2011年7月アーカイブ

深山幽谷(ブータン6)

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DSCN2842.JPG ブータン旅行で受けた衝撃から、仏教国ブータンを熱く語り過ぎてしまいましたが、今日で一段落としたい。
 今回のブータン旅行で、飛行場の出迎えから見送りまでの全旅程を、アレンジして付き添ってくれたガイドとドライバーがいなければここまで充実した旅行にならなかったと思う。彼ら二人に感謝している。
 誠実そうな若い好青年は、「ゴー」という日本の着物に似た民族服で出迎えてくれました。顔立ちも日本人に似ており親しみを覚える。たぶん遺伝子に共通するものがあるのかも知れない。ガイドは流暢な英語で「私の名前はゲザンです。こちらのドライバーはテザンです。ブータンには苗字がないので、ゲザンだけです」と、自己紹介した。え、苗字がないとは日本の江戸時代の農民と同じではないかと、私のブータンへの驚きと好感はここから始まりました。
 実はもう一匹、タイガーという野良犬のガイドがいました。
 タクツァン僧院(虎のねぐら)を巡礼し、なんとも言えない清々しい心持ちで下山を始めました。あまりの気持ちのよさに、この実感をしばらく一人で静かに噛みしめていたくなり、ガイドにお願いし家族はゲザンと一緒に先に「下山」してもらうことにしました。私は深い山の中を一人でゆっくりゆっくり歩き始めました。深山幽谷に我一人です。
 しばらくすると一匹の野良犬が、私とすれ違がった少し先で立ち止まりました。たぶんそこがこの野良犬の縄張りの境界なのだろう。私は構わず歩き続けると、今度は私を追い抜いた先で立ち止まりました。あきらかに私がそこを通り過ぎるのを待っているのですが、横を通っても全く知らぬふりをしています。
私がぶつぶつ独り言をいいながら、とぼとぼと歩いていたものだから、山道に迷ったとでも思っているのだろう。何度か抜いたり、抜かれたりをくりを返して、このよそ者を見張りながら道案内をしてくれているようでした。
 そこで、その野良犬を「タイガー」と呼びかけて話かけてみました。タイガーの山道案内は1時間半ほどでしたが、私の心が純化していたためか何かが通じあったようでした。相変わらず視線を合わせませんが、私のすぐ横で一緒に歩くようになり、私をレストハウスまで案内した後どこかへ行ってしまいました。
 私はレストハウスで紅茶をもらい、30分ほど休憩して再び山道を歩き始めると、タイガーはその道先に伏せていて、私を見るなりすっと立ち上がり、また一緒に歩きはじめました。
 しばらく歩くと、たぶんそこがタイガーの縄張りの境界なのだと思いますが、立ち止またまま初めて私と視線を合わせました。私が「ありがとう」と言って、さようならすると、タイガーはその場所を動かずに、私が遠くになるまで見送ってくれました。ブータンで野良犬と視線を合わせたのはこの時が最初で最後でした。うしろ髪をひかれてタイガーにカメラを向けると、逃げもせずにこちらを見据えたままでした。

 仏教国で野良犬との一期一会、来世はタイガーが人なのか、はたまた私が野良犬なのか、、
 観覧車(マニ車)回れよ回れ 想い出は 
     君には一日(ひとひ) 我には一生(ひとよ)
                     (栗本京子作)
 たかがこれだけの事でして、とりたててブログに書くような事でもないのですが、旅の終りにタイガーの写真をブログに残しておきたく、これを結びとしました。

聖地巡礼(ブータン5)

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IMG_0503.JPG ブータンの人はチベット仏教から伝わった密教を信仰しています。
 8世紀後半にインドで修行した密教行者パドマサンババを開祖にして布教されました。その開祖が瞑想した聖地タクツァン僧院は、ブータン人の巡礼の地になっています。この僧院はチベット仏教圏の中でも指折りの聖地とされています。

 バドマサンババは虎の背中に乗って宙を飛び、この標高3100メートルの岩壁に舞い降りてきたと言い伝えられていることから、タクツァン僧院「虎のねぐら」と呼ばれています。
 虎の背中に乗ってこの地に飛んで来たとは信じられませんが、そのようにでも想像しないと、なぜあの500メートルほど垂直に切り立った絶壁の上に僧院を鎮座できたのか考えられません。麓から見上げると山道がなく近づくことのできない不思議な仙境が広がっています。虎が空を飛ぶとは思いませんが、開祖はおそらく虎の背に乗ってこの山道を登り降りしたことは容易に想像がつきます。開祖にとって虎など馬同然の乗り物だったと思う。

 通常、外国人旅行者は中腹にある展望台より先に行く事ができないので、事前に僧院まで巡礼する許可を取り付けて行きました。しかし、登る心の準備はしていたものの、うす雲のかかった僧院を下から眺めると、果たしてあそこまで辿り着けるのか、はなはだ心もとなくなってしまった。虎の背はないものか、馬に乗ろうかと考えながら登り始めました。
 杖をつき2時間ほど登り2800メートルのレストハウスで精進ランチをとり、さらに800段といわれる石段を登ること2時間、石段の左手に天から水が流れ落ちてくるような滝が見えてきました。おそらく密教の行者がこの滝のほとりで瞑想に入るのだろうと思いながら、見上げた視線をそのまま右へスライドしてゆくと、細く長く続く石段の上に僧院が現れました。
 この日の午後ここまでやってきた旅行者は、我々家族3人だけでした。僧院の入り口で全ての手荷物を預け、警察のボディーチェックを受けてから、僧侶に連れられて中へ入りました。僧院の三つの部屋には仏像を始めパドマサンババとその八変化像が祀られてあり、仏像は正面の窓を通して緑の山々を遠望していました。
 僧侶の許可を得て三つの部屋の向いにある僧院に入ると、祭壇を前にして正面に大僧侶が座し、若い僧侶が向こう側に三列、こちら側に三列、向き合って並んで座つており、数名の僧侶がほら貝と太鼓をもって音楽を奏で、それに合わせて一斉に読経を始めました。
 この仙境の聖地にやっとの思いで辿り着いたら、私たちを待ち受けてくれていたかのように密教の読経をしてくださった。私たちだけでこの神秘を体験できるとはなんと恵まれた事か、私はその荘厳の雰囲気に吸い込まれるように、打坐の姿勢をとり手に印を組んで、しばし恍惚感に酔いしれま
した。なんとも有り難いことに、心が浄化され、この世に生きていながらにして、「六道輪廻」の「天上界」を見させてもらいました。
 そう、地上におけるこの「天上界」の実現こそが、ブータン人が究極に追い求めている理想郷であり、仏教国ブータンが世界に向けて発信すべき「国民総幸福」なのだと思う。
 
世界の遺産でなく、人類の生きた宝です。この発信はキリスト教における「天に行われんごとく地にも行われんことを」という祈りとも響振してくるものです。
 こうした桃源郷がアジアの高峰に現存していることは、誠に有り難いことです。日本が近代化の過程で失ってきてしまった精神文化がまだ現存していました。人に宿命があるように、国にも宿命があり、日本は地政学的にもブータンになれないし、日本は日本の道を行けばいい。しかし、ブータンの精神文化は学ぶことができるはずです。
 ブータン旅行を終えたいま、天上から流れくる滝の音と、若い僧侶たちの地鳴りのような読経の余韻のなかで、
心が純化し満たされた平安を感じています。


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(左下はこれから登り始めるブロガー)


夜叉が舞う(ブータン4)

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DSCN2684.JPG(農家の壁に描かれている男根と昼寝する二匹の野良犬) 
 ブータンは野生動物の天国といわれているが、それにしても野良犬がやたらと多いのに驚かされる。人里どこに行っても数十匹はすぐに目につく。野良犬はけして旅人と視線を合せることなく、まったく素知らぬようにして無視をきめこんでいます。悩み多き人様の化身でなく、お犬様に転生したことに満ち足りているのかも知れない。
 野良犬たちは夜行性なのか、昼間は道端に死んだように寝ていて、夜になると活動を始めます。犬仲間の縄張り争いのケンカだというが、夜半にすさまじい鳴き声で吠えるので、何度も目が醒めてしまう。

 ヒマラヤ秘境の山間に住む農家にはごく最近まで電気がなく、暗夜になると猛獣が出没し、不気味な夜叉たち飛びかい、それらを追い払って農民を守るのが、犬たちの本来の野良仕事だったのだろう。農民と野良犬との共存はその名残りかと思う。
 8世紀後半にチベット仏教がブータンにもたらせるまで、農村は夜叉を信じるアニミズム、呪術的な素朴な宗教が存在していました。その信仰形態が仏教と習合した今日でも農民の中に息づいています。多くの農家の壁に描かれた巨大な男根の絵の露骨さに圧倒されてしまった。男根信仰は、魔除け、子孫繁栄、豊穣を祈願する、農耕民族に共通してみられるもので日本にもあります。しかし、こう堂々と露骨に描かれると、旅行カイドも何の説明しないまま黙って素通りし、私らも気づかぬふりしながら、かろうじて盗撮。たしかにあの絵を見れば元気が湧いてきます。ヒマラヤの秘境に生まれしたたかに活き抜いてきた、ブータン人の内に秘めた強さをみた気がします。
 こうした農民の土着信仰は、8世紀になってチベット仏教に調伏されてゆきました。
男根は男女が抱擁して合体した歓喜仏に、野良犬に代わり夜叉を追い払う守護神として忿怒相に改宗されてブータン仏教へと定着して行きました。
 さて、いよいよ明日は今回の最終目的地、チベット仏教をはじめてブータンに広めた、密教修行者パドマサンババ(蓮の花から生まれた者)のタクッアン僧院へ向かうことになる。

輪廻転生(ブータン3)

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DSCN2671.JPG(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道輪廻)
 我々は歴史の流れを、過去から現在そして未来へと、一直線に流れると認識しています。そこに進化という進歩の概念がでてきます。しかし、仏教は時の流れを、時計の流れる方向に円環として捉えています。そこに転生という循環思考がでてきます。世界観に直線と円環の大きな違いがあります。
 ブータン人の世界観というか心の底に流れているものは「輪廻転生」という循環思考です。ブータンを輪廻転生からみて行きますとよく理解できます。
 ブータンでは、人が亡くなると輪廻転生して、また姿を変えて甦ってくると信じています。しかし、人間に甦ってくるとは限らず、馬や牛や犬に生まれてくるかも知れませんし、飛んでいる虫や鳥かも知れないし、川に泳ぐ魚かも知れないわけです。あるいは山の木となり、花となって甦るかわからないわけです。ブータンの人は目に映るすべてが、ご先祖の化身と信じています。
 ですからブータンの人は、生き物を殺しません。蟻も蚊もハイさえ叩いて殺しません(ブ〜ンブ〜ンと飛び回ってうるさいので「お前は俺の祖先か」と聞くと「ハイ」だそうです)。
 祖先は輪廻転生してまた生まれ変ってくることから、祖先供養をしませんし、花を切る事もしませんので花屋さんも存在しません。山々にいろんな動物が棲息していても狩りをしませんし、木を切るのにも許可が要ります。ヒマラヤ山脈から流れでる豊富な川に大きなマスやアユがいても、釣り人一人いません。また、祖先の生まれ変わりの野良犬の多さにも驚かされます。ついでにですが、ブータンの道に一つも信号機がありません。
 生きている、活かされているすべてが輪廻転生した人間かも知れず、やがてまた転生して人間に甦るかも知れないわけです。仏教の教えである「六道輪廻」、天上、人間、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄の六つの世界をくり返し転生していると信じています。そして、その繰り返す苦の世界からの解脱を理想としています。
 ですから輪廻転生して有り難く人間として生まれてきたこと自体、もうそれだけですでに「ハピネス(幸福)」なのですから、外国メデアの「あなたは今幸せですか」のインタビューは、ブータン人を理解していない愚問になります。しかも、現世で幸福に過ごさねば、来世で何に生まれ変わるかわかりませんので、当然「ハッピー」と答えるのに決まっています。現世でよい行いをして功徳をつみ、よりよく生きることで、来世でもよりよい境遇に生まれ変わることができるという「善因善果」の教を素朴に信じています。
 私たちも仏教の教えがベースにありますので、漠然としてでも輪廻転生を理解できます。また日本でも多くの人が、なんの抵抗なく輪廻転生の「前世」を口にしています。私の身近な知人にもシーク派のインド人で徹底した菜食主義がいまして、ハエも殺しませんし、地中の根になる直物を一切食べません。ですから「輪廻転生」や「不殺生」は知識としてありそれほど驚くことでありません。
 しかし、この世の現実に、21世紀の今日に至っても、仏教を国教として国民がこうした信仰の世界の中で生活していることに、大きな衝撃を受けました。にわかに信じられませんでした。
特に「不殺生」という戒めが、実際こうして活きてることは衝撃でした。生活の中に仏教信仰が生きているというか、信仰の中に生活があると言うのか、生活即仏教です。とにかく仏教が呼吸しているのです。まさに桃源郷の由縁です。
DSCN2734.JPG   首都ティンプーのメモリアル・チョルテン(仏塔)の周囲は
    朝から晩まで祈りながら巡り歩く人たちが絶えることがない。



国民総幸福量(ブータン2)

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DSCN2674.JPG(時輪の宇宙図)
 国民総幸福量(GNH)を提唱するブータンで、外国のメディアが「あなたは幸せですか」とインタビューすると、90%の国民が「幸福です」と答えるといいます。でもこれは幸福発信地のお国柄として、外交辞令のご挨拶程度のものだろうと思う。
 だいいち彼らは幸福という概念を知っているのだろうか? 幸福という意識を持っているのだろうか? 本音の部分でそんな面倒な理屈はどうでもいいと思ってないだろうか?
 ブータンを近代の物差しでみれば、世界でも最貧国グループに入り、ヒマラヤ秘境の山肌にはいつくばるように住み、識字率も約50%、平均寿命も63歳と短いものです。確かに子供は純朴で可愛いですが、黒く焼けた老人の顏の皺には生活の苦労が刻まれています。彼らはそれを苦労と思っていないかも知れないが、私から見るととても幸せな顏には思えない。私はみんな貧しければ心穏やかに暮らせるという事に同意しません。それは今日の日本経済発展を否定することにもつながるからです。それに私はこの地に一生を過ごすことを幸福とは思わない。
 ブータンが世界人類に向けた「国民総幸福量」の提唱は、近代化の経済レースには参加しないが、幸福レースに参加するという意思表示となります。そのこと自体には意義を認めるが、結局それは幸福量という近代の物差しでしかない。あたかもサッカー・ワールドカップの決勝戦と同時並行して行われる、世界ランキング202位のブータン・チームの世界最下位決定戦のようなものです。彼らは幸福量という物差しをもって国際社会に参加したことになります。幸福量とは政治思想の方便であっても、仏教思想の方便ではないわけです。ここに仏教王国ブータンのジレンマと落とし穴があるかと思います。
 所詮、幸福とは主観的に感じるものでして、他国と比べるものでありません。もし、幸福を量で測るとなると他国との比較が始まり、そこに格差の不満も生じてきます。幸福の条件が目的化したら、そこから金銭欲も、携帯電話、テレビ、車へと欲もでてきます。

 かつて日本が西洋列強から自国の独立を守るために、近代化に武装して西洋近代に対峙したように、いまブータンは「ハピネス(幸福)」という近代思想で武装して、近代化に対峙しています。本来のブータンは「ハピネス」という概念とは違った境地に在るのですが、世界に向けて「ハピネス」という、借り物の概念をもってしか自国の精神を語れないところに、ブータンのジレンマがあります。これではブータンが可哀想になってきます。
 ブータンから学ぶ精神は、世俗で言い古された「ハピネス」などという薄っぺらな軽いものでなく、もっともっと奥深いものだと思います。では、如何なる言葉でそれを表現したらよいのか、私はブータンの旅を続けながら、そして今も旅の余韻の中でその言葉を、ず〜とさがし続けているのですが、いまだに良い表現が見つからずにいます。(続)

やさしい空気(ブータン1)

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DSCN2541.JPG(パロ空港のターミナル)
 7月11日、午前10時15分にブータン唯一のパロ空港に着陸。 タラップを降りて2300メートルの高地に第一歩を踏みしめる。

 頭上近くに青い空、まわりは緑の山々、ブータン様式のターミナル、心地よい風、澄んだやさしい空気が、私を迎えてくれた。今までに感じたこことのない、やさしい空気、これがブータンなのだと実感。
 ブータンの旅は「行く」のでなく「呼ばれる」と言うらしいが、私はブータンに呼ばれたようだ。

 ブータンは、世界各国が追い求めている経済指数で国のレベルを測る「国民総生産量」GDPGross Domestic Product)を、基準としないで、「国民総幸福量」GNHGross National Happiness)という幸福指数を、国家の方針にしたユニークな小国です。
 これまでに私が遍歴した世界各国のすべては、近代化の名のもとに経済成長を目標にして、先進国に「追いつき追い越せ」の一直線上に在りました。経済が成長すれば、国は繁栄し、国民も幸福になると信じてきたわけで、日本はその線上で優等生になっています。
 ですから、この経済成長という進歩の物差しを持参して世界の国々を旅行すれば、その国のおかれている位置が測れ、「この道はいつか来た道」、だいたいの事柄が想定内でして、何を見ても驚かなくなっています。この物差しは海外旅行用にとても便利なものです。
 しかし、ブータンはこの物差しに疑問を投げかけています。GDPは物質文化の指数であり経済発展が必ずしも国民の幸福の指標にはならない。ブータンはGNHという目に見えない精神文化の指標を追い求めると発信しています。
 日本は経済発展に行き詰まり、政治も混乱を極め、社会閉塞の中でここ数十年ほぼ毎年3万人を越える自殺者をだしています。そこに追い打ちをかけるかの様に東日本大震災が襲いかかりました。日本はこれから先、何を心の寄りどころに活きて行けばよいのかが緊急課題になっています。経済成長が国民の幸福と直結しないという、秘境ブータンからの発信を受け、ではいったい「幸福とはなにか」、これが私のブータン行きの大きなテーマでした。

 私は先ずこの近代化という手持ちの物差しで、ブータンを見て行くことにしました。それは明治初期に西洋人が見た日本への視線です。近代化の過程で日本が失った「逝きし世の面影」(渡辺京二著)を、ブータンに見たく思いました。そして訪問する前からいくつかの感想を用意していました。
 「国は貧しい。しかし幸せそうだ」、「人びとは幸福で満足そう」、「貧乏人は存在するが、貧困は存在しない」、「金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。ほんもの平等精神、われわれはみな同じ人間だと心底から信じる心が、社会の隅々まで浸透している」、「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ」、「かつて人の手によって乱されたことなない天外の美」、「新しい時代が始まる。あえて問う。それが真の幸福となるのだろうか」、さらにフランス印象派の画家ゴッホの「みずから花のように自然の中に生きている。こんな素朴な精神がわれわれに教えるものこそ、真の宗教ではないだろうか」等々、、
 こうした西洋人が見た明治初期の日本への感想を、そのままブータンに用意していました。しかし、秘境ブータン王国に、私が用意していたこれらの感想をはるかに越えた衝撃を受けました。それはカルチャー・ショックを越えた、生体系を揺さぶるファンダメンタル・ショックと言ったものでした。
 これまで感じたことのない、慈しみの「やさしい空気」が、かえって私に衝撃を与えたわけです。ブータン滞在2日目から「幸福」という単語が色あせて、バター臭くなってきました。「幸福」の語彙はキリスト教の聖書によくでてきますが、仏教用語には無いのではないか、GNH(国民総幸福量)の概念もまた近代の物差しではないかという思いが、ふつふつと湧き上がってきました。    (続)

三日月帯のハブ

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IMG_0563.JPG    (バンコクからブータンへ)       
                          
 私は18歳から海外旅行を続けていますので、飛行機から降りて入国するまでの間に、訪問国の状況や意識水準を直感で捉えることができます。第一印象のようなものですが、知らぬ間に研ぎすまされた直感でして、だいたいが間違っていません。
 さらに飛行場で両替して、その国の紙幣のデザインと紙質、紙幣の汚れぐあい、貨幣の単位をみると、経済状況まで直感できます(最近アメリカの1ドル札の汚さを憂いています)。これは私の長年に培ってきた特技かも知れません。
 今回のブータン旅行は、行きと帰りにバンコクで1泊の経由となりました。
 バンコク行きのJAL便はほぼ満席、2006年に新しく開港した、スワンナプーム(黄金の土地)国際空港の熱気と、人の流れの多さにあらてめて驚かされた。相変わらずの入管手続き遅さによる長い列の渋滞に閉口しますが、まぁ、これが南国タイなのだと観念しています。
 このサワンナープン国際空港は、世界一の広さを誇りタイ王国の新時代の象徴として、アジアのハブを目指しているだけのことがあります。いや、すでにハブになってました。
 考えればタイは新興大国インドと中国の中間に位置し、アジア産業の肥沃な三日月地帯のハブとしてアジアの熱気を象徴していました。ここから極東を眺めますと、日本は東アジアの一角となってしまうかのようです。
 昨年の赤シャツ隊の反政府大暴動などどこへやらで、7月3日の総選挙でタイ王国初の女性首相を選出して、「微笑みの合掌」を取り戻しています。 
 さて、合掌に送られてブータンへ!
 

触らぬ神に祟りなし

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(上海龍華寺の香炉)

 烏鎮(ウーチェン)の白蓮寺の香炉に煙がたっていないと書いたが、けして全てのお寺がそういうことではない。上海の静安寺や龍華寺にしても線香の煙が絶えることがない(入場料が高くて参拝できぬ人もいるが)。中国政府も参拝を黙認している。
 3年ほど前に私が龍華寺を参拝し、線香を両手にもって拝んでいる人たちをカメラで撮えた瞬時に、どこからか突然に公安らしき私服の男が現れ、撮影の邪魔をするかのようにして、「お前は韓国人か」と、故意に間違えた誘導尋問をしてきた。
 いきなりなんと無礼なと思い、「いいえ」と不快な顏で返答したら、「日本人か、小泉首相の靖国参拝をどう思うのか?」と来た。こちらもカチンときて、ヤバイなと思いながらも誘導尋問にひっかかってやった。「日本には死者を祀る文化がある。いわんやお国の為に死んだ者を拝むのは当然の事」と返答したら、男は黙ってどこかへ消えてしまった。
 先日のニュースに、アメリカの大統領とチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマが会談したことを、中国政府が抗議し「強い憤りと断固たる反対」の声明をだした。
 また今日のニュースでは、中国政府はローマ法王庁(バチカン)の意に背き、政府公認の「中国カトリック愛国会」が、一方的に少なくも7名の司教を任命し、バチカンとの関係を悪化させているという。
 チベット仏教でも中国独自認定のパンチェン・ラマ十一世のカイライを立てて、ダライ・ラマを否定している。日本の靖国参拝といいい、宗教をなんでここまで政治と絡ませて警戒するのだろうか。政治が人の信仰の聖域まで入り込むこともないと思うのだが、いまだにマルクスの言う「宗教はアヘン」などと思い込んでいるのだろうか。
 そんなわけで中国政府は宗教を黙認すれど公認しないので、人民は生活の知恵から、「触らぬ神に祟りなし」の無宗教を決め込んでいる。しかし、中国政府こそ「触らぬ神に祟りなし」の知恵を学ぶべきかと思う。






水を枕に

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DSCN2482.JPG 今日も江南地方の水郷、烏鎮(ウーチェン)の話を続けたい。
烏鎮は1300年の歴史ある水郷の古都で、かって呉国と越国の境で、呉越の防衛線に位置していていました。現在は中国最後の「水を枕に生活する古鎮」として保存地区に指定され、よく管理されており、観光客を十分に楽しませてくれるテーマパークになっています。
 小運河(クリーク)の風景はベニスを思い浮かばせてくれるが、水の濁りが少々惜しく感じられる。30年前までは澄んだ水で、お米をとぎ、洗濯をし、泳ぎもしたというが、小運河の流れを塞き止めてからこのような濁り水なってしまったとのこと。それでも水郷を散策し、小船に揺られながら橋々をくぐり、水辺の喫茶室で当地名産の美味しい菊花茶を愛でると、往時のよき古鎮の面影が偲ばれてきます。
 小舟に揺られて2キロほどクリークを遡ると、白蓮寺の七重塔が見えてきます。当地に仏教が伝わった歴史は長く、この白蓮寺も1106年の建立されています。
DSCN2490.JPG船を降りて白蓮寺に参拝に上がると人影がなく、隣接のアニメ博物館から記念撮影する人たちのはしゃぐ声が聞こえてくるだけだった。
香炉には煙はなく、半分だけ消え残った数本の線香が斜めに無残にささり、その乾きぐわいからして、しばらく焼香をしていない様子だった。僧侶も見当たらず、お経も聞こえてこない。ただそこに52メートルの七重の塔が在るというだけだった。
これが今の中国の荒廃した心の象徴なのかも知れない。
私が中国のどこの観光地に行っても、いつも何かいま一つ精神的に満たされないのは、どこへ行ってもスピリチュアルなものを感じないからだと思う。
中国の信仰心の廃頽は、そのまま文化の廃退となりはしないか。文化大革命の傷痕は実に深いものがある。中国は急ぎ過ぎる繁栄の中で、神仏に手を合わせることもなく、信仰心を失いニヒリズムを呈していないだろうか。


ラーメンの里帰り

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 上海から車で2時間、浙江省にある「烏鎮(ウーチェン)」という水郷の街で2泊してきました。
 ここでまた日本ラーメンの先祖という興味深い看板のお店を発見。
 昨日のブログに書いた「親愛」の簡体字の説明を補充しながら、先ずは「川石軒拉面店」の写真から話し始めます。

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川石軒烏鎮店
お店の旗は「面」とあり「麺」の略字。
水郷の「郷」は左の「?」。拉面産品の「産」が「?」。








中国の江南水郷から由来し、三百年前に、儒家の大家、朱舜水が作っ水麺が、日中文化交流の証として日本ラーメンの先祖に認定された。と、記してある。



さっそく暖簾をくぐり、豚骨スープの水麺に2種の漢方薬とがのったラーメンを試食しました。豚骨スープは日本味、麺は佐野ラーメンに近く、なかなかに美味しかった。たぶんお店のオーナーは日本留学からの帰国者だろう。

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日本で初めてラーメンを食べた人は、水戸黄門と言われ、そのラーメンは儒学者の朱舜水の水麺とされています。川石軒の前にラーメン一椀を、水戸黄門に手渡している銅像が建つています。
ついに打ち切りとなる「水戸黄門」の最終回には、ぜひともこのストーリーを!

とんだところで黄門様にお会いできた。こういう面白さがあるから、旅はやめられない。

親愛なる中国語

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 16日に3週間の旅行からアメリカへ帰ってきました。
 今回の旅行は実に充実したものでした。ブログに書きたい事がたくさんあり、どこから始めようかと迷っています。
 先ず上海の浦東飛行場で目にした2つの興味深い広告板から入ることにします。

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DSCN2437.JPG(愛に心がなく友と略されています。心の無い愛なんて。親は見が簡略されています。近くの親を見ないとは味気ない)

 中国語に使われる漢字には、簡体字と繁体字があります。一般に中国では簡体字が使われ、台湾、香港、マカオ、華僑の社会では、繁体字が多く使われています。私たちにとり簡体字はあまりに簡略化されて読めない漢字がたくさんあります。例えば、開=?、節=?、豊=丰、離=离、従=从、買=?、衛=?など。一方、繁体字は日本の旧漢字と同じく字画数ばかり多く難しくて古い感じ(漢字)がします。例えば、豊=豐、来=來、国=國、欧=歐、学=學、関=關などです。

 中国にも象形文字である漢字を、字源から断ち切ってしまう簡体字は、中国文化の衰退を招くと反対している知識人もいます。上海飛行場の広報も脱簡体字の兆しかも知れません。台湾も中国に向かって、もうここらで繁体字に戻したらどうかと主張しています。
 簡体字は中華人民共和国が建国された後、多くの文盲を一掃するために始めた普及運動でして、中国政府が決めた方針ですから、私たちがどうこう言っても始まりません。
 しかし、私のコメントになりますが、簡体字も繁体字も両極端と思います。確かに字源から切り離した簡体字は、記号のようで味気がありません。しかし、繁体字も字画数ばかり多くて複雑です。文化復興といえども、そう何時まで旧漢字に固守する必要もありません。
 そこで私は、中国語に日本の漢字を使用することを主張してきました。日本の漢字は簡体字と繁体字の中間に位地しています。これで十分に間に合い何の不便も感じません。簡体字と繁体字が歩み寄れる妥協的な漢字となっています。
 そんなことでして、私は12年前に日本の漢字を使用した「中国語会話」のテキストを出版しました。日本で初めて試みたテキストになります。世に問いかけたテキストですが、将来、日中の文化交流の通して多くの日本の和漢字が逆流されて、中国語の中へ組み込まれて行くと考えています。 

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