「天風瞑想録」は、天風師が毎年夏の真理瞑想の講義テキストとして出版されました。
第1章「いのちの力」の1973年(昭和48年)創刊から1978年(昭和53年)の第13章刊行に5年かかりました。
この各章を「天風会創立70周年記念」として1988年の合本愛蔵版が出版されました。
後、1994年に講談社から「運命を拓く」―天風瞑想録―として出版され、一大天風ブームを巻き起こしました。大谷翔平選手も愛読したといいます。
ただこの瞑想録には何故か「誓詞」(誓いの言葉)と「活力吸収法の誦句」(プラナヤマ法の誦句)が掲載されていません。
これは朝礼時に会員に向けた「誓いの言葉」だからなのか、また、天風師が直々に垂迹されたプラナヤマ密法だからなのか、機会がありましたらどなたかに聴いてみたく考えています。
ありがとう。
「天風瞑想録」序章=朝旦偈辞(甦えりの誦句)の熟読から入った。
この章の重点は;
「人間の心で行う思考は、人生の一切を創る」
「心の思考作用と、宇宙本体の創造作用とは、別々に分かれているのでは無く、本質的に、一つのものである」。
「心というものは、万物のすべてを産み出す宇宙本体の有する無限の力を、自分の生命の中へ受け入れるパイプと同様であるというこことである。」
いきなり宇宙本体と心の思考が出てきますので、読む者をしてこれは一体なんだと戸惑ってしまう。
末尾の朝旦偈辞(甦えりの誦句)の冒頭を、私し流に変えてみた:
「私は今、宇宙霊と一体となって甦り、力の結晶だ。私の信念強くなり、新しき元気をもって、正しい人間としての本領の発揮と、その本分の実践に向かわんとするのである」。
この句は朝礼の時に、天風師が会員の前で直々に誦句した最も厳粛な儀式でした。「自己を完成することに努力しようと結んでいます」。
自己を創り上げることは実践なのです。ありがとうございます。
近所に住む幼友達はもう2人しかいなくなり、一人は大工さん、一人は量子技術研究所を退職した隣のトンコちゃんです。
二人とも昔の面影はありませんし、時おり挨拶を交わすだけです。
先月26日に隣保班の班長引き継ぎ会議があり、4月から私が班長になりました。でも私は留守が多くて班長を務まりませんので、隣に住む姉に肩代わりしてもらいました。
その引き継ぎ会議の時に誕生日の話が出ましたら、トンコちゃんが、私の誕生日を知っていました。なぜ知っているかとお思いましたら、私の一つ歳下で誕生日が同じだっことを、すっかり忘れていました。
写真はトンコちゃんの庭に咲いたボタンを断りなしに垣根ごしに撮りました。
今日から「天風瞑想録」の熟読に入りました。ありがとう。
アマゾンお薦めスピリチャルの関連本はこれで打ち止め。
スピリチャル関連の王御所の三者対談でしたので拝読。まさしく見事に三者三様のトリプル対談で百花繚乱、話題が次々に飛躍し、頭が整理できぬまま「で何なの」で、読み終えてしまった。
今回は右脳、左脳の話題でなく、日本の母音語族と欧米の子音語族にわけていました。そして、はせくら女史の結論は:人間、時間、空間と日本文明は「間」の美学で、未来のノチの世、過去のサキの世が交差するイマの「マ」を通し時空を超えた所に「神代在今」の中今に神が座すとしていました。
矢作氏;「伸びやかに、軽やかに、あなたのままに」。
保江氏;「愛おしゅうて愛おしゅうて、可愛うて可愛うて」、世界の中で本当の意味で大調和を成せるのは、今のところ日本人しかいないと様々でした。
あ〜天風哲理がなつかしくなった。スピリチャルをやめて現実に回帰し、明日から天風に戻ります。ありがとう。
1月4日のブログ天風の「言葉の誦句」で、今年から国内外の政治的な批判を出来る限り止め、極力見ないことにした分だけ読書の時間になっています。もっと早くにそうすべきでした。
そして消極的な言葉をできるだけ使わないように心がけました。批判することで私の運命と精神的健康にいい影響をもたらさないからです。
徹底して「言葉の誦句」を実践し、同時に全ての事を感謝にふり向け、清々しい毎日を過ごすよう心がけています。
言葉の誦句をもう一度書いてみます:
「私は今後かりそめにも吾が舌に悪を語らせまい。否いちいち吾が言葉に注意しよう。
同時に今後私は、最早自分の境遇や仕事を、消極的な言語や悲観的な言語で、批判する様な言葉は使うまい。
終始、楽観と歓喜と、輝く希望と、溌剌たる勇気と、調和に満ちた言葉でのみ活きよう。
そして宇宙霊の有する無限の力をわが生命に受け入れて、その無限の力で自分の人生を正しく建設しよう」。
そうなるように努力しています。ありがとう。
4月2日のブログで「幸せの法則」を、翻訳した白髪のご婦人と知り合いになり、アマゾンで2冊購入しました。
案の定アマゾンAIから類似本のお薦めメールが何度も来ました。しばらく無視していましたが、ちょっと気になったので買ってしまった。
「はじまりの時、光を観じ、愛に生きる時代」を、8ページほど読み進めましたがあまりのスピリチュアルな内容で、たまらなくなり投げ出したくなりました。
我慢してさらに14ページまで読み進めますとポジティブな右脳派のスピリチュアル VS ネガティブ左脳派のスピリチュアル対話でした。
左脳派は「僕は本当に『愛』の世界からほどとおい人間なので『愛』を口にするだけでも恥ずかしくて仕方ないんです」と、左右脳両サイドからの対話に興味を持ちました。
世の中にネガチィブ左脳派のスピリチュアルという人もいるのですね。これまでの経歴から見てもなかなか面白い方で、よい勉強になりました。
明日は司馬さんの「高野山みち」に入ります。ありがとう。
今日はバスで東京に出かけトンボ帰りしてきた。インバウンドのためかホテルの価格が高騰し最近は日帰りしています。
東京の気温は23度まで上がり半袖の人もちらほらでした。
帰りのバスが上里サービスエリアで休憩をとり手洗いに寄りますと、数十羽のツバメがチュチュ鳴きながら巣作りを始めていました。もうツバメが「神里」に帰ってきました(ツバメの動きが速すぎ写真を撮れず昨年のものを使用)。
帰ってきたツバメを見ていたらなぜか心が温まり嬉しくなってしまった。
私の家にも帰って来てくれるかな?去年はカラスの縄張りなのか、カラスに追われてしまったが、巣はそのままに残してある。
楽しみに待つことにする。ありがとう。
今日は一日雨、春雨なのかな。
5月に予定していた街道を行くシリーズ9、「信州佐久平みち」を、読んでしまった。
司馬さんの本を卓上に置いとくと、つい手にして読み始め止まらなくなり気がつけば読み終えている。
司馬さんにしては珍しく小諸の食堂で受けた印象が悪過ぎてしまいよく書いていません。そのため小諸城を観ずにスルーしています。
小諸城は私の人生決めた大切な場所でして佐久に行くたびに立ち寄った所でして、6月の望月温泉での行修会の帰りにも行く予定でいます。
ですから再読にあたり小諸の箇所を飛ばして読もうと思いながらやはり読んでしまった。まあいいか。
司馬さんがどう描こうと、私にとって佐久と小諸城はスルーできない大切な場所となっています。ありがとう。
「日本で最初の富岡製糸」(上毛カルタ)
「富岡日記」は、明治6年(1873)信州松城藩から富岡製糸場に伝習工女にきた和田英さんの回顧録です。2014年に世界遺産に登録されるのに合わせて出版されました。
著者は当時の富岡町は城下と名ばかりで村落の有様に驚き、また富岡製糸場の門前で煉瓦造りの大きな建物を見て実に夢かと驚いています。
明治政府の気負いと村落の冨岡はここから始まりました。ここに描かれています純粋無垢な女工たちの姿に胸が打たれます。
私は小学1年の時に同じクラスだった女の子が、製糸場内の社宅に住んでいまして、何度か遊びに行きました。まもなく幻のごとくどこかへ転校して行きましたので、鮮明な記憶として残っています。
でも折あるごとに同級生に聞いても誰も彼女を知りません。苗字と名前が格別でしたので、先日製糸場の社宅を見学した際に調べますと、古いアルバムに名前と写真を発見しました。やはり実在していました!
夢でなかった!ありがとう。