第4部 天風の精神遍歴

 天風の精神遍歴

 天風の遺言ともとれる言葉に;
 「天にへいとして輝く日月にかわりはない。俺は月を見よと指差して教えた。指を見ないで月をみよと。俺が指さそうと、誰が指さそとうと、ささるる真理の月にかわりはない」。
 本サイトは天風の指を見ず、説かれた真理の月を見ることに主題を置いています。
 ですからここに書きました「精神遍歴」は、天風がどのような人生を生き、哲理を創建なされたかを理解する上での参考資料に過ぎません。これから研鑽なさる人のための一助になれば幸いです。
 (年表に登場人物の敬称は略させてもらいました。ご了承お願いします)
 

 重要補足
 松本光正著『最晩年の弟子が語る 新説「中村天風の歴史」』が、16年余の検索を経て2021年10月に河出書房から出版されました。
 本著書によると天風の出生は、1874年5月、父は立花寛治、母テウとなっています。そうしますとこれまでの定説より2歳2ヶ月早くなります。したがって92歳の逝去も95歳となります。
 天風の出生について「真実を述べることは決して天風を低めることではない。そのように考えるほうがおかしいと思う。どのように生まれようと偉大な天風は偉大な天風である」。さらに著者は不都合な真実として葬り去らず「私の年表にそってお書きくださるようにお願いします」としています。
 また「天風おたく」を自称する著者は「熱烈な天風フアンにとっては、教義がすべてであり、天風がどこでどう産まれようが、どこでいつ修行しようが関係ない、と思っている方がたくさんおありだということも承知しているつもりである」としています。
 当サイトは著者の新説にそってそれを更に再整理することにしました。ただ当時の年齢は数え歳ですので定説とは3歳の差があり、これを調整するのは難しので歳の表記はできるだけ控え歴史上に明記されている事実に基づいて書き進めることにしました。

 「生い立ちから32歳」

1874年(明治7年)5月。
祖父は九州柳川藩立花家13代大名鑑寛(あきとも)。長男が早逝したため1874に次男の寛治(ともはる)が18歳の時に家督を継ぎ14代立花家の当主となり、柳川から東京に住むことを義務付けられて上京(1857年れ1929年72歳死亡)。
明治維新の翌年1869年に版籍奉還、廃藩置県により大名から華族となる。天風は寛治16歳の時に奉公人であった母テフ19歳の間に不義の子として生まれる。
天風は祖父鑑寛の孫として可愛がられ5歳頃まで浅草下谷の柳川藩江戸屋敷で大名の子として2人の腰元つきで育てられる。天風は講演で「子供のとき、あたしの爺っていうのが、毎晩御飯を食べるときには晩酌2合ずつが楽しみで、そして必ずあたしを呼ぶんであります。で、晩酌なりますと私に仕えている昔で言えば腰元がよびにきて『さ、お殿様のとこに参りましょ』、そして爺のとこに行くとね、酒を飲みながら、もう必ず毎晩なのであります。『近うまいれ、そこのものをとれ、三午、見ろこの額の傷を』これ。三日月形の刀傷なんです。『これは爺が若かりし頃、天草の騒動に出て、男の誉とするむこう傷じゃ。男はの〜いつも真剣勝負の気持ちで生きねばならん。真剣な気持ちは、心の臆する気持ちのないことじゃ。わかったか』。これを毎晩聞かされていました。これが後に馬賊との真剣勝負のときに天風の命を救うことになる。
幼名「三午(さんご)源光興」、午(うま)の月、午の日、午の刻に、産まれたことに由来する。
・生まれ出た時にすでに前歯が2本生えていて、両親が心配して高嶋易に鑑定してもらったところ、「これは油断すると石川五右衛門以上の悪人になるかもしれぬ」と言われる。

・格式を重んじる華族のため寛治に正室が入ることで、大名屋敷を離れ前田正名男爵の義姉として中村祐興(すけおき)家に後妻として三郎(天風)ともに入籍。東京本郷森川町に居を移す。テウと祐興とは19歳の差。テフは後に「長子」と名のる。
幼名「三午(さんご)源光興」、午(うま)の月、午の日、午の刻に、産まれたことに由来する。
天風の心中には終生立花家の存在と大名の子としての思いが、大きく影を落としていた事でしょう。また自分を大名に与えられた「伯爵」扱いにしていました。天風の着ている羽織は、柳川15万石の立花家の紋でした。

1880年(明治9)
1880年に寛治の正室鉤子に鑑徳(あきのり)が誕生したことで、大名屋敷を引き払い7月頃、柳川藩の中村祐興(すけおき)(1829年−1911年)家に、母テウと共に三男として養子となる。養子というより大名(華族)の子として預けられる。養子となることで華族から柳川藩の士族となるが、天風は自分を伯爵と呼んでいた。寛治は生みの親、祐興は育ての親となります。
中村祐興祖父は初代九州柳川藩主で立花鑑徳(あきのり)、祐興は第二夫人の子として生まれ会津中村の相馬の跡を継いで中村となる。
 中村祐興は柳川藩士、性は剛毅。若くして長崎に遊学、開明派で英字新聞に通じ1864年ジョセフ・彦による日本最初の「海外新聞」を2年に渡り定期購読した2人うちの1人。1人は福沢諭吉。
 維新後は大津県(滋賀)の判事をふりだしに大蔵省に転じ、渋沢栄一に高く評価されて抄紙部長に就任し工場長として紙幣の開発に努め「中村紙幣」で5円札が発行される。また日本で最初の官営「富岡製糸工場」(明治5年創業、後に世界遺産)の建設に事務主任として関与。
・1911年(明治42年)10月、(天風)三郎の海外放浪の安否を思いながら福岡にて永眠。後に1925年(大正14年)に施主中村天風により熊本県大牟田の慧日寺に墓を建立。
母テウは1858年、神田に生まれる。性は気丈、顔立ちも言葉もさわやかな明朗快活な大柄な女性であったという。
幼き天風に「男らしく、卑怯なことはするな。負けるな」と繰り返し諭す。転んで家に泣いて帰ると、テウが転んだ場所まで連れて行き「転んだ場所を踏みなさい」と訓示。当時の祐興は仕事の関係で全国各地を飛び回っていて家を留守にしたため母テウの手で育つ。
・養父祐興と一緒に講談を聞いた帰りに、天風に向かい「世が世なら、ふたたび大名の世がきて、やがてそちも大名になる」と言われる。
こうした幼き頃の境遇は三つ子に魂のようにトラウマとして焼きつく。
祐興は熱心はキリスト教徒であったこともあり天風は6歳の時に洗礼を受ける。

 付記:松原一枝著「中村天風活きて生きた男」では、13代柳河藩主立花鑑寛(あきとも)の子としています。松原説を間違いとして原田信著「中村祐興小伝」があります。本サイトは松本光正氏の「立花寛治大名の子」に従っています。

1882年(明治15年)
・武術を習いはじめ
御徒町にある今泉八郎の道場に通い剣と儒学の手ほどきを受ける。
・日本刀の扱い方を仕込まれる。初めの3年は歩き型と身体の変化につけての足の運び方。次の2年が木刀の素振りと木綿糸に軽い重みを垂らして直前で止める鍛錬で「武術の本来の目的は心を練る事」「心を明瞭に」と教え込まれる。

・この頃から家族の出自への反抗が芽生え、しだいに腕白となり、小学4、5年になると手の付けられない暴れん坊になってゆく。「自分は一種の変質的な男であった。喧嘩をすれば相手を必ず完膚なきまで叩きのめさずにはおかなかった」と懐述。

1888年(明治21年)
・東京文京区本郷の湯島小学校卒業。7年7ヶ月在籍。満14歳。
小学校時代は本郷森川町に住んでおり、祐興大蔵省の王子紙幣寮いたので時折遊びに行き官舎内に住んでいたお雇い外国人、英国の印刷技術師の夫婦に可愛がられ遊びに行きながら日常のなかで英会話を身につける。ここでの英語力が生涯に大きく影響を与える。
・小学時代に皇后陛下より神童賞なる栄光を賜る。
・華族の子弟だけに与えられる従五位を授かるが、家柄だけの薫陶に反発が芽生える。こうした幼少年期に受けたトラウマはいかがなものであっただらうか。
・少年の胸にこのまま華族の子の環境で育つと己が駄目になってしまうと考え、この頃から家を出ることを決意し、家を出るために手に負えない暴れ三昧の時を過ごし、織田信長の少年時代さながらであった。

・両親と別れ福岡柳川藩の資金援助で創設された「伝習館」に入学。同年放校。

1889年(明治22年)

・9月、福岡の名門中学「修猷館」に入学。2年半在籍。
 
修猶館の教育方針は教科書に英語を用い、構内で「日本語を使用してはならぬ」というもので、Mr.Nakamuraと呼ばれる。英語は幼少から英国人に習い得意とし成績も優秀であった。先輩に山座園次郎外務大臣、2年後輩に広田弘毅元首相がいる。

1891年3月24日9火曜日、中学2年の時に「第24連隊旗投石事件」で、自ら犯人をかって出て連隊長と激しく口論。営倉に2晩収監となる。

1892年(明治25年)

・3月、玄洋社付属の明道館道場の主将として他流試合で熊本に遠征に行き、負けた先方の恨みから殺傷事件の殴り合いとなり、警察に20日間拘留となるが、正当防衛として無罪放免となる。
しかし、修猶館は2年半で退学。満17歳。2年半在籍で英語力を身につけ後に役立つ。
・4月頃に悪童で両親の手に負えないことから、親族で農商政務次官をしていた前田正名の紹介で頭山満の世話になり玄洋社に預けられる。
 
機敏で気性が激しいかったため「玄洋社の彪」と渾名され、養父頭山満から「彪」「彪」と呼ばれ我が子の様に可愛がられる(当時頭山は35歳、昭和19年91歳没)。
頭山満の配慮で陸軍中佐で軍事探偵の河野金吉中佐のカバン持ちとして、春頃に日清開戦前に主戦場となった、遼東半島に潜入し、金州城、九連城の偵察のお伴をする。
「天風」号は、柳川藩に伝わる「随変流抜刀法」のなかで、天風が最も得意技とした「あまつかぜ」に由来し、後に頭山満から贈られた号である。


1896年(明治29年)清国から帰国。
華族の子弟は無試験、学費なしで学習院中学に入学許可。教師に反攻して論旨退学。机を並べていた三菱の岩崎康弥氏と親交をもつ。

1897年(明治30年)この頃に玄洋社で頭山翁を通じて孫逸仙(孫文)会う。

1898年(明治31年)学習院論旨退学後に順天求合社入学。   

1901年、満州に立つ直前にヨシ(19歳、天風27歳)と結婚。ヨシ(1884年−1962年)福岡久留米出身。結婚歴62年。

1902年(明治35年)
・陸軍参謀本部情報官員歩兵大尉として採用される。3000人の募集の中から200人を選抜し、壮絶な特殊訓練を受けて113人が合格。
・12月5日、呼称番号103号、藤村義雄と偽名し、下関から出国し上海、北京、天津を経て満州に潜入する。得物(武器)は30cmほどの仕込み杖の脇差し「備前長船(おさふね)」

・母は「男は、男と生まれたら、男らしく生きて、男らしく死ぬのよ。それだけはいつまでも忘れずに」と送り出す。   
・唖の苦力(クーリ)になりすまし、日露開戦前の情報収集と、後方錯乱の謀略工作に奔走。満州生まれで満州育ちの満州人さながらの容貌の橋爪亘氏や近藤信隆氏と組んで探索工作。

1903年(明治36年)
・しばらく北京と天津で任務。それから満州へ向かいハルピン西方400キロ宋屯近くの馬賊の頭目の所に数日滞留。


1904年(明治37年)
・2月4日、ロシアと国交断行。11日に日露戦争勃発。北蒙古、瀋陽に近い新民地にいた。
 2月17日、ズンガリーのアエアリーの鉄橋を破壊。
 ロシアの後方基地であったハルピンにおいて破壊活動でめざましい活躍をする。

・シベリア第2兵団軍司令部に進入。

・大豆商人に変装し探索中に馬賊の頭目であった「ハルピンのお春」に遭遇し2、3日を過ごす。
 後に「私は世界の三分の二を回ってきたが、美人だと思ったのは、ハルピンのお春とサラ・ベルナールの2人だけだ」と懐述。

・天風の遊び相手に贈られた馬賊に拉致された少女を助け、馬車に乗せてお春の村を後にして少女の家の近くまで送り帰す。

・3月20日、ハルピン郊外でコサック兵に捕らわれて翌朝21日に死刑宣告を受ける。
 「ロシア帝国皇帝ニコライ二世の名において銃殺刑に処する」と、中尉が新しいハンカチを通訳に渡し、天風に目隠しの温情をくれたが、いらねーそんなものと断り「間違いなく乳と乳の間を撃て。おれは弾が飛んでくるのを見届けて死ぬのだ」。
 天風は銃殺刑寸前に部下の橋爪と1ヶ月ほど前に命を助けた16歳の少女「玉齢」の特攻救出の手榴弾で杭ごと吹き飛ばされて九死に一生を得る。
・3月21日朝8時40分に死刑台に登るが脱出。しかし玉齢はその場で爆死。天風は以後この日を、己の第2の誕生日と称すとともに玉齢を偲ぶ日とされた。

・4月、後方撹乱で東清鉄道爆破(旅順ーハルピンー満州里の1500キロ)。さらに2カ所の鉄道爆破。
・松花江の鉄橋破壊。
・ロジア軍に処刑された横川省三大佐、沖禎介大尉の遺骨を奪還。
・馬賊6人と切り合いしている時にピストル一発、左わき腹から背中へ抜ける銃弾を受ける。
・5月、南満州に移動し日本に一時帰国。
・ロシアの極東司令部作戦室の会議テーブルの下に忍びこんで盗聴し、追い詰められて高い煙突の上に登り夜中に煙突の中を伝わり降りて危機一髪で脱出する。
・秋、河北省承徳宮の高い楼門からロシア騎兵の動きを偵察中に狙撃にあい、即座にそれをかわし楼門の内側に飛び降りた弾みに背骨を強打し、3日間昏睡状態で
数十日の重傷を負う。それ以来その時の後遺症でたびたび強度のめまいに襲われることになる。
・牡丹江では狼の群れに襲われ椎の木の上で3日3晩を過ごし命ながらう。部下は耐えきれずに3日めの夕方に木から飛び降りて狼の餌食となる。

1905年(明治38年)
・9月5日、日露戦争終戦。
・銃殺刑時の爆風や度重なる破壊工作により、両眼に重度の視力障害を受けて右目は全く見えず、左目はわずか0.1に近く、耳は中耳炎と難聴になり、またハルピンの松花江の鉄橋爆破の爆風で下顎の歯を痛めてしまい昭和23年にはすでに無歯顎で総入れ歯となりまさに満身創痍の身となる。

1906年(明治39年)
・2月11日、日露戦争終結により任務解除。
・早春、死刑場跡の五站村に立ち戻り、奇跡の生還地に自ら彫り上げた地蔵尊を安置し「玉齢」の霊に追悼。
・満州奥地に3年9ヶ月、情報工作の生活を足掛け5年間。生死の境を約60回余を経ての奇跡的生還。選抜された113名の軍事探偵のうち大連に集結したのは6人、遅れて帰還が3人の計9名だけであった。

・1月に陸軍から朝鮮総督府の高等通訳官を拝命。3ヶ月後に喀血。
・4月16日、ひとり娘の長女鶴子誕生。2006年3月18日没、100歳。(松本氏は+3年で1908年としている)
・6月、3年4ヶ月ぶりに東京本郷森川町の母の居る自宅に帰る。同月に大喀血

1907年(明治40年)

・帰還後に根津嘉一郎氏に請われて、同氏が会長を勤める大日本製粉(後に日清製粉と合弁)の重役として経営にたずさわる。
・ギャロップ性の速度の速い悪性の肺結核と診断され死に直面する。
 当時、結核に関する最高権威者であった北里柴三郎博士の治療を受けるも好転すること無く余命数年と言い渡される。右肺に二つの穴が開いて片肺となり喀血は38回にも及んだ。

・死に直面し突然恐怖におびえはじめ惨めなか弱き心になる。これをどうにかしかつての自分らしく死も恐れぬあのたくましい強い心を取り戻してから死のうと決意し各国へ精神訪歴を始める。
・国内の宗教権威者,裕興の紹介でキリスト教の第一人者、海老名弾正、禅の中原鄧州、新井石善、永平寺管長の森田禅師を訪ね「馬鹿者」と喝を入れられるも、また、医学、哲学、心理学の大家を訪ね歩き、欧米に出発する前にキリスト教を始め様々な名士に教えをこうたが得るものが無く、また著書を読みあさるも強い心を取り戻すべき回答を得ることがなかった。
・長い年月にわたる病のため体重は17貫(64キロ)から10貫目(38キロ)に痩せ細る。そのため1日の栄養摂取3500カロリーを心がけ、肉を30匁(110グロム)、牛乳6合、卵を6個、注射6本の療養生活を行う。

1908年(明治41年)
学習院時に
学友だった岩崎康弥氏が持ってきた一冊の著書、オリソン・スゥエッド・マーデンの「How to get what you want」に、大きな感銘を受け「座して死を待つより、心の強さを取り戻したい」と、救いの道を求めて渡米を決心。渡航費は九州富豪の叔母から協助による。
・3月、肺結核が小康を保ちアメリカへの渡航準備し出発。
・4月、上海発。

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