。
途中に標高2590メートルの丘にあるタイガーヒル見晴台から、ヒマラヤ連峰の東の端に位置します、第3の高峰カンチェンジュンガ、(8616)メートルの霊峰を遠望しました。
この時に一行20名から同時に出た言葉は、「天風先生、来ましたよ!」でした。みな興奮してハイになっていました。
翌日、目的地ゴーグ村へ、ダージリンから標高2千メートル尾根をジープに揺られながら西南に20キロ走り、インドとネパールの国境の村マネパンジアン到着。そこから徒歩で国境の遮断棒をくぐり、80メートルほど行くと、小さな出入国検問所がありまして、我々はネパールのビザを取得していませんでしたのでこれ以上は進めませんでした。
そこで、旅行ガイドに交渉させ、入国1時間以内という特別な黙認許可をもらいネパール領に入りました。
ゴーグ村はここから更に20キロ先、山道になれない我々の足では5時間かかるとのことでした。
それでもゴーグ村に続く山道を一歩そして一歩と近づいて行き、ゴーグ村まであと3つの山を挟んだ手前の、見晴らしのいい斜面が、我々の到達点でした。
そこで3つ目先の谷間のゴーグ村を眺めながら、一同プラナヤマの誦句を唱和し、天風先生と同じ空気を共有してきました。
私がよかったと思ったのは山々の風景が日本の山々とよく似ていた事でした。
ゴーグ村を下見に行かれたインド人旅行ガイドに墓石を渡しメハム川の川底に約束をしながらダージリンの街を歩いてたら、彼が写真館の前でぴたりと足を止め、ウインドウの写真を指差し「ここです。まさにこの風景です」言われたので、写真屋に交渉して買ってきました。
この写真を杉山先生にお見せしましたが、皆様にもお見せしたく持参しました。ここがそうです。到達できず無念はありましたが満たされました。
その後、我々の無念を晴らすかのように、東京本部から第二陣、第二陣が結成され、今度はネパールの西側から入りゴーグ村まで行かれました。
ここで、2つだけお話ししたいのですが、国境の村マネバンジャに小さな祠がありまして、そこで坐像がありました。
遠くはるばる来たのだから、せめて一つのおみやげ話に、それがカリアッパ導師であってくれと祈る気持ちでのぞきましたが、一眼見て印の組み方の違いからラマ僧と分かりました。これには落胆しました。
第2陣で行かれたリーダーも、やはり私と同じ思いだったのでしょう、祠の坐像を写真に撮り、確かめもせず、ミスリードして「カリアッパ導師」の写真として「志るべ」誌に掲載しました。
私は同じ祠を見た者として、カリアッパ師の尊厳にかけ「志るべ」に間違いを指摘しました。
更には、2陣、3陣に行かれた、吉田勝昭さんによると、ゴーグの場所自体が、ここでなくもう少し南下のヨーガ部落なのではと提起しました。これには参りました。
パラマハンサヨギの著書「あるヨギの自叙伝」の中で、そのあたりヨーガ部落に「昔サムライが修行していた」と1行だけ書いていますので、吉田さんのいうここら辺りがそうなのかなと思ってみたりしました。
これはコーグ村の位置を根本から覆す見解で、私は全くわからず、吉田さんも追求しきれずでしたので、初めて吉田さんのお会いした時に、ヨーガの里は『天風神話』にしましょうと提案させてもらいました。
この辺りの各所がヨーガの里なのですから神話でいいのです。
余談ですが、ヨーガの里まで行ったご褒美として、京都支部の伊達静様(テニスの伊達公子さんの大叔母さん)が、円相のお軸をアメリカまで贈ってくれました。
伊達様は102歳で帰霊しましたが、天風先生より長生きしてしまい申し訳ない申し訳ないと言っていました。
100歳の時にお祝いの電話をしましたら、不機嫌そうにまだ98歳ですと返され、あ、あ、そうですねと、京都茶を濁しました。
以上が、ヨーガ神話物語です。
5
説法三昧は上野公園の樹下石上から始まります。
1919年(大正8年)天風先生43歳。
「日本の精神文化に貢献したい」、「真理にふれたら、人を救わずにはおられない」「教えの原理があればなにもインドに行かなくても人を救えることができる」。
その救いの原理はなにか。どうすべきか、"How to say"から" How to do "へ、8年をかけて心身統一法が創意しました。
妻にこの仕事に自分の命をかける決意を述べ、一切の社会的地位と財産を整理して世ため人のため単身で、妻子2人を含む5人の弟子から始めました
6月8日、朝九時、天風先生が妻・ヨシ子に向かい、
「おい、今朝から始めるんだ」
「何で今日からお始めになさいますの」
「お釈迦様は7月8日に始めたというから、俺は6月8日だ。にぎり飯をこさえてくれ、にぎり飯を」
かくして、上野公園の花園稲荷神社の鳥居のはす向かい、青葉茂る樹下石上に、草鞋に脚絆姿で仁王立ちになり、右手に持った鐘を鳴らし「道行く人よ、来たれいざ」と、第一声を上げました。
3ヶ月間、毎日握り飯を持って上野公園の樹下石上と、日比谷公園の大隈重信の銅像の前で大道説法を行い「寒風吹きすさぶ暮れせまる街頭で60歳を越えたたった一人の女性のために統一道を説いた事もある」と感慨深く語っている
この信念と決断はすごいものです。ここから天風哲理のすべてが始まります。
(私に時代考証ですが)妻の「何で今日からお始めになさいますの」に対し、江戸っ子で粋な天風先生ですから、口にこそ出しませんでしたが、8年前の今日が、己の命を救ってくれたカリアッパ導師と出会った運命の日という熱き想いがあったからと推測します。
私は護国寺に行く折に、先生のお墓まいりしますが、私はどちらかと言いますとこちらの上野公園の樹下石上方が好きでよく行かせてもらっています。お墓は死ですが、ここは天風哲理が産声を上げた樹下石上だからです。
私は出張で日本に帰る度に、上野公園の見えるパークサイドホテルに常住し、毎朝ここまで散歩して石上に座り、先生の信念と決断を偲んでいます。同時に石の上に座り私の信念をリチャージしています。できることならこの石上の横に、「天風哲理発揚の地」と、記念碑を建てたく思うのですが、まだ気が熟していません。
余談ですが;(パークサイドホテル主人は、かつて天風会員で、ここでも仲間が集会したそうです)
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1945年(昭和20年)69歳。
8月、終戦。
皇居城内で起こった「終戦玉音放送録音盤秘話」がありますが、今回はここでは省略させてもらいました。
ご興味のある方は大井満氏の「新機を転ず」の「終戦前夜の反乱」か、私の「Ten Fu Online」に転載していますので、こちらをどうぞ。
戦前は政治問題、社会な紛争事件等に関与していたが、戦後は一転しひたすら真理のみを見つめ、人間としてのあるべき姿を説いてゆくことになる。真理の道そのものが全てとして説法三昧を展開してゆくことになります。
10月、虎の門ビルで戦後初めての講演を再開。以後、焼け跡の各所に会場を求めて毎月講演会を行い、戦後の荒れ果てた精神の建て直しに立ち向かう。
戦争には反対を貫き東条首相にも直言して憎まれ、特務機関から危険人物と睨まれるほどでしたが、戦争が終結すると戦犯の責任問題が渦巻くなかで一切批判する事無く、会員にも日本を批判すること無く黙って国の再建を促す。
A級戦犯となった広田広毅元首相(玄洋社の先輩)を、巣鴨プリズンに見舞った折り、東京裁判で何の弁明もすることなく黙って超然と死して行くことを助言する。
436人の言論家リストなかで、一人だけパージを受けずにすむが、公開講演を大きく規制されたため、この機に弟子たちに残すための天風哲理の出筆を始める。
1947年(昭和22年)71歳。
GHQマイケル・ハーガー中将の要請により、元毎日新聞地下ホールでGHQの幹部約250人を対象に3日間の講話をする。
たまたま来日中で同席していたロックフェラー三世に大きな感動を与え、繰り返し、繰り返しアメリカに招かれるが、日本で信念することがあるとしてこれに応ずることがなかった。
4月、「真人生の探究」出版。講演活動を全国的に展開。
1948年(昭和23年)72歳。
4月、「研心抄」を出版。
4月、護国寺の月光殿を拝借して毎月講習会を開く。戦後になり天風会の会費が安くなり一般にも解放される。
1949年(昭和24年)73歳。
4月、「練身抄」を出版。
一般講演ができない戦時期に、天風哲理を体系的に解説した「真人生の探究」、心のあり方を説いた「研心抄」、身体のあり方を説いた「錬身抄」を、「天風三部作」として集大成させる。
4月、「志るべ」誌、神戸創刊し6月から東京本部で発行。
1953年、(昭和28年)77歳。夏、「安定打坐考抄」を出版。
1955年(昭和30年)79歳。
夏期修練会に東京で六百数十人、神戸で六百数十名、大阪で五百数十名と、2千余人に近い参加者となり終戦後10年にして盛況をみる。
1956年(昭和31年)80歳。
80歳過ぎて長生きの確信を得てから初めて長寿法についての教義を始める。
1957年(昭和32年)81歳。67年前。
7月、「天風誦句集(黒)」発行。
1958年(昭和33年)82歳。
6月、「哲人哲語」(1948年〜55年「しるべ」誌の巻頭29編のエッセー)を出版。
1961年(昭和37年)85歳。
2月、61年間連れ添った妻ヨシ子が逝去。享年78歳、護国寺の中村家の墓の左側に妻に贈った銘碑が刻まれている。
「先天一気即霊源 無作意而行自然 人生亦此制濤中 一切還元帰大霊」、この詩は色紙に書いてくださるよう頼まれても、妻に捧げたものとして誰にも書き贈る事はなかった。
12月、「箴言注釈」(改訂版「叡智のひびき」)発行1957年〜61年「しるべ」誌、31回の箴言。後に日めくりカレンダーとなる。
1962年(昭和38年)86歳。公益性が認められ「財団法人天風会」となる
「自らを世に売り込むようなことはしたくない。縁ある者だけを、全力を尽くしてお教え説きたい」とし、当初より宗教法人にする考えはなかった。
7月、「真理践行句集(緑)」発行。62年前。
1965年(昭和41年)90歳。
4月19日の教義で、現在只今の時点で心身統一法を論理組織で説いているのは世界でただ一人であると断言
(「天風先生座談」、宇野千代著)。
1967年(昭和42年)91歳。
4月、護国寺月光殿にて「神人冥合」講演を収録。
9月、「誦句集」英語版を発行。
8月、全国を講演に回りながら暗黙のうちに会員らにお別れが始まる。
西部地区での最後になった修練会に来られた時、会員がマッサージした足がいつもと違い冷たいことにじきに
来る死を予感する。
「新箴言注釈」(改訂版「真理のひびき」)発行。
後に日めくりカレンダーになる。
1968年(昭和43年)92歳。
4月、会員たちの尽力で護国寺門前に天風会館が落成。
落成を目の前にして、「心身統一法という天風哲学を自分以上に熱心に実践した人間はいない。また、だからこそ自分以上に人の心に深く伝えられる人間もいない。従って天風の2代目はいないのだから、これから先は天風会館を、自ら一人ひとりが心身統一法を学ぶ教えの殿堂としていってほしい」。
落成時の挨拶に会員たちの気持に感謝しながらも「法を説くのに殿堂はいらず」と、辻説法初心の気迫を吐く。
11月10日、創立50周年記念祝賀会を開催し天風が総裁、安武貞雄を二代目会長に就任。
遺言ともとれるお言葉に;「天にへいとして輝く日月にかわりはない。俺は月を見よと指差して教えた。全国の会員に伝えよ。指を見ないで月をみよ。俺が指さそうと安武会長が差そうとも、真理の月にかわりはない」
11月30日、正午に英語の勉強の際、Probably と Perhaps のニュアンスの違いを、安武会長に質問し、その回答に「よしわかった。Thank you.」と、死の直前まで勉学され、この言葉が安武会長と交わした最後の会話となる。
12月1日、「今から寝るからじっとみておれ」と、午前1時55分に帰霊。
両足をさすられながら、誠に静かな大往生だった。
清らな美しい眼出で黒目はあくまでも黒く白眼はあくまでも白く、濁りも充血もなく幼児の目のようであったという。老衰死。
「俺が仮にこれから十年、二十年と生きてみたところで、過ぎたその時になってみれば、今と同じことだと思う。人間の寿命は望んだからといって得られるものでもない。俺は俺の教えを一生懸命教えてきた。俺もその教え通りに怠らずやってきた。そして今度の病になってから、人の心の強さが人生にとっていかに大切であるかを一層よく知った。今は俺の教えが正しく世の中に伝えられることを望んでいる」。
直接薫陶を受けた者は全国で百万人を数え、皇族をはじめ、大臣、実業家、学者、軍人、人間国宝や文化勲章者、落語家、俳優、相撲取り、金メダリスト、スポーツ選手、小説家、サラリーマン、市井の人々に及ぶ。
12月7日、12時30分より天風会館にて、財団法人天風会葬、告別式。
葬儀委員長に重宗雄三参議院議長、友人代表に笹川良一氏、一万三千本の白菊の生花で富岳をピラミッド型に造られ祭壇の中央に「天風哲人」記され額に遺影が置かれた。
その前で粛然献花する会員、惜別無限の情はまことに胸せまる情景であった。
真理を説いて五十年、人の幸福と世の平和を願った哲人ここに静かに帰霊なされた。
(「志るべ」誌、哲人追悼特別号、大井満記)
1973年(昭和48年)帰霊5年。
「真理瞑想録」第1巻を創刊開始。生前40年にわたる夏期修練会での真理瞑想行の示教を集録。
1978年(昭和53年)帰霊10年。
「真理瞑想録」第13巻発行。1973創刊〜78年第13巻。
1988年(昭和63年)帰霊20年。
天風会創立70周年に「真理瞑想録」13巻を会員向けに合本編集して出版。
9月「成功の実現」中村天風述(日本経営合理化協会刊)が、ベストセーラとなり第二次天風ブームを巻き起きおこり、関連著書がたくさん出版される。
1994年(平成4年)に「真理瞑想録」改訂版として「運命を拓く」講談社から刊行され文庫本となる。
天風述;「諸君にいいたいのは、恵まれた幸運に、いい気になって、自己研磨を怠ってはいけない。
やがて21世紀が来たら、思想的にも、アイデアに方面にも、必ずや、世界をリードするだけの権威ができると、私は確信している」「私が三寸息絶えて、何百年の後に、世界中が、みな宇宙霊との一体の実行者に、必ずなると確信を持っている!」
7
1945年(昭和20年)69歳。
8月、終戦。
皇居城内で起こった「終戦玉音放送録音盤秘話」がありますが、今回はここでは省略させてもらいました。
ご興味のある方は大井満氏の「新機を転ず」の「終戦前夜の反乱」か、私の「Ten Fu Online」に転載していますので、こちらをどうぞ。
戦前は政治問題、社会な紛争事件等に関与していたが、戦後は一転しひたすら真理のみを見つめ、人間としてのあるべき姿を説いてゆくことになる。真理の道そのものが全てとして説法三昧を展開してゆくことになります。
10月、虎の門ビルで戦後初めての講演を再開。以後、焼け跡の各所に会場を求めて毎月講演会を行い、戦後の荒れ果てた精神の建て直しに立ち向かう。
戦争には反対を貫き東条首相にも直言して憎まれ、特務機関から危険人物と睨まれるほどでしたが、戦争が終結すると戦犯の責任問題が渦巻くなかで一切批判する事無く、会員にも日本を批判すること無く黙って国の再建を促す。
A級戦犯となった広田広毅元首相(玄洋社の先輩)を、巣鴨プリズンに見舞った折り、東京裁判で何の弁明もすることなく黙って超然と死して行くことを助言する。
436人の言論家リストなかで、一人だけパージを受けずにすむが、公開講演を大きく規制されたため、この機に弟子たちに残すための天風哲理の出筆を始める。
1947年(昭和22年)71歳。
GHQマイケル・ハーガー中将の要請により、元毎日新聞地下ホールでGHQの幹部約250人を対象に3日間の講話をする。
たまたま来日中で同席していたロックフェラー三世に大きな感動を与え、繰り返し、繰り返しアメリカに招かれるが、日本で信念することがあるとしてこれに応ずることがなかった。
4月、「真人生の探究」出版。講演活動を全国的に展開。
1948年(昭和23年)72歳。
4月、「研心抄」を出版。
4月、護国寺の月光殿を拝借して毎月講習会を開く。戦後になり天風会の会費が安くなり一般にも解放される。
1949年(昭和24年)73歳。
4月、「練身抄」を出版。
一般講演ができない戦時期に、天風哲理を体系的に解説した「真人生の探究」、心のあり方を説いた「研心抄」、身体のあり方を説いた「錬身抄」を、「天風三部作」として集大成させる。
4月、「志るべ」誌、神戸創刊し6月から東京本部で発行。
1953年、(昭和28年)77歳。夏、「安定打坐考抄」を出版。
1955年(昭和30年)79歳。
夏期修練会に東京で六百数十人、神戸で六百数十名、大阪で五百数十名と、2千余人に近い参加者となり終戦後10年にして盛況をみる。
1956年(昭和31年)80歳。
80歳過ぎて長生きの確信を得てから初めて長寿法についての教義を始める。
1957年(昭和32年)81歳。67年前。
7月、「天風誦句集(黒)」発行。
1958年(昭和33年)82歳。
6月、「哲人哲語」(1948年〜55年「しるべ」誌の巻頭29編のエッセー)を出版。
1961年(昭和37年)85歳。
2月、61年間連れ添った妻ヨシ子が逝去。享年78歳、護国寺の中村家の墓の左側に妻に贈った銘碑が刻まれている。
「先天一気即霊源 無作意而行自然 人生亦此制濤中 一切還元帰大霊」、この詩は色紙に書いてくださるよう頼まれても、妻に捧げたものとして誰にも書き贈る事はなかった。
12月、「箴言注釈」(改訂版「叡智のひびき」)発行1957年〜61年「しるべ」誌、31回の箴言。後に日めくりカレンダーとなる。
1962年(昭和38年)86歳。公益性が認められ「財団法人天風会」となる
「自らを世に売り込むようなことはしたくない。縁ある者だけを、全力を尽くしてお教え説きたい」とし、当初より宗教法人にする考えはなかった。
7月、「真理践行句集(緑)」発行。62年前。
1965年(昭和41年)90歳。
4月19日の教義で、現在只今の時点で心身統一法を論理組織で説いているのは世界でただ一人であると断言。
(「天風先生座談」、宇野千代著)。
1967年(昭和42年)91歳。
4月、護国寺月光殿にて「神人冥合」講演を収録。
9月、「誦句集」英語版を発行。
8月、全国を講演に回りながら暗黙のうちに会員らにお別れが始まる。
西部地区での最後になった修練会に来られた時、会員がマッサージした足がいつもと違い冷たいことにじきに
来る死を予感する。
「新箴言注釈」(改訂版「真理のひびき」)発行。
後に日めくりカレンダーになる。
1968年(昭和43年)92歳。
4月、会員たちの尽力で護国寺門前に天風会館が落成。
落成を目の前にして、「心身統一法という天風哲学を自分以上に熱心に実践した人間はいない。また、だからこそ自分以上に人の心に深く伝えられる人間もいない。従って天風の2代目はいないのだから、これから先は天風会館を、自ら一人ひとりが心身統一法を学ぶ教えの殿堂としていってほしい」。
落成時の挨拶に会員たちの気持に感謝しながらも「法を説くのに殿堂はいらず」と、辻説法初心の気迫を吐く。
11月10日、創立50周年記念祝賀会を開催し天風が総裁、安武貞雄を二代目会長に就任。
遺言ともとれるお言葉に;「天にへいとして輝く日月にかわりはない。俺は月を見よと指差して教えた。全国の会員に伝えよ。指を見ないで月をみよ。俺が指さそうと安武会長が差そうとも、真理の月にかわりはない」
11月30日、正午に英語の勉強の際、Probably と Perhaps のニュアンスの違いを、安武会長に質問し、その回答に「よしわかった。Thank you.」と、死の直前まで勉学され、この言葉が安武会長と交わした最後の会話となる。
12月1日、「今から寝るからじっとみておれ」と、午前1時55分に帰霊。
両足をさすられながら、誠に静かな大往生だった。
清らな美しい眼出で黒目はあくまでも黒く白眼はあくまでも白く、濁りも充血もなく幼児の目のようであったという。老衰死。
「俺が仮にこれから十年、二十年と生きてみたところで、過ぎたその時になってみれば、今と同じことだと思う。人間の寿命は望んだからといって得られるものでもない。俺は俺の教えを一生懸命教えてきた。俺もその教え通りに怠らずやってきた。そして今度の病になってから、人の心の強さが人生にとっていかに大切であるかを一層よく知った。今は俺の教えが正しく世の中に伝えられることを望んでいる」。
直接薫陶を受けた者は全国で百万人を数え、皇族をはじめ、大臣、実業家、学者、軍人、人間国宝や文化勲章者、落語家、俳優、相撲取り、金メダリスト、スポーツ選手、小説家、サラリーマン、市井の人々に及ぶ。
12月7日、12時30分より天風会館にて、財団法人天風会葬、告別式。
葬儀委員長に重宗雄三参議院議長、友人代表に笹川良一氏、一万三千本の白菊の生花で富岳をピラミッド型に造られ祭壇の中央に「天風哲人」記され額に遺影が置かれた。
その前で粛然献花する会員、惜別無限の情はまことに胸せまる情景であった。
真理を説いて五十年、人の幸福と世の平和を願った哲人ここに静かに帰霊なされた。
(「志るべ」誌、哲人追悼特別号、大井満記)
1973年(昭和48年)帰霊5年。
「真理瞑想録」第1巻を創刊開始。生前40年にわたる夏期修練会での真理瞑想行の示教を集録。
1978年(昭和53年)帰霊10年。
「真理瞑想録」第13巻発行。1973創刊〜78年第13巻。
1988年(昭和63年)帰霊20年。
天風会創立70周年に「真理瞑想録」13巻を会員向けに合本編集して出版。
9月「成功の実現」中村天風述(日本経営合理化協会刊)が、ベストセーラとなり第二次天風ブームを巻き起きおこり、関連著書がたくさん出版される。
1994年(平成4年)に「真理瞑想録」改訂版として「運命を拓く」講談社から刊行され文庫本となる。
天風述;「諸君にいいたいのは、恵まれた幸運に、いい気になって、自己研磨を怠ってはいけない。
やがて21世紀が来たら、思想的にも、アイデアに方面にも、必ずや、世界をリードするだけの権威ができると、私は確信している」「私が三寸息絶えて、何百年の後に、世界中が、みな宇宙霊との一体の実行者に、必ずなると確信を持っている!」
8
運命を拓く
再度、本お追っかけに戻りますが、冒頭でも話しました、「天風誦句集」について、私の考えを話してみます。
「天風誦句集」は、
1957年(昭和32年7月)の67年前発行され、我々の聖書のようなものですが、さすがに今では文体や語彙に古い表現がありますので、これを若い人に読めと言っても少々無理があります。
2015年(平成27年7月)58年後に大版となって発行されました。
私はついに改定版が出たかと、おおいに期待したのですが、読んで驚きました。一言一句も同じでした。会員の方は、なんと真摯で真面目で信心深いことかとし感心してしまいました。
一方の「天風瞑想録」ですが:
1978年(昭和53年5月)に46年前、天風瞑想録13巻を発行。
1988年(昭和63年4月)10年後に合併本が発行されました。
1998年(平成10年6月)またして10年後に「運命を拓く」として講談社から出版され大ベストセラーとなり、更に文庫本となり本屋に平積みになっています。
「運命を拓く(天風瞑想録)」と「天風誦句集」との違いですが:
1、「運命を拓く」方では、「神仏」の箇所はすべて「宇宙霊」統一しています。
2、我々は慣れてしまって気がつきませんが、「運命を開く」には「誓いの言葉」と「プラナヤマの誦句」、最後のページの「安定打密法の真諦」の和歌がありません。
ですから天風会員でなくも、いま話題の大谷翔平選手にも広く受け入れられ、
ベストセーラーになっていまして、天風会員だけでなく会員を超えています。
「運命を拓く」は、安定打坐と心身統一体操の動入がなく理入となっています。
3、「誓いの言葉」でも、「平和と愛を失わざる」とありますが、「平和」でなく「調和」がふさわしいと思います。
平和はピースでして、調和はハーモニーです。
戦後当時は、戦争に疲れ「平和」、「平和」の「平和絶対で、平和を叫ばねばならないご時世でしたので、天風先生も影響を受けざるを得ませんでしたが、しかし「真善美」明らかに「誠と愛と調和」です。
したがって「平和」は「調和」に置き換えてはいかがなものでしょう。
心身統一体操でも「平和体操」の名称も、いつしか「積極体操」変わっています。
「天経懇」は、天風会の外郭団体とのことですので、「私の誦句」を公開します。
私はこのように変えて誦句しています。
誓いの言葉
今日一日
怒らず、恐れず、悲しまず
正直 親切 愉快に
力と 勇気と 信念とをもつて
自己の人生に対する 責務を果たし
誠と 愛と 調和に 満たされた (平和と愛とを失わざる)
立派な真人として 生きることを (人間)
自分自身の 厳かな誓とする。
て、ことで「運命を拓く(天風瞑想録)」と「天風誦句集」を、語彙を統一させたらと考えます。
上野恩賜公園
1919年、大正8年6月8日、きれいに晴れ上がった心地よい朝、和服と袴のいでたちで草鞋に脚絆姿の男が、妻のこしらえた握り飯を風呂敷に包み、本郷の自宅から池之端を通りぬけ五條天神社の坂をあがり、花園稲荷神社の鳥居の右斜め前の石上で仁王立ちになり、右手にもった鐘をガランガランと鳴らし「道行く人よ、来たれいざ」と、第一声をあげました。
この男は何者かと立ち止まった数人に向かい、バナナの叩き売りのような調子で;「おい、そんなところに立っていないで、こっちにきな。往来の邪魔になるじゃないか。これからいい話しを聞かせてやるから、こっちにきな。安心しろ、銭は一文ももらわねえ」。
「いいかい、人間の運命なんてものは、何時どうなるかわからんぞ。だから、ぼうっとして生きていたんじゃだめだぞ」。
「健康なんかは、心の持ちよで必ず建て直すことができるんだ。運命だってそうだ、
心一つの置きどころでねぇ、人間というものは、心の持ち方ひとつで、幸せにもなれるし、不幸にもなる。だからねぇ、どんな場合にも心を強く持っていれば、必ず道は開けてくるものなんだ」。
自ら命の甦りを果たした体験をもとに、病める者、悩める者、貧しき者を救おうと、本来あるべき人の道、命の道を説法し、「いいかい、続きを聞きたかったら、明日またきな。ゆっくり聞かしてやるから」と、締めくくりました。
するとたちまち無届け演説として上野警察署に引っ張られましたが、「私はこれから毎日のように説法をする。そのたびに届けを出しているわけにはいかない。話しの内容を聞いてくださればわかる」と署内で演説した結果、「交通妨害せざる限り、上野警察署管内においては差し支えない」との許可書が発行されました。
こうして晴れた日も雨の日にも大道説法が続き、なかには5分とたたぬうちに「この野郎、頭がおかしいんじゃないか」と立ち去る人、「時には寒風吹きすさぶ暮れ迫る街頭で、60歳を越えたたった一人の老婆のために人の道を説いたこともあった」が、
一方で立ち去り難く興味深げに聞いてくれる聴衆が少しずつ多くなってゆくことに手答えを感じていました。
上野恩賜公園の樹下石上を家となす決意をしたこの男、中村天風はかつて東京実業貯蔵銀行の頭取、電灯会社や製粉会社などいくつかの経営に携わった実業家で、紳士録にも名を連ねていたが、すべての事業を整理し、地位や名誉を捨て、大道説法をはじめたのはいったい何故なのか。
中村天風は、九州柳河藩主の立花鑑徳を祖父に持ち、明治9年に東京北区王子の紙幣官舎で育ちました。上野界隈で幼年期を過ごし、6歳にして御徒町の今泉八郎道場に通い剣と儒学を学び、湯島小学校を卒業しています。
15歳の時に福岡の修猷館中学を退学後は、日露戦争前に軍事探偵として満蒙で活躍。帰還した30歳の時に悪性の奔馬性肺結核を発病、当時の最高権威であった北里柴三郎から余命3年と見放され「かくなる上は武士らしく死ね」と宣告されました。
かつて満蒙の奥地軍事偵察をしていた頃は、勇猛で死などまったく恐れなかったが、結核を患いすっかり痩せ細り気弱で哀れな男になり下がってしまった。どうせ助からぬ命なら、どうにかして以前のような頼もしい勇猛な強い心を取り戻してから死のうと思いたち、日本の著名人をはじめアメリカと欧州各国を遍歴し、当代先鋭の哲学者、心理学者、生命科学者、宗教家を訪ね歩きましが、三年の遍歴で知り得たものはごくわずかで、強い心を再生する答を得られませんでした。
世界三分の二を訪ね歩いても救われぬ我が身に絶望し、失意のうちに帰国を決意し、桜の咲く国、富士山の見える国に帰ろう、せめて日本の土で死のうと地中海の船上にいました。
その帰郷の途上でたまたま前を行くイタリアの砲艦が、スエズ運河で座礁したため、やむなくエジプトのホテルに宿泊することになり、その食堂で英国王室の招きでヨーガを伝授して帰路についていた大聖者カリアッパ導師に遭遇し、導師は微笑みながら天風をテーブルに手招きして、「お前は右の胸に病を持っているね。日本に死に逝くのか、お前はまだ死ぬ運命じゃない。救われる道を知らないでいるから、私と一緒においで」と、一筋の光が差し出されました。
翌日、導師に連れられ三ヶ月後にヒマラヤ秘境のヨーガの里に入り、1年7ヶ月にわたる言語を絶する難行苦行のすえに命の甦りを果たしました。
「もし、あのまま日本へ帰ってきちゃったとしたら、私の今日もある道理がなく、あなた方も私と一緒に喜びの人生を味わうことができずに終わったでしょう。マルセイユを発って2週間、因縁ですよ。どう考えてみても、事実は小説より奇なりであります」と、講演のときに瞳を潤ませながら話す起死回生のドラマでした。
この導師と遭遇した運命の日が、ちょうど8年前に遡る6月8日の朝でした。そうであればこそ己の命を甦らせてくれたこの日を、大道説法の門出に選ばれたのでしょう。 真理に目覚めた者は人を救わずにいられない。導師は天風との別れの際に、「そなたの体験と行法をもって、世の人々を救え。もし困ったことが起きても、もう一人のお前が、それを解決してくれる」と諭しています。
今でこそヨーガは一般に知られていますが、当時の天風はヨーガがなんたるものか、ヒマラヤ山麓のどこで修行しているのかさえ知りませんでした。そのような状況にもかかわらず、優れた導師から本格的な修行をさせてもらい、ヨーガの覚者にまで大吾し、命の甦りを果たしたという事実は、世界でも例のないことでして、しかも導師のヨーガは諸流派のなかで最も精神性の高い教えでした。
こうした偶然が重なり、天風はこれまで密法とされてきた正統ヨーガを、日本で最初に持ち帰った人となりました。
これはもう選ばれし者としか思えません。しかし、それだけのことなら一人のヨギー覚者として半生を終えたにすぎませんが、天風は命の甦りを果たして帰国した後、ヨーガでなぜ己の命が再生できたのかと根本原理の探究をはじめ、自身の体験をもとに難解なヨーガ密法を、医学と心理学の幅広い知識から人間が本来あるべき道、命の道を、誰もが日常生活のなかで容易に実行できるように集大成させて行きました。
こうして大道説法をはじめて5カ月ほどたったある日の事、説法を終えて帰り支度をしていたところに、背広姿の一人の若い紳士が、「いつもお話しを聴かせていただいています」と丁寧に挨拶し、「実はお願いがありまして、我々の友人のあつまりに桜倶楽部というのがあるのですが、そこで是非こういうお話をしていただきたい」と、問いかけてきました。
天風は快諾し約束の日に、丸の内の日本工業会館の中にあった桜倶楽部で、政財界の名士を前に3時間の講演したのを機に、「これは大道で聴く話じゃない」と、多くの賛同者と聴衆を次々に得て行くことになりました。
これが後に、財団法人「天風会」に発展してゆき、昭和四十三年、天風92歳で生涯を閉じる50年間に、直接薫陶を受けた者、皇族をはじめ、大臣、実業家、学者、軍人、人間国宝、文化勲章者、落語家、俳優、相撲取り、金メダリスト、スポーツ選手、小説家、サラリーマン、市井の人々、全国のべ百万人に及ぶと『哲人追悼特別号』に記載されています。上野恩賜公園の樹下石上で産声を上げた心身統一法が、大きく生成して行きました。
天風は生前「ときどきあそこへ行って、あの石台を見ちゃあ、思わず熱い、胸にせきくるものを感じながら帰ってくるんです」と、懐述していました。
その石台は今もなお花園稲荷神社の鳥居前の街灯(東京LA−2-1)の奥に在ります。 石台の上に立って周りを見ますと、長く続く桜並木と上野森美術館から不忍池に通じる道が交差する小さな広場になっていて、路上に桜模様の道案内が描かれています。
6月と言えば青葉が茂り道行く人がその前を通り過ぎて行きます。なんでもない台石ですが、世のため、人のため、日本人の心の復興に生涯をささげたいと草鞋に脚絆姿で仁王立ちした天風の初志を、そのままに偲ばせています。
できることならば、百年の風雪を機に、この石台の横に銅板で、『誠・愛・調和//中村天風/心身統一法発祥の礎石//1919年6月8日』と、記念碑が刻まれることを、心から祈念しています。 合掌
追記;スペイン風邪猛威の中での説法
参考文献
おおいみつる「心機を転ず」春秋社
橋田雅人「哲人中村天風先生抄」広済堂
野口五十六「天風式ヨーガと瞑想のすすめ」幻冬舎
天風会志るべ誌『哲人追悼特別号』