サライの風

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カン.jpeg                (カンボジアの太陽 4月5日 Shinta mani撮)

 
サクラ吹雪の サライの空は〜?
   哀しいほど青く澄んで 胸が震えた (谷村新司・作)

 夜中3時に強風と皆
満月の明るさで目を覚ましました。そして今日はイースターの復活祭。
 どうも最近どこかで中規模な国際紛争が起きるようなきな臭さを感じています。「遠くの火事より背中の灸」で、EU諸国が現状の行き詰まり打開策として、極東での戦争をしかけているような嫌な胸騒ぎがしています。日本と中国の指導者はそうした火種をわきまえた上で政冷外交を演じてもらいたいものです。
 そんな胸騒ぎから、「20世紀とは何だったのか」 ー西洋の没落とグローバリズムー、佐伯啓思著(PHP文庫)が、折よく3月に出版されたので熟読しました。本書は京都大学1、2年生の教養科目で講義した内容ですから、教室に戻ったような気分でやさしく読み進められました。特に最終講義の附論「近代の超克」は、私の卒業論文のテーマでもありましたので、懐かしい響きに涙がこぼれそうでした。
 著者と私は同年代ですから、同じ時代背景で、同じ思想系列を構築してきたようです。著者との分かれ目は、氏はそのまま学研を続けて大学教授となり、私は実社会でその生態実験のサンプルになったことです。
 そんなことはさておき、本書の一貫した論調は、西洋文明がニヒリズムとともに没落し、それを引き継いだアメリカ文明が更にそれを増幅させて行き詰まり、故郷喪失者の大衆社会を生み出し全世界に拡散させているという内容です。著者の主張は、故郷喪失者(デラシネ)は(4月3日ブログのアフリカ系アメリカンだけでなく)、現代人すべての大衆心理に内在していると論及しています。そして受講生に「近代の超克」を問題提起して退官しました。
 著者は「こうした故郷喪失者たちが、遠い世界にあって最終的にみずからをアイデンティファイできるものがあるとするなら、それはいったい何でしょうか。少なくともそれは国民国家の意味での国民ではない。国民という枠組みから、彼らはもうはみ出てしまっている。とすると、彼らが戻ってくるべきものは、国民のもっとも根本にあるもの、もっと根本にあって目には見えないもの、つまり自分たちの民族性、さらに突き進めていけば、人種性(心のふるさと)にほかなりません。彼らが海のかなたで自己証明しようとすれば、自分の民族性に回帰せざるをえないのです」としています。 
 なにやら自分のことでも言われているかのようです、、


 まぶたとじれば 浮かぶ景色が

  迷いながらいつか帰る 愛のふるさと
   サクラ吹雪の サライの空へ
    いつか帰るその時まで 夢はすてない〜? 

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このページは、三休が2015年4月 6日 09:58に書いた記事です。

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