2013年11月アーカイブ

靖国再談

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 また曾野綾子女史の著書を読んでしまった。今回は「働きたくない者は、食べてはならない」という曾野さんらしい厳しいタイトルでした。最後の締めは「老人は死ぬまで働かねばならない。人間とは倒れる瞬間まで働くものだ。少しもみじめでない」とあるが、私もそうありたいものです。倒れるのも前向きで、、
  いざ行かん 雪見にころぶ ところまで (芭蕉)


 またして曾野女史の著書になってしまいましたが、それにはやはり理由があります。第一に、今のご時世にこれほど明確に真正面から人間の基本(ファンダメンタル)を説く人は、男女の作家、評論家を見わたしても群を抜いています。それに物書きの職人でして面白く一気に読ませてしまうものがあり、やはり当分は曾野さん参りが続くようです。
 いくつかの章で靖国参拝が書かれてまして、靖国を参拝しない政治家の言い訳けを、竹を割ったかのかの如くバッサリと切り捨てています。真の信仰を持つ人の言葉です。人間が生きて行く上で基本を忘れたくないものです。ここでも「靖国で会おう」が大切な言葉として書かれていました。これは命がけの別れの言葉でして、この重い言葉を気軽に使ってしまった自分に、なんとも情けない思いにさせられました。曾野女史に叱られているようで、また一から出直して参拝です m(_ _)m

 さて、これから曾野さんの対談「人生の基本を忘れた日本人、この世の偽善」を、機上で読みながら南米ペルーのマチュピチュに出かけてきます。世界遺産ベスト一位にランクされた名所です。私にとり世界一はブータンのタクッアン僧院ですが(ブータンに世界遺産はありません)マチュピチュはなんぼのものか楽しみにしています。今回は出張でなく年に一度のバケーションです。
 帰ると12月です。私は新商品開発会議で香港、珠海、深圳、上海、群馬と、もう一回りしてきます。12月もよい月にして行きましょう。

ライシャワーを偲ぶ

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220px-Edwin_O._Reischauer_Memorial_House_(Kodansha)_-_Belmont,_MA.JPG           (ライシャワー邸宅)
 ブログにケネディ新大使の「信任状捧呈式」を書きながら、故エドウイン・ライシャワー元駐日大使を思い出してしまった。

 エドウイン・ライシャワーは日本生まれのアメリカ人として
1961年から1966年まで駐日大使を務め、日米の架け橋として最善を尽くされ、多くの日本国民から親しまれました。
 大東亜戦争中に
アメリカ陸軍の対日情報戦に従事していた頃、米陸軍航空隊による日本の主要都市の爆撃リストの中に京都の名前を目にし、あまりのショックに上司のオフィスに駆けこんで大粒の涙をこぼしながら京都を爆撃リストから外す事を必死に頼み込んだとい逸話が残っています。
 1964年、アメリカ大使館の門前で太腿をナイフで刺されて重傷を負い、日米関係に緊張が走った時に、輸血を受け「これで私の体の中に日本人の血が流れることになりました」と緊張を和らげ美談に変えました。しかし、この輸血がもとで肝炎を患い
一時大使辞任を考えたが「今退任し帰国すれば日本人は事件の責任を感じてしまうだろう」と留任することを決めています。
 たしか離日のお別れ立ち会いパティーだったかと思いますが、私も進行係のアシストとして学生服で送別に列席しました。ライシャワー大使を身近で拝見し意外に小柄な人だったことが強い印象でした。なにより日本を愛し、日本人から親しまれ、惜しまれながら日本を後にし、ハーバード大学の日本研究所に帰任しました。
 その後はボストン郊外に邸宅を構え、1988年(昭和63年)に、皇太子(明仁親王)と美智子妃が訪問して滞在しています。1990年(平成2年)輸血時の肝炎が悪化し、79歳
の生涯を終え、遺言により遺灰は太平洋に撒かれました。
 
ライシャワーの邸宅は二階が記念館となり、一階は住まいとして日本からの短期研究員等に提供しています。その邸宅に私の友人が2年ほど研究員として滞在した折に訪問し、記念館を拝観させてもらいました。
 記念館の中央に昭和天皇から賜われた駐日大使信任状(?失念)の額が掛けられ、そこには昭和天皇のお人柄が偲ばれる直筆で「裕仁」と著名されておりました。私は昭和天皇の直筆字体を初めて拝見し、凝視したまま身がふるえる感動を覚えました。ライシャワーにとりましてもこの直筆「裕仁」は、生涯の大きな誇りだったのかと思います。

ようこそ Japanへ

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 1963年11月22日はテキサス州ダラスで J.F.ケネディ大統領が暗殺された日となります。この悲劇からケネディ神話が生まれました。大衆国家アメリカは神話も王室も持たない国ですが、J.F.ケネディは神話になり、英国のロイヤルファミリーにもたとえられるケネディ家になりました。
 あれから半世紀が過ぎ、ケネディ家も風化が始まり当時5歳だった令嬢キャロラインを残すだけで人々の記憶から薄れつつあった秋(とき)駐日大使に任命され再び脚光をあびることになりました。

 キャロライン新大使は天皇陛下にオバマ大統領からの信任状を手渡す「信任状捧呈式」に臨むため、皇居に向かう偽装馬車から手をふりにこやかに微笑んだ光景を、当地アメリカでも大きく報道されました。これは何をしても様にならず迷走を続けるオバマ大統領の唯一の功績かも知れません。
 天皇陛下、皇居、ロイヤル馬車、ケネディ新大使が奏でる大和のハーモニー、最近これほどアメリカ人の心の琴線にふれた映像もありませんでした。またケネディ家の癒しともなりました。

 キャロライン大使は、政治的な同盟の大使としてだけでなく、文化的な親善大使として日米の絆を深めてゆくことになりそです。J.F.ケネディ大統領が任命したライシャワー駐日大使以来、日米両国民に愛される大使になると思います。21世紀は「アジア太平洋の世紀」と言われて久しくなりますが、信任状捧呈式はその幕開けのよな儀式でした。日本とアメリカ、太平洋を挟んだ楕円の二つの極から、やがて地球文明を象徴する花が育って行くことでしょう。

ファイティング原田

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51GXv4Qj1vL._SL500_AA300_.jpg また百田尚樹さんの「黄金のバンタムを破った男」を、面白く読んでしまった。今回のメニューはボクシングでした。小説でなくボクシングの黄金時代をノンフィクションで描いています。ノンフィクションですと他の作家でも書けますが、百田さんらしいのはファイティング原田を通して戦後の日本が失ったスピリットにスポットを当て、ボクシング界の「三丁目の夕日」になっているところです。
 私が面白く思ったのは、日本人初の二人のチャンピオン誕生に、二人のユダヤ人がからんでいたことです。
 一人は、進駐軍(GHQ)から日本人の食糧支援のため日本周辺海域で採れる海洋生物の調査員として派遣された将校が、たまたま覗いた築地のジムで、引退を考えていたロートルボクサー白井義男(当時25歳)を見かけ、その素質を見出してコーチとなり、日本人初の世界フライ級チャンピオンに育てあげた、アルビン・ロバー・カーン博士です。
 カーン博士は世界チャンピオン挑戦する白井に向かい;「日本は戦争でアメリカに負けた。今の日本が世界に対抗できるのはスポーツしかない。ヨシオ、君は自分のために戦うと思ってはいけない。それだけでは苦境を乗り越えれない」、「ヨシオ、君はこの試合で勝利することで、敗戦で失われた日本人の自信と気力を呼び戻すのだ」と諭しています。この言葉は迫害と辛苦な歴史を持つユダヤ人が面目とする人類愛です。
 もう一人は、バンタム級で史上最強といわれたブラジル人、エデル・ジョフレ(29歳)vs ファイティング原田(22歳)の世界チャンピオン戦のレフリーをつとめた、バーニー・ロスです。
 ロスは、ニューヨークでロジア系ユダヤ人の移民の子として生まれ、シカゴのゲットー(貧民街)でギャングとして育ち、その世界から足を洗いボクシングの世界に飛び込み、
三階級制覇した偉大なる元ボクサーでした。打たれ強くどんな強打にもひたすら耐えぬき生涯一度もダウンしなかったファイターでした。
 ジィフレ vs 原田の試合はボクシング史に残る名勝負で、ほぼ互角で終了し誰もが勝敗の予想ができず、後はレフリー兼主審であったロスの判定を待つだけでした。そして観衆の緊張のなかロスは挑戦者にコールしました。原田が史上最強の男に勝利した奇跡の瞬間でした。
 百田さんはロスの判定に、打たれても打たれても、恐れる事なく勇敢に立ち向かって行くファイター原田に、かつての自分を重ね合わせていたとしか思えない、もしロス以外のレフリーだったら原田の奇跡の勝利はなかったかも知れないと書いています。
 日本も日露戦争でユダヤ人を味方につけ勝利し、大東亜戦争で敵に回して敗戦しています。
このあたりが国を持たないデラシネのユダヤ人の興味深いところです。

靖国参拝

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 11月6日早朝、千歳空港に向かう時に札幌駅の北口でチラシを配っている人がいました。その前を通り過ぎホームに向かう瞬時に、彼は私をみて少しためらった表情でチラシをくれました。
 札幌のことですから反原発か左派系のチラシだろうと思いながら電車の中で読みますと、「自衛隊の経験を社会に生かそう」、陸・海・空自衛官候補生募集、資格18歳以上27歳未満、採用任期3年〜のプログラムでした
(私を二十代と思ったのだろうか^^;)
 チラシを読み終え、流れる景色に目をやりながら、ぼんやり学生時代の同志のことを思い出していました。当時、私は徴兵の代わりに3年間の留学を決めていましたが、もし留学していなければ自衛隊に入隊していたかもでした。同志は自衛隊に入隊し、薄給の中から私が卒業して留学するまでの8ヶ月間の下宿費を援助してくれました。送別に木刀をくれ「俺は自衛隊に入隊したが、お前は留学して王道を行け」と、送りだしてくれました。
 同志「志水文人」は、左利きの剣道二段、大分県竹田市から上京し、目の澄だ精悍な感じで「山口二矢」を彷彿させていました。当時の私は坊主頭の学ラン姿で通学していたものですから右翼とみられたのか、彼が所属していた政治団体にスカートされたわけです。私の政治への目覚めでして、彼とは昼休みによく学舎近くの靖国神社を散歩しながら天下国家を語り合い、大酒飲んで酔っぱらっては夜の街中を「蒙古放浪歌」や「昭和維新の歌」を、大声で歌ったものでした。
 私が留学を終え渡米する前に東京芝のホテルロビーで再会をした時、彼は「自衛隊に入ってよかったのは、三島由起夫の自決事件を自衛隊員として経験したことだ。俺はいま竹田に帰って政治運動をしている」と話してました。風のたよりでは沖縄問題に取り組んだようでした。
 それから長い無沙汰となり、久しぶりに届いた知らせは肝臓がん末期で入院中とのことでした。お見舞い行く約束し、彼もそれを楽しみにしていたようですが、間に合う事なく仏前に合掌となってしまいました。享年55歳。戦後レジーム体制と戦った戦死者でもありました。
 彼の御霊にも靖国神社に行けば会えるような気がして、11月9日に靖国を参拝してきました。

走馬看花

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IMG_0588.jpeg 中国の諺に「走馬看花」「騎馬看花」(馬で走りながら花を看る)とありますが、馬に乗って2週間、東京京都上海ー札幌ー群馬東京と回ってきました。
 こう激しく移動しますと、どこに行き、何を看たのか、あまり印象に残らず、いったい何をしたのか整理がつかないものです。朝目が覚めた時にベットの中で、先ず「自分は今どこにいるのか」と考えてしまう。さらに私の場合は、夢の言葉が一日遅れで、英語、中国語、日本語になるので、頭の適応にまごついてしまうわけです。
 そのうえに今回もよく飲んでしまった。同行したメキシコ人お好みの「オールド・パー(Old Parr)」ブレンデッド・ウイスキーを、すっかり気に入ってしまい、各地で深飲みしてしまった。私もそろそろこの味がわかるオールド・パー(惚け)なのかと実感です。
 金閣寺の入口に「五用心」、「酒におぼれてなりはいを怠ることなかるべし」との立て看板が、眩しく二重見えてきて
m(_ _)m、 反省しながらもホテルのバーでまた飲んでしまった。五用心あれです。 
 アメリカに戻る10日の早朝、宿酔い気分で荷物を整理している時にドーンという地震の揺れを感じました。9階に宿泊していましたが、「あ、これが地震の揺れか、震度4くらいなのかな」と、少しの動揺もなく自然にクンバハカの体勢に入っていた自分を発見しました。やはりクンバハカはいいものです。
 しかし、この地震の揺れで電車が大幅に遅れて、出国手続きをすますとゲートに直行でした。成田を朝11時10分に離陸し、カナダの上空でオーロラを見て、同日の朝9時10分にニューヨクに到着ですから、時差とはおかしなものです。戻りますと当地は冬時間で、すっかり初冬の空気となっていました。この肌寒さは心地よく身をひきしめ、当地に帰ってきたことを感じさせてくれます。
 2週間ほど当地で翼を休め初冬の風景を楽しんだら、バージョンを南米に切り換えペルーの初夏へ飛んで行く予定でいます。
 天上の城マチュピチュと天空からナスカの地上絵を観てきます。今度は時差でなく季差となり「騎ペガソス観花」です。

  ふけ行く秋の夜 旅の空の〜♪ 

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