IMG_8143.jpeg 安定打坐、私の称する天風打坐は「心の瞬間活力法」として、まことに実用向きです。
 杉山彦一天風会四代目会長は、安定打坐法はノーベル賞級の創意だと言われましたが、私も同感です。
 私は天風打坐しか知らなので比較できませんが、日常生活の中で瞑想や坐禅をする時、どれくらい長く打坐をすればよいのか、また、どれくらい打坐をすれば三昧の境地に入れるものかもわかりません。それに多くの人は日常生活のなかで長く打坐をしている時間的な余裕も静寂な場所の確保もむずかしいです。
 天風師は長い時間の打坐を奨励していません。その時間があるなら日常生活で別の事に使えと言っています。瞑想は『時間の長短でなく静けさ深さが大切で、漠然と長い時間坐るのはむしろ時間の無駄で、1日10分から20分でも毎日続けることが大切』(井沢淳弘著「最高の瞑想法」)としています。
 天風打坐は数分の合間に聴こえてくるブザーの音に心耳を傾け、パーンと音が絶えた刹那に無念無想の境地に入ることを第一歩としてます。2〜3秒ほどの境地ですが、深山幽谷のなかに入ってシーンとした静寂な気を感じた時と同じに気分になります。そうなりますと理屈なしに心の疲れが休まり、心に復活の力が湧き出てきます。
 坐禅の求める境地もこれだと思いますが、長く打坐をしていてもなかなかその境地に入れぬようです。それを天風打坐法は数分のうちに三昧の境地に到達せしめるのですから、すばらしい創意です。時にはなんとも言えぬ心地よさに、そのままいつまでも坐っていたい衝動になりますが、そこは天風師「見切り千両」の爽快さで、スーと立ち上がり、新しい元気をもって日常生活に向かことになります。

61AbNh56wmL.jpeg 工藤房美著「ありがとう。100万回の奇跡」を、読んでみました。
 工藤女史は末期ガンで医師から余命1ヶ月と宣告されたが、村上和雄氏の著書で遺伝子をプラスONに覚醒することで腫瘍が消えて、命の甦りを果たしたと言うことでした。たぶん「がんもどき」だったかと思うのですが、参考に村上和雄著「サムシンググレート」、「生命の暗号」、「アホは神の望み」を、走り読みしました。
 1980年代の出版当時は遺伝子万能がもてはやされた時期でした。出版社の意図と思うがタイトルを「サムシンググレート」として神隠ししているのが煮え切らない。原題の「人間、信仰、科学」(1986年、天理教道友社刊)の改題となっています。ここに書かれている内容ほぼ80年前の天風哲理の練り直しでした。
 語彙として「サムシンググレート」を「宇宙霊」に、生命の暗号の「遺伝子」を「潜在意識」に置き換えることができます。また遺伝子に全て委託するさいに「つつしみ」が必要としていますが、これも「調和」に置き換えられます。
 まだ使われていない遺伝子を、ポジティブのプラスにONすることで運命を好転するとしています。これはその通りだと納得が行きます。しかし、どのようにして遺伝子をポジティブONにするのかは、「祈り」と「ありがとう」だけしか言及していないところが、学者やの〜。
 「言うは易く(How to say)、行なうは難し(How to do))で、具体的な方法まで論及されていません。
 ポジティブONにすには天風哲理の「潜在意識の更改法」が必要になってきます。「アホは神の望み」の他力でなく、意志の煥発の自力行修が必要になってきます。単なるアホではだめでして、この点が天風実践哲理の優れたところになります。How to「クンバハカ」、「天風式打坐」「潜在意識の更改」の三点セットでプラスONになります。

調和

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IMG_7942.jpeg  「調和という事は 真善美の美に該当するもので、
   これは探究すべきでなく、自ら進んで作為すべきものである」
                 「真理のひびき」箴言17 

 「天風誦句集」のなかに「平和」という語彙が5ヶ所あります。
 天風師にしましても戦後の平和至上の風潮を受けていたことを実感します。言うまでもなく平和は尊いものですが、戦後あまりに平和を絶対視し、政治用語と化して乱用され使い古されてきました。
 昭和の戦後から平成へ代わり、来年は新しい元号になります。また、天風哲理百周年でもありこの機に「平和」の語彙を「調和」に代替してはいかがでしょうか。
 「真理のひびき」箴言17の注釈に;
 「調和ということは、厳粛なる宇宙本来の面目であり、かつまた人生の実相である」
 「調和のあるところにのみにいわゆる真の完成というものがあって、調和のないところには絶対に完成というものはあり得ない」と、注釈しています。平和と調和は違いまして、調和を作為することで平和が招来されてきます。「天風誦句集」にあります「平和」の語彙を「調和」に置き換える方がより真理のひびきに近いものがあります。
 まず、私が何度か書いてきました誦句集冒頭の「誓詞」ですが、
  今日一日
  怒らず 怖れず 悲しまず、
  正直 親切 愉快に、
  力と 勇気と 信念とをもって
  自己の人生に対する責務を果たし、
  つねに平和と愛を失わざる
  立派な人間として活きることを、
  自分自身の厳かな誓いとする。

 今日の一日を「怒らず、怖れず、悲しまず」「正直、親切、愉快に」「力と勇気と信念をもって」と、ここまでトントントン3つの単語がリズムよく流れています。ここで「平和と愛」だけで流れを止めずに「つねに誠と愛と調和を失わざる」と、真善美の3つの語彙で続け、ついで立派な真人(リアリスト)と繋げたらすっきりします。
 次に「言葉の誦句」ですが、「終始 楽観と歓喜と、輝く希望と、平和に満ちた言葉でのみ活きよう」を、楽観と歓喜と希望と情念の流れからして、ここは平和とせずに「終始 楽観と歓喜と、輝く希望と、調和に満ちた言葉でのみ活きよう」と、調和がより相応しく響いてきます。ですから「大偈の辞」において「誠と愛と調和した気持と、安心と勇気とで、ますます宇宙霊との結び目を堅固にしよう」となります。また、これと同じ流れで「一念不動の誦句」における「平静と沈着と調和と光明とに輝き閃いているのだ」になります。
 さらに、5つ目の最後「修道大悟の誦句」で、「我らの住むこの世界に誠と愛と平和に活きんとする人の数を多からしむるべく」を、「我らの住むこの世界に誠と愛と調和に活きんとする人の数を多からしむるべく」と、真善美に置き換える方がより相応しく思います。
 「天風誦句集」のなかで「神」「神仏」の語意は、すでに「宇宙霊」に置き換えられています。朝礼の時に行う「平和体操」の名称も「積極体操」に換わっています。誦句集の「平和」も「調和」に代替えされたらいかがなものでしょう。
 天風師は日々更新を旨とし、これだと納得すれば即日から変えてきました。

IMG_7561.jpeg 何度か本エッセーにも書きましたが、昭和天皇と天風師のご縁は、大正時代の皇太子の時からはじまり、昭和を通してつながっていました。
 これもまたご縁ですが、天風師が上野恩賜公園の樹下石上で辻説法を始めたパワースポットのはす向かいに、昭和35年2月23日「浩宮御誕生記念」のつつじ植栽の碑が建てられています。皇太子親王の誕生を記念して寛永寺清水観音堂の下につつじ1万株を植栽しました。この植栽記念碑の前が「しのぶ川」の水飲み場になっています。
 2019年の春に今上天皇が退位され、浩宮新天皇が即位なさり元号が代わり、秋に即位の礼、大嘗祭が執り行われます。その中間に天風師の100周年記念式典がこの地で(たぶん)行われます。春に桜、継いでつつじ、青葉のしげる樹下石上、来年の桜通りはお芽出たい通りになります。
 上野恩賜公園に来られた折に、散策してみてください。
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518rChmHc8L._SX336_BO1,204,203,200_.jpeg 井沢淳弘著「最高の瞑想法」(2018年5月刊)を読みました。
 著書は大きく前半と後半部に分かれてまして、前半部は前著書「やさしい瞑想法」(2011年3月刊)の重複で、安定打坐を瞑想として一歩踏み出した内容でした(エッセー2016年8月に紹介)。今回、評価したいのは後半部、天風著「安定打坐考抄」の現代語訳になります。
 「安定打坐考抄」は、天風式打坐を理論的に言及した貴重な著書となっています。天風師が後世に書き遺した心身統一法の「真人生の探究」(1047年)「研心抄」(1948年)「錬身抄」(1949年)の三部作があります。そして4年後の1953年の夏期修練会のテキストとして会員向けに「安定打坐考抄」を補足しました。導入に;
 「安定打坐法を、予は一名ヨーガ式坐禅法と呼称して居ることは、夏期の心身統一特別修練会に参加せし天風門下のすべてが承知されて居ることと信ずる、が然し恐らく何故の所因があって、かく呼称するかという理由に就いては、長年予の門下として行修する古参以外には、それを知悉して居る人が極めて少ないと思う」と記しています。
 この小册で安定打坐法を、論理的に説明し坐禅との違いを明確に定義しています。私はこの小册の刊行した時点で、永らく研鑽を続けてきた安定打坐法の理入が確立したと考えています。その意味で誠に貴重な「安定打坐創建宣言」になっています。天風師は喜寿に三部作プラス・ワンで、「心身統一法」が論理的に完成しました。
 私はこの貴重な小册が他の著述書と同じように改訂版が出されることを、長い間待ち望んでいました。天風会青年部が現代語訳にしたコピーを読んだことがありますが、出版まで至っていないようでした。
 なぜこれまで出版されないのか、いくつか理由があります。先ず内容が難解で会員対象にしぼられ、読者層が狭過ぎて発行部数が限られてしまい商業ベースに乗らないこと。それに文章表現が旧字体で漢字が多用されていて、このままでは改訂版にならないことです。
 今回、「最高の瞑想」の後半部において130ページを割き、「小見出し」と「注釈」を加えて現代語訳していました。ついにきちんとした現代語版が出版されました。著者の精進研鑽に敬意を表します。同時に「安定打坐考抄」が、ついに古典として注釈まで付けられるようになってしまったことに一抹のさびしさと深い感慨を覚えました。でも小册はルネサンスとして古典にしては行けないのです。
 ただ、現代語訳で読みやすくなりましたが、内容は依然として難解です。それに読んで理解できる事と安定打坐をして「神人冥合」ができる事とは別の次元になります。天風師は「強いて此境地に入りし時の心境の説明を試みれば忽ち第二儀に陥る恐れがあるを以てただ一意実習的体得に依る外はないのである」として、「この密法の実行に努力し自己の心境の払拭をして頂きたい」と結んでいます。やはり読んで理解するだけでなく、実践を通して体得して行くほかありません。

IMG_7216.jpeg 1919年、大正8年6月8日、きれいに晴れ上がった心地よい朝、和服と袴のいでたちで草鞋に脚絆姿の男が、妻のこしらえた握り飯を風呂敷に包み、本郷の自宅から池之端を通りぬけ五條天神社の坂をあがり、花園稲荷神社の鳥居の右斜め前の石上で仁王立ちになり、右手にもった鐘をガランガランと鳴らし「道行く人よ、来たれいざ」と、第一声をあげました。
 この男は何者かと立ち止まった数人に向かい、バナナの叩き売りのような調子で;「おい、そんなところに立っていないで、こっちにきな。往来の邪魔になるじゃないか。これからいい話しを聞かせてやるから、こっちにきな。安心しろ、銭は一文ももらわねえ」。
「いいかい、人間の運命なんてものは、何時どうなるかわからんぞ。だから、ぼうっとして生きていたんじゃだめだぞ」。
「健康なんかは、心の持ちよで必ず建て直すことができるんだ。運命だってそうだ、心一つの置きどころでねぇ、人間というものは、心の持ち方ひとつで、幸せにもなれるし、不幸にもなる。だからねぇ、どんな場合にも心を強く持っていれば、必ず道は開けてくるものなんだ」。                
 自ら命の甦りを果たした体験をもとに、病める者、悩める者、貧しき者を救おうと、本来あるべき人の道、命の道を説法し、「いいかい、続きを聞きたかったら、明日またきな。ゆっくり聞かしてやるから」と、締めくくりました。
 するとたちまち無届け演説として上野警察署に引っ張られましたが、「私はこれから毎日のように説法をする。そのたびに届けを出しているわけにはいかない。話しの内容を聞いてくださればわかる」と署内で演説した結果、「交通妨害せざる限り、上野警察署管内においては差し支えない」との許可書が発行されました。
 こうして晴れた日も雨の日にも大道説法が続き、なかには5分とたたぬうちに「この野郎、頭がおかしいんじゃないか」と立ち去る人、「時には寒風吹きすさぶ暮れ迫る街頭で、60歳を越えたたった一人の女性のために人の道を説いたこともあった」が、一方で立ち去り難く興味深げに聞いてくれる聴衆が少しずつ多くなってゆくことに手答えを感じていました。
 上野恩賜公園の樹下石上を家となす決意をしたこの男、中村天風はかつて東京実業貯蔵銀行の頭取、電灯会社や製粉会社などいくつかの経営に携わった実業家で、紳士録にも名を連ねていたが、すべての事業を整理し地位や名誉を捨て、大道説法をはじめたのはいったい何故なのか。
 中村天風は、九州柳河藩主の立花鑑徳を祖父に持ち、明治9年に東京北区王子の紙幣官舎で生まれました。上野界隈で幼年期を過ごし、6歳にして御徒町の今泉八郎道場に通い剣と儒学を学び、湯島小学校を卒業しています。15歳の時に福岡の修猷館中学を退学後は、日露戦争前に軍事探偵として満蒙で活躍。帰還した30歳の時に悪性の奔馬性肺結核を発病、当時の最高権威であった北里柴三郎から余命3年と見放され「かくなる上は武士らしく死ね」と宣告されました。
 かつて満蒙の奥地軍事偵察をしていた頃は、勇猛で死などまったく恐れなかったが、結核を患いすっかり痩せ細り気弱で哀れな男になり下がってしまった。どうせ助からぬ命なら、どうにかして以前のような頼もしい勇猛な強い心を取り戻してから死のうと思いたち、日本の著名人をはじめアメリカと欧州各国を遍歴し、当代先鋭の哲学者、心理学者、生命科学者、宗教家を訪ね歩きましが、3年の遍歴で知り得たものはごくわずかで、強い心を再生する答を得られませんでした。世界3分の2を訪ね歩いても救われぬ我が身に絶望し、失意のうちに帰国を決意し、桜の咲く国、富士山の見える国に帰ろう、せめて日本の土で死のうと地中海の船上にいました。
 その帰郷の途上でたまたま前を行くイタリアの砲艦が、スエズ運河で座礁したため、やむなくエジプトのホテルに宿泊することになり、その食堂で英国王室の招きでヨーガを伝授して帰路についていた大聖者カリアッパ導師に遭遇し、導師は微笑みながら天風をテーブルに手招きして、「お前は右の胸に病を持っているね。日本に死に逝くのか、お前はまだ死ぬ運命じゃない。救われる道を知らないでいるから、私と一緒においで」と、一筋の光が差し出されました。 
 翌日、導師に連れられ3ヶ月後にヒマラヤ秘境のヨーガの里に入り、3年にわたる言語を絶する難行苦行のすえに命の甦りを果たしました。「もし、あのまま日本へ帰ってきちゃったとしたら、私の今日もある道理がなく、あなた方も私と一緒に喜びの人生を味わうことができずに終わったでしょう。マルセイユを発って2週間、因縁ですよ。どう考えてみても、事実は小説より奇なりであります」と、講演のときに瞳を潤ませながら話す起死回生のドラマでした。
 この導師と遭遇した運命の日が、ちょうど八年前に遡る6月8日の朝でした。そうであればこそ、己の命を甦らせてくれたこの日を、大道説法の門出に選ばれたのでしょう。真理に目覚めた者は人を救わずにいられない。導師は天風との別れの際に、「そなたの体験と行法をもって、世の人々を救え。もし困ったことが起きても、もう一人のお前が、それを解決してくれる」と諭しています。
 今でこそヨーガは一般に知られていますが、当時の天風はヨーガがなんたるものか、ヒマラヤ山麓のどこで修行しているのかさえ知りませんでした。そのような状況にもかかわらず、優れた導師から本格的な修行をさせてもらい、ヨーガの覚者にまで大吾し、命の甦りを果たしたという事実は、世界でも例のないことでして、しかも導師のヨーガは諸流派のなかで最も精神性の高い教えでした。
 こうした偶然が重なり、天風はこれまで密法とされてきた正統ヨーガを、日本で最初に持ち帰った人となりました。これはもう選ばれし者としか思えません。しかし、それだけのことなら一人のヨギー覚者として半生を終えたにすぎませんが、天風は命の甦りを果たして帰国した後、ヨーガでなぜ己の命が再生できたのかと根本原理の探究をはじめ、自身の体験をもとに難解なヨーガ密法を、医学と心理学の幅広い知識から人間が本来あるべき道、命の道を、誰もが日常生活のなかで容易に実行できるように集大成させて行きました。
 こうして大道説法をはじめて5カ月ほどたったある日の事、説法を終えて帰り支度をしていたところに、背広姿の一人の若い紳士が、「いつもお話しを聴かせていただいています」と丁寧に挨拶し、「実はお願いがありまして、我々の友人のあつまりに桜倶楽部というのがあるのですが、そこで是非こういうお話をしていただきたい」と、問いかけてきました。
 天風は快諾し約束の日に、丸の内の日本工業会館の中にあった桜倶楽部で、政財界の名士を前に三時間の講演したのを機に、「これは大道で聴く話じゃない」と、多くの賛同者と聴衆を次々に得て行くことになりました。
 これが後に、財団法人「天風会」に発展してゆき、昭和43年、天風92歳で生涯を閉じる50年間に、直接薫陶を受けた者、皇族をはじめ、大臣、実業家、学者、軍人、人間国宝、文化勲章者、落語家、俳優、相撲取り、金メダリスト、スポーツ選手、小説家、サラリーマン、市井の人々、全国のべ百万人に及ぶと『哲人追悼特別号』に記載されています。上野恩賜公園の樹下石上で産声を上げた心身統一法が、大きく生成して行きました。
 天風は生前に、「ときどきあそこへ行って、あの石台を見ちゃあ、思わず熱い、胸にせきくるものを感じながら帰ってくるんです」と懐述していました。
IMG_7218.jpeg その石台は今もなお花園稲荷神社の鳥居前の街灯(東京LA−2-1)の奥に在ります。石台の上に立って周りを見ますと、長く続く桜並木と上野の森美術館から不忍池に通じる道が交差する小さな広場になっていて、路上に桜模様の道案内が描かれています。6月と言えば青葉が茂り、道行く人がその前を通り過ぎて行きます。なんでもない台石ですが、世のため、人のため、日本人の心の復興に生涯をささげたいと草鞋に脚絆姿で仁王立ちした天風の初志を、そのままに偲ばせています。
 できることならば、百年の風雪を機に、この石台に銅板で『誠・愛・調和//中村天風/心身統一法発祥の礎石//1919年6月8日』と、記念碑が刻まれることを、心から祈念しています。 合掌
 

参考文献
おおいみつる「心機を転ず」春秋社
橋田雅人「哲人中村天風先生抄」広済堂

51+sv4Y4e0L._SX302_BO1,204,203,200_.jpeg       うらやまし 浮き世の北の 山桜 (芭蕉)
 昨年9月から天風会メルマガ「中村天風 一日一話」<元気と勇気が湧いてくる、哲人の教え366話>が、配信をはじめ半年が過ぎました。決まった時間に「一日一話」の配信を、楽しみに待つ生活がすっかり定着しました。
 これまで2冊の日めくり天風箴言カレンダーと卓上の箴言カレンダーがありました。日めくりカレンダーの出典は、天風著書「智慧のひびき(天風哲人箴言注釈)」と「真理のひびき(哲人哲語)」からの箴言でしたが、「一日一話」は、天風哲学アカデミーにより、天風師の主要な書物の真髄から特に印象深い文章を幅広く抽出しています。しかも、「箴言」と固く構えずに、さりげなく「一話」としています。日めくり箴言カレンダーも良いものですが、デジタル文になって毎日配信される一話もまたいいものです。著書と違がいまとめ読みでなく、一日に一話ですので言葉に集中でき、その日の学びになります。
 今日もいい一話が送られてきました;
 「04月03日 |ニッコリ笑う
  朝起きると、まず、第一に、ニッコリと笑う。
  もう、くせがついているから、
  眼が覚めるとニッコリと笑う。
  わざわざニッコリと笑わなくても、ひとりでに笑う。
  そして、
 『今日一日、この笑顔を壊すまいぞ!』
  と自分自身に約束する。  

   ふたたびは 来らんものを 今日の日は 
        ただほがらかに 活きてぞたのし」

 つまらぬ情報が氾濫する浮き世の北で、急がず、焦らず、一日一話。継続は力でして、一日一話の積み重ねで、天風哲理に精通してきます。
 まだ天風メルマガを読まれていない方に、是非のお勧めです。

天風師の愛

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IMG_6800.jpeg 2月20日に私の著書「天風式ヨーガと瞑想のすすめ」が、幻冬舎から出版になりました。
 この日は先ず新刊書を持って上野恩賜公園に行き、天風師が辻説法をはじめた石台に挨拶し、早咲き桜の花びらを添えました。
 その足で護国寺の天風師の墓前に新刊書の報告をし、天風会本部に数冊お届けしてきました。
IMG_6812.jpeg 著書の中に空海弘法大師と天風師のことを書きながら、護国寺門前と天風会館の間に建つ「弘法大師霊場」の因縁にまで言及しなかったことを残念に思ったしだいです。
 さらに久しぶりに天風ギャラリーを参観すると、最初に目に入るのが「愛」の書でした。天風師の究極は「愛」を基盤としていました。これは私が原稿を書き終える頃に気がつきながら書き及ばなかったことで、その天風師の偉大なる愛、絶対愛、不偏愛の「愛」の書が冒頭に掛けられていました。天風哲理は愛そのものなのです。
 早くも出版の初日に二つのことに言及しなかったことを教えられる始末でした。しかたなく天風師の愛については今後の課題にしました。

IMG_6814.jpeg

12:14.jpeg 今月、天風師五十回忌によせて著書「天風式ヨーガと瞑想のすすめ」を出版します。
 本書は1919年6月8日に天風師が上野恩賜公園の中にある精養軒のはす向かい、青葉茂る樹下石台に、草鞋に脚絆姿で仁王立ちになり、右手に持った鐘を鳴らし「道行く人よ、来たれいざ」と、第一声を上げた辻説法から書きはじめました。天風哲理の原石と考えたからです。
 そんなことで、出版を前に精養軒のはす向かいある十数の青葉茂る樹下石上に一台一台と立って検証してみました。百年前の人の流れと空間を考えながら、ここではない、ここでもないと消却していき最後に2つの石台が残りました。この2つの前を何度も歩いては立ち止まり石上に立ってみました。街灯柱の奥にありそれが邪魔をしていましたが、やはり私が最初にここだと思った台石でした。
 百年前には無かった街灯柱を無視して再度この石台に立ちますと、人の流れが左右と正面から、後方左右の登り坂とで五っの道筋の要に位置していました。天風師が本郷の自宅から忍ばずの池端を歩かれ五條天神社と花園稲荷神社の坂を上った所でした。わかりやすいために精養軒のはす向かいと言ったと思いますが、むしろ花園稲荷神社の鳥居の斜め前でした。石台は街灯番号「東京都LA-2-1」の奥になりますが、これが目印になります。上野公園にお出かけの折りに寄ってみてください。
IMG_6589.jpeg 6月の上野恩賜公園と言えば、青葉が茂り今日も道行く人が石台の前を通り過ぎて行きます。なんでもない台石ですが、草鞋に脚絆姿で仁王立ちした天風哲人の初志をそのままに、当時を偲ばせています。
 生前、天風師は当時を思い「寒風吹きすさぶ暮れ迫る街頭で、60歳を越えたたった一人の老婆のために人の道を説いたこともあった」と懐述し、「ときどきあそこへ行ってあの石台を見ちゃあ、思わず熱い胸にせきくるものを感じながら帰ってくるんです」と、語っていました。
 出来得ればこの石台の前に、天風哲理発祥の石台と記念碑が建てばいいのですが、未だ私の信念の及ばぬところになっています。
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謹賀新年

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IMG_6647.jpeg 「門松や おもえば一夜 三十年」(芭蕉)
 2018年2月に天風道33年の総括として、天風師の著書を出版します。また同2月にはスイス人の初孫が産まれることで人生劇場の舞台が一回転しまして、眺める風景が変わって見えてきました。
 古代インドでは、この風景を「林住期」と言いますが、なかなか味わいがあります。これからも天風道を歩み、単に若作りや不老を目指すのでなく、あるがままに齢を重ね、今ある新たな人生を受け入れて、新しい元気でいぶし銀のように輝き続けていく所存です。
 どうぞみな様よいお年をお迎えください。
 2018年もよろしくお願い致します。
                  2018年元旦
                     野口 拝