得意淡然、失意泰然

 天風先生が講話で「思いおこせば昭和十六年十二月八日(日米開戦)からの四カ年間が、いちばん私の人生の歴史の中で、本当に文字通り苦難の毎日でした」と話す、不遇の時期を書いておきたく思います。
 天風先生の人生すべてが劇画的なドラマの連続でして、苦難な日々も山ほどありましたが、それらを困難と思わずに持ち前の力と勇気と信念で毅然と乗り超えて行きましたが、この四カ年は文字通り何をもってしても抗し難い、受け身的な困難でした。
 天風先生ご自身は、あくまでも日米戦争に反対の立場を貫き、開戦と同時に終戦工作に奔走していましたから、常に軍や憲兵から監視され、弾圧を受けたり、拘束されたりしました。ついには、昭和20年3月から翌年10月まで(69〜70歳)、特別強制疎開ということで東京の自宅が取り壊され、茨城県布川町に疎開となりました。戦時期に特別強制疎開という処置は天風先生だけのことでした。
 こうした不如意の時にこそ、その人の持つ資質がよく現れるものでして、私は天風先生の「得意淡然」の武勇伝も好きですが、この「失意泰然」の時が、たまらなくいとおしく偲ばれます。
 ここではその当時を偲ぶエピソードを三つほど紹介したく思います。

 戦時中に会員の若者が戦地に赴く時に贈った歌が二句あります; 

  切り結ぶ 太刀の下こそ 地極なれ
         身をすててこそ 浮かぶ瀬もあれ

 この句は「生きて還れ」と言っただけで逮捕されてしまう時勢の中で、若者に向かって、「お前たちは、命を大事にしなくてはいけない。絶対に死んではいけないのだ。生きて生きて、生き抜かねばいけない。なにも臆病になれというのではない、無駄に命を捨てるなということだ。必ず生きるのだぞ。死ぬな。」と言って、戦地に送りだした時の歌でした。
 戦に望んで死ぬまい、生きようと思っていると必ず殺されてしまう。生死もなにも考えずに戦っていると、気がつくと生きているものだ。「身を捨ててこそ」とは、考えない無念無想の心境で戦えば、「浮かぶ瀬もあれ」で、気がついたら生きているというものだと話されています。

  君がため 何を惜しまん 若桜 
         散りてかひある 命なりせば

 この「若桜」の句は、天風先生がインスピレーションで戦死するであろう若者に、「どうか国のためにお願いする。頼む。」と言って贈った歌でした。この時の天風先生は、「戦死すると分かっていて何もいえないのが身を引き裂かれるように辛かった」と、本人に気づかぬようにして目にいっぱい涙をためていたといいます。会員に頼まれれば「若桜」の句も贈りましたが、ご自身はこの二句を密かに使い分けていました。
 そして終戦直後の講義で、「国を活かし、親を守り、妻を守り、子を守りたい一心で、我が身を顧みず、死んで行ったのだ。こうした尊い、尊い犠牲があるからこそ、今何とかみんなで生きて行けるのだ。そう考えたら、あだやおろそかに生きるな。みんなで生きて、生きてこの民族を守れ」と、彼らの死を涙ながらに哀悼していました。


 茨城県布川町での疎開の時期は、不自由な生活にも不平不満を漏らすことなく、週一回、皇宮警察官へ講話に出かけるだけで、あとはこの町に起居していました。残った時間は近くの鉄橋の坂下に行き、東京から疎開して引いてくる荷車を、坂の上まで後押しする手助けを、
誰知ることなしに繰り返していました。
 ある日のこと、荷車を引いて疎開してきた会員が、後押しを手伝ってくれている人が天風先生であることに気づき、「ここで何をなさっていますか。もったいのうございます。私らでなんとか先生のお世話させてもらいますから、どうぞ一緒にいらっしゃってください」と涙ながらに申すと、「いや、今ここでこうして人様のお役にたつことが、私に与えられた仕事なのだ」と、謝辞したとのことです。(この会話の資料が見つからないため、私のうろ覚えとなります)。
 私はこの疎開して来る荷車の後押しをしている天風先生の姿に、たまらなく魅かれてしまいます。
 「吉野山 ころんでもまた 花の中」です。 
 
 三つめのエピソードになりますが、「
運命は偶然よりも必然的であり、運命はその人の性格の中に在る(芥川龍之介)」と言われるように、天風先生が往くところ常に運命的なドラマが待ち構えていました。
 天風先生は昭和十三年の日中戦争が始る前から、やがて敵の飛行機が日本の上空に飛来することが見えていたようです。終戦近くになるとそれが現実の事となり東京空襲が始まりました。
 昭和二十年五月二十五日も、B29の編隊が富士山頂をめざして飛来し、東京に爆弾と焼夷弾を落として、山手方面の住宅街を一晩のうちに壊滅させて、鹿島灘の海上を抜け去って行きました。利根川沿いの人々が去って行く飛行編隊を見上げていると、一機が火の玉のようになって頭上に墜落しました。
 翌朝、近くに飛行機が墜落し落下傘で降りたアメリカ兵が捕虜となって駐在所に連行された事件で大騒ぎになっていました。近所の人たちが駐在所に詰めかけて捕虜を叩き殺すと騒いでいる所に、たまたま(?)天風先生が朝の散歩でその前を通りかかりました。大騒ぎしている事情を知ると、そのまま駐在所の中に入って行きますと、そこに目隠しされたまま荒縄で後手を縛られたアメリカ兵が立っていました。
 天風はすかさず「その縄を解いてあげろ」と言い、こうするのが憲兵隊からの命令だと躊躇する巡査部長に、「憲兵隊の隊長には俺から言うから、その縄を解け」と、制するのも聞かずに捕虜の目隠しまで取り除いてから、流暢な英語で
捕虜に向い、「何か食べたいものがあるか」と聞くと、水が飲みたいとのことで緑茶を与えたとのことでした。
 それから駐在所の外に出て、殺気立っている集団に向かい、「あなた方の中で息子が戦地に行っている者がいたら手を挙げろ」、半数ぐらいが手を挙げると、「それじゃ聞くが、お前たちの息子がアメリカ人に捕まり、撲れたり、袋叩きになったことを聞いて、うれしいか。もし、うれしいなら、この中にいるアメリカの捕虜を出してやる。それで叩くなり半殺しにするなり好きなようにしろ。だが、後で世界中に伝わって日本人はどう思われるか。立派な国民と言われるか。それにここで騒いだところで、戦争に勝てるわけではない。みんな忙しいのだろう。早く帰ってお百姓の仕事をしたらどうだ」と、威厳のある口調に騒ぎだっていた集団は散開したとのことでした。
 まもなくして憲兵隊のトラックが来て、捕虜は手錠をされたまま荷物を放りだすように荷台に乗せられ、天風先生も一緒に憲兵隊へ同行し憲兵隊長に、「本部から何と言ってこようと、ここに居る間は丁寧にあつかい、一生のいい思い出をつくってやれ」と伝え、それから捕虜に向い「ご縁があったらまた会えるかも知れないが、その日を楽しみに」と手を差し出すと、捕虜はその手を握りしめて、「あなたのお名前を聞かせてください」と言ってきました。
 天風先生は、「私があなたの名前を一度も聞かなかったのは、あなたの名誉のためだ。国と国とは戦争をしているが、個人同士になんの恨みもない。お互い名前を言うのはジェントルマンらしくないから、ここでこのまま別れよう。ではお元気で、さようなら」と、別れました。

 終戦後に捕虜であった飛行将校は、ラターズ・アンド・ストライブスの特派員を志願して来日し、占領軍GHQのマイケル・バーガー中将に事情を報告し、天風先生を探しはじめました。
 昭和二十二年七月、
天風先生はアイケル・バーガー中将から呼び出しを受け、アメリカ人の捕虜を助け、憲兵隊まで送りとどけた主が天風本人であることが確認されました。
 アイケル・バーガー中将はこの時の尋問で天風哲理によほど感銘を受けたのか、これを縁にして、十月に有楽町の毎日新聞社ホールで三日間、GHQの幹部、将校、約250名を対象に、通訳なしで講演を行うことになりました。この時期に敗戦国の天風先生が勝戦国の将校らに講義するのは特例中の特例なことで、なにやら皮肉にも思えてきます。
 この講義をロックフェラー三世が傍聴していて感銘を受け、破格の待遇でアメリカに招聘したことは、すでにマイルストン・エッセーの「不孤」で記した事につながって行きました。 
 
 こうしてこの年の十月から戦後初めての講演会が再開されました。当時、占領軍よる厳しい思想検閲の中にあって、天風哲理の講演が黙認されたことになります。
 ご自身は戦争にあくまでも反対を貫いたのですが、国民の一人として多くの弟子たちや若者を、戦死させたという自責の念からか、戦前にあれほどまで政治問題や社会紛争に関わってきた天風先生が、戦後はそうした事に一切関与することなく、敗戦から22年間、日本人の心を建て直すために、一筋に心身統一道の教えに専念して行くことになりました。

 

*参考文献
 「中村天風 活きて生きた男」松原一枝著(中央口論社)
 「実録 中村天風先生 人生を語る」森本暢著(南雲堂)
 「哲人 中村天風先生 抄」橋田雅人著(広済堂)

月別 アーカイブ

この記事について

このページは、三休が2012年8月29日 23:01に書いた記事です。

ひとつ前の記事は「ヨーガの里に生きる」です。

次の記事は「安定打坐考抄」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。