2014年6月アーカイブ

思えば遠くへ来たもんだ

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51KX4zMgahL._SL500_AA300_.jpg よくある質問に「あの時あなたはどこに」というのがありますが、その「あの時あなたは」を書いてみます。
 私は三島が自決する1970年の夏、池袋の西武デパートにつながる駐車場との狭い通路で、一度だけ三島由紀夫とすれ違っています。三島はスポーツジムの帰りにデパートに寄ったのか、ポロシャツ姿に右手のスポーツバックを肩にして胸を張り肩をゆすりながら歩いてきました。台湾留学をひかえていた私は、西武デパートでガードマンのアルバイトをしてまして、さえない鼠色の警備服を着ていました。三島から(盾の会のユニホームと比べセンスの無い制服だな)と一瞥されました。私もその目を受け、えらく意気がった人だなと印象を持ちました。
「袖ふり合うも他生の縁」、三島を見たと言っても、ただそれだけのことです。
 同年の10月25日、私は日本を離れて台湾へ向かいました。自衛隊に入隊している剣道二段の同志から餞別にと立派な木刀もらいました。私は同志の意とする事を読んで、彼に向かい「今の日本で足のある思想家は三島しかいない。これから三島の行動に注意して行こう」と言い残して海を渡りました。私はよく冗談で自分は戦後の思想難民だと言ってますが、日本に徴兵制がないので留学を徴兵と考えていました。
 1ヶ月後の11月25日、研究所宿舎にいた私に、同学から三島が自衛隊本部で自決した速報を受けました。当初、俄に信じられず三島得意のパフォーマンスだろうと思いました。が、じきに事実だとわかり、「三島はやはり本気だったのか」と、電撃的な衝撃を受けました。そしてそのまま木刀を前にして自分の部屋に籠ってしまいました。もし一大事ならば木刀を持って駆けつけようと決めていました。
 私が毎日宿舎でこの木刀で素振りをしていたからか、あるいはどこかのお達しか、私は要注意人物として言動を1週間ほど監視されました。私は当研究所で右翼活動家に見られていたことを初めて知りました。
 事件から1年半ほどして「盾の会」の一隊員が、羽織袴姿で私の宿舎に訪ねてくれました。彼とは初対面でしたが、さすが三島が選ぶだけあり容姿端麗、背が高くガッチリとした男前でした。私は彼から当時の状況を聴いたわけですが、彼の羽織袴姿が目立っため、この時もまた宿舎で監視されることになりました。
 私は彼らの志を整理して三島事件を一段落させました。そしてしばらくはおとなしく冬ごもりを決め込み、現代中国研究に専念し、3年間の研究生活に没頭しました。


 「先ず祝え 梅を心に 冬ごもり」(芭蕉)
 それ以来、
未だに冬ごもったままになっています。今でもお国に一大事があれば一兵卒として駆けつける覚悟で海外生活を続けていますが、「思えば遠くへ来たもんだ〜♪」です。皮肉とでも言うのか、若き日に「近代の超克」を夢見て、文化的な反米だった私が、アメリカに長く住みつき、今では白髪が目立ちはじめ、盾の会の彼は食品商売で繁盛し、かつての同志は早逝し、木刀は錆びついたままになっています。
 何事もなき平安を感謝して喜ぶべきなのでしょうが、「飛ばない豚はただの豚」となっています。もしかするとオリにいる「千と千尋の神隠し」されたお父さん豚かも知れません。まぁ豚でもいいか。ひさしぶりに台湾海峡の上空を飛んで来るとします。
 7月までご無沙汰です。みなさんもお元気で。

戦後の原罪意識を超えて

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517KsCQ1jPL._SL500_AA300_.jpg 敗戦後の日本は、東京裁判で戦犯となり「明日への遺言」から始まりました。
 特攻隊は、お国の為、家族の為、愛する人の為に「後ニ続ク者在ル信ジ」て散華して逝ったのですから、戦後の我々は「後に続く者」であらねばなりませんでした。しかし、戦後はその裏切りから出発しました。敗戦の反動としての自虐史観、「特攻隊は犬死にだ」、「国民は騙されたのだ」、「日本がすべて悪かった」、「過ちは繰り返しませぬから」という、日本も戦死者も犬死に扱いの風潮がみなぎりました。
 そして、多くの国民やマスコミは、己の裏切りという原罪意識を隠すために、つねに日本を否定し続け、四つの島に閉じこもり虚無の意思を呈して行きました。「敵が攻めて来たら逃げる」という卑怯で甘ったれた「一国平和主義」の偽善社会に陥り、目標も意思もなくただアメリカの顔色をうかがいながら、従順にぐずぐずと追従して行くだけのひよわな国になりました。
 三島由紀夫はこんな偽善に満ちた風潮に耐えられず原罪意識の十字架を背負って逝きました。
しかし、日本は裏切りの原罪意識さえも風化させて「昭和」は歴史になりました。
 日本が四つの島に閉じこもっている間に、国際社会はソ連邦の崩壊で冷戦二極構造が終焉し、世界はアメリカ一国覇権構造となりました。がそれもリーマン・ショックの金融破綻を契機に一極覇権構造に綻びが生じ、世界各国に自国本位の閉ざされたナショナリズムが台頭し
多極化を呈してきました。極東アジアにおける緊張関係もこの線上に在ります。アメリカも国防予算の激減で「無い袖はふれず」世界の警察官たることを放棄して本国に引き上げつつあります。
 こうした激変した多極化する世界のなかで、日本はこれまでの戦後体制では対応しきれなくなりました。が、幸いな事にもここにきて戦後の原罪意識をもたない若い世代が、このままでは日本は滅びてしまうという危機を直感し、鬱積した戦後レジームを超えて積極的に世界の文明にかかわろうとする開かれたナショナリズムが芽生えてきました。本来の日本を取り戻そうとする平成維新の意識に目醒めてきました。民族に潜在するDNAのなせる仕業なのか、無意識にも「後ニ続ク者」として立ち上がってきました。

 我々も彼らの明日に、三島由紀夫が祈望した「美しい日本」のルネサンスを夢見たく思う。
  

  「山路きて なにやらゆかし すみれ草」(芭蕉)

三島由紀夫と若者たち

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9784904827109.jpg 集団的自衛権行使をめぐり憲法改正がようやく国会のタイムテーブルに置かれました。これは戦後レジームからの脱却の一歩になることでしょう。そんな折だからか急に邦画「11.25 三島由紀夫と若者たち」と、藤田まこと主演の「明日への遺言」を再観賞する気になりました。
 
敗戦国の日本を「永遠に自主防衛能力(軍隊や核)を持たせず保護国にしておく」ことがアメリカ占領軍の国策でした。日本を弱体化する方針に沿って日本国憲法が施行されてから67年たった現在まで続いています。日本は占領デモクラシーのもとで自虐史観を徹底的に叩きこまれて去勢文化を形成してゆき、戦後レジームの虚妄の揺りかごのなかで日本の指導者、保守も革新も惰眠を貪り続いてきました。
 日本は敗戦国の宿命として、「耐え難きを耐え忍びがたきを忍んで」これを苦受してきました。しかし、このままでは日本は滅びてしまう、もう我慢ならぬと、1970年11月25日に三島由紀夫は文化防衛論と日本刀を掲げ、最後の武士として「憲法改正」、「自衛隊を国軍に」と叫びながら、戦後レジームの分厚い壁に立ち向かい討死にしました。
「(武士)美学とはきわまるところ首一つ」(東野大八)、自衛隊の総監室で武士道の儀式とうり実に見事な切腹でした。
 あの衝撃から44年の歳月が流れました。三島の遺言の通り、「こ
のまま行ったら日本は滅びてしまう、その代りに無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない経済的大国が極東の一角に残るであろう」と予言を残しました。
 三島はやはり天才でして、今の日本はその様になっています。だが、日本文化はそれほど「ひよわな花」ではなく、三島がいみじくも言った自分自らを歴史の化身とし、歴史の精華を体現し、伝統文化の美的形式を体現した者の行動原理は、「後ニ続ク者在ルヲ信ズル」の思想まで高められます。その日本文化の水脈を通しながら細々とではありますが、今日までしぶとく生き残っています。民族がもつDANなのでしょう。
 長い日本史のなかでたかだか戦後70年などなんのそので、ここにきてやっと戦争を知らない世代から戦後レジームを越えて行こうという気運が高まってきています。安倍政権や作家の百田尚樹らの主張する、「戦後レジームからの脱却」「憲法改正」や「集団的自衛権の容認」、「美しい国の創造」も、こうしたうねりの延長線上で捉えてゆくべきものと考えます。
 本来ですと戦後レジームからの脱却は、我々団塊の世代がやるべき課題でしたが、たいへん残念なことに、気がついたら我々も自虐史観のもとで育った優等生で、戦後レジームの中にどっぷり漬かって生きていました。あの民主党のリーダーたちに見られた戦後教育の体現者そのものでした。我々も戦後レジームの中心にいて、三島の日本刀の剣先は我々にも向かっていました。しかし、己を否定して創り代えることは至難なことです。我々にできることは戦後レジームから脱却の邪魔をせず手助けし、新生日本を次の世代に委ねる事です。
 今から思えば我々団塊世代は、1970年11月の三島由起夫が自決した時点ですでに終決していました。三島と殉死した森田必勝がこの世代を象徴しています。その後は「いちご白書」でして、何事も起こることなく「されど我らが日々」となりました。

  「この道は 行く人なしに 秋の暮れ」(芭蕉)

                 


台南市

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wor14061419540036-p1.jpg 年に一、二回ほど台湾の台南に里帰りしているのですが、行くたびに日本統治時代の建物が消えて行ってます。仕方ないことですが、やはり一抹の寂しさがあります。
 台南の街中にかつて大きな百貨店だった古い6階建てのビルがあり、最上に「林」のマークが残っていました。このビルもいつか解体されるものと思っていました。

 14日付けMSN産経ニュースのサイトに、見覚えのあるビルが掲載されているので目に止まりました(上の写真)。記事には「
1932年に台湾南部・台南市で山口県出身の故・林方一氏が開業した「ハヤシ百貨店」が14日地元ゆかりの雑貨などを扱う「林百貨」として再び開業した。敗戦とともに廃業していたが、建物保存に取り組んできた市がこのほど約3年がかりで修復。経営に当たる地元企業はイベントスペースも設け、文化・流行の情報発信地として集客を目指す。同日、林氏の次男の妻千恵子さん(東京在住)や頼清徳台南市長らが出席して式典を開き開店当時の『昭和モダン』を意識したファッションの市民らが周辺をパレードした」とありました。
 あのビルが修復されて再び「ハヤシ百貨」として開業したとは、なんとも心暖まるユースです。これが私の好きな台湾でして、この国を大切にしたく思う所以です。次回は「ハヤシ百貨店」に行って買い物してきます。
 これとほぼ当日に、中国当局が「台湾の将来は全中国人が決めるべきだ」と暴言しました。この夜郎自大に台湾側が反発を強め、親中の馬英九総統さえ「中華民国(台湾)は独立国。台湾の前途は2300万の全台湾人が決める」と、声明を発表し反発を強めています。
 中国は台湾の略奪(解放)を彼岸にしてまして、徐々にその実績を積んできています。もし、台湾が落ちればついで尖閣諸島も沖縄も中国に呑み込まれるでしょう。「台湾を制するものは、西太平洋を制す」で、台湾海峡のシーレーンは日本の死活の問題でもあります。中国は言うだけ番長のオバマの弱腰外交があと2年続く間に略奪したいのでしょう。
 極東アジアがこうした緊張関係にあるのに、日本はいまだに集団的自衛権の神学論争です。このままでは台湾も沖縄も危ない。日本よしっかりせんかい!

水を飲め!

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IMG_3008.jpeg 近くのスーパーで子供が「水を飲め!」"WATAAH !"と叫んでいるペットボトルを見つけました。ボトルの裏に子供向けの説明が書いてあります; 
「君の頭脳は75%が水。君の心臓は75%が水。君の筋肉は75%が水なんだ。この意味わかるかな。君は足の生えたスイミング・プールのようなものさ。
だから『水を飲め!WATAAH !"』そして君の体を天然水で満たし超元気に過ごそう!」
 なんか今の私めを描いた様なイラストなので、これには笑った。胎児の約90%、新生児の75%が水分、子供で70%水が占めていますから、健康のためにジャンク・ドリンクでなく真水を補給するようにすすめています。ボトルも子供が握りやすいように細長くなっています。

 これは子供向けに大切な啓蒙となりますが、この子供たちが成人する頃には、世界中が水不足で水の争奪戦が加熱していることと思います。20世紀が「石油の世紀」とすれば、21世紀は「水の世紀」と言われています。昔から「水を制する者が国を制す」で、これからはますますそれが顕著になってきます。すでに日本の水源も外国企業から狙われています。
 人口大国インドや中国は慢性的な水不足が深刻化しています。中国では各地の地下水が汚染されて飲料水として使えなくなっています。このまま深刻な環境汚染で内部崩壊してゆくのではないかと囁かれていますから、近い将来に生き残りをかけてヒマラヤの水資源を求めブータンやネパールに南下してくることが予測されます(北朝鮮はすでにそうなりつつあります)。
 そうなる前に、他国に先駆けて日本のODA援助と水販売商社がブータンやネパールと国家プロジェクトを組んで、なんとか天然水の生産と陸路のコストを解決させて、水ビジネスの採算が取れるよう手助けをしたいものです。ネパールからは雪解け「ヒマラヤ天然水」を、ブータンからは「幸福の天然水」というネーミングまで考えました。私はいま飲水の補充にヒマラヤの天然岩塩を併用しています。 

 ブータンはインドへ水力発電の供給が国家収入の大きな比重を占めています。将来は電力だけでなく世界の人々に「幸福の天然水」の供給です。たいした産業もない最貧国ブータンに自然力を生かした水ビジネスを育成したいものです。
DSCN2630.jpeg      (ブータン、ヒマラヤからの父なる川と母なる川の合流点)

アジアの未来

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51xRDjs98xL._SL500_AA300_.jpg 今頃になって「日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ」、安倍晋三/百田尚樹対談を読みました。対談は月刊誌ですでに読んでいたので買うまでもないと思っていましたが、先日日本から来たビジネスマンとランチの会食時、ここ数年のあいだ下向きがちだった彼らが元気を取り戻してきているのに気がつき、日本に意識変革が起きていると直感し、やはり読んでみることにしました。
 安倍首相と百田さん同世代同志の対談集も読み応えがありましたが、ここに収録されています「第5章、安倍総理大臣、熱き想いを語る」の三つの講演集が素晴らしい内容でした。演題「批評するだけの人間に、価値はない」、アジアの未来「日本よ、世界の真ん中で、咲き誇れ」、「成長への新たな朝を迎えつつある日本経済」ですが、これだけでこの著書を出版した価値ありです(本屋さんで立ち読みお薦めです)。原稿の素材はコピーライターが書いたのだと思いますが、この意識と格調の高さは安倍首相本人のものと思います。
 オバマ大統領の訪日を控え、ケネディー大使は安倍首相と直接面談をした後、首相に対するこれまでの認識を一変させ、その報告がオバマの訪日外交に影響あたえたといいます。おそらくケネディー大使は、安倍首相が秘めているお国の為に死をも覚悟した燃える熱き想いを感じてのことだと推測します。日本も久しぶりにいいリーダーを得ました。このまま2018年まで政権を維持して、美しき瑞穂の国を取り戻してもらいたいものです。

 世の中は 右も左もなかりけり 真中一筋 誠一本(天風)

 そんな事でして、6月は高度成長を続けるフィリピンへ視察に行く事にしました。

お酒と散歩を解禁

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14.jpeg 6月に入りお酒と公園の散歩を解禁しました。

 お酒の解禁祝いはニューヨークへ出かけ、ミシュラン印の創作寿司を食べながら、群馬の純米大吟醸「水芭蕉」を堪能。2ヶ月ぶりのお酒が喉をジ〜ンと潤し、お腹の底までしみわたり美味さにほろ酔い。このところ水ばかり飲んでいたので、このままお酒を飲めなくなるのではと心配でしたが、まだまだ二合くらいは楽に行けそうです。最高に幸せ!
 翌日は近くの公園一周3200メートルを、くしゃみ一つせずに快適に散歩しました。新緑のなかを今シーズン初めての散歩でしたので何を見ても新鮮でした。青い空、白い雲、若葉に鳥のさえずり、数頭の野性の鹿に、兎とリス、お金では買えない当地の豊かさにリッチなスキップ気分でした。冬眠していた脚にもやっと春が来ました。
 今日は日本からビジネスマンが4人きて、イタリアン・レストランで(テキサス産の)神戸和牛ハンバーガーの会食でした。日本の株価が上がり景気の先行きに明るい兆しが見えたからか、または失われた20年の惰眠から目覚めて緊張感が戻って来たからか、以前より明るく元気になったいい感じでした。
 さて、私もただの豚にならずに、そろそろ飛び立つ準備を始めよう。

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