2015年2月アーカイブ

中国の環境汚染

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IMG_0633.jpeg 何度も書いてきた事ですが、倦まずに書いて2月の締めとします。
 上の写真は2月17日に上海のホテルの窓から眺めた朝日です。大気汚染で太陽が霞みお月さんのようです。これでは朝日を拝む気にもなりません。しかし、これでも上海は中国大気汚染都市ランキングで52位(大騒ぎの北京すら14位、2013年11月調査)と言うのですから上位クラスはどうなっているのでしょう。いやはや一日も早くなんとかしないことには近い将来に大変なことになってしまう。
IMG_0590.jpeg 2月16日に上海の南京東路から南京西路まで2時間ほど散策しましたが、途中で目がチカチカし喉がカスレはじめました。今回は外出からホテルに戻るとすぐに目薬を差し、プロポリスで喉を消毒し、フランス産のペットボトルの水を1日に4本飲むようにしましたので、私は快適な旅人でしたが、ここで毎日生活している人たちを見ると心から気の毒に思えてきました。
 タクシーに乗ると多くの運転手がおかしな咳をしているので、私は毎回とぼけたふりをして「これは霧ですか、汚染(煤)ですか」と聞きくことにしています。以前ですと「霧」と答えていましたが、最近は「大気汚染(煤=マイ)」と返ってくるようになりました。そして続く言葉が決まって「日本も60年代は同じ煤だったが、今はきれいになった、中国もそうなる」と言います。これは目隠し愚民政策ですが、私は何も反論せずここまでで黙ることにしています。
 こうして春節の黄砂に乗って日本に来た旅行者は史上最高の約45万人で、「爆買」が1千億円以上だったいいます。歓迎!歓迎!ご来店ありがとうございます(_ _)。成田空港は中国の飛行場のようでした。彼らも「代購」で持ち帰り転売すれば、旅行費用+となるのですから、どちらも
"Win,Win"です。「武士は食わねど高楊枝」なんのその、商人にとって「お客様は神様です」。
 私はこの現象を「爆買」と言わずに「ストレス症ニヒル買い」としています。香港では「イナゴ」と称しています。イナゴの大群が来襲すると後に何も残らないと言うわけです。
 我が朋友の中国は先の見えない虚無大気汚染の中で、これからどこに向かおうとしているのだろうか。
   旅寝して みしや浮き世の 煤はらい (芭蕉)

 ともあれ春節も過ぎ3月です。よい月にして行きましょう。

 

自分の歌を唄え

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200.jpg 中国語で「先輩」のことを「学長」ということをすっかり失念してました。「KANO」の映画に中国語の字幕があり、「学長」「学長」が乱発されていて、なんでこんなに「学長」が居るのかと思い、翌朝になってやっと「先輩」だったと思い出しました。中国通の面目まる潰れです。
 先日、母校バスケット部のOB総会があり懐かしく参加しました。体育系なので大先輩ばかりに気を配っていましたら、知らない間に私もそのグループに入っていました。そして次々に紹介されたのが平成生まれの後輩「学弟」たちなので、オイオイ待ってくれよと戸惑ってしまった。
 後輩のなかに私が母校で二度やった講演を聞いた大学生もいて、彼らの真剣な眼差しにOB総会の懐かしさも、酔いも一遍に冷めてしまった。一人はアイルランドに留学を希望し、一人はドイツに留学とのことでした。彼らの将来と個性化の中にかつての私自身の姿が映し出されてきて羨ましいかぎりでした。そんなことで私も無理矢理「学長」にさせられ後輩たちは母校の校歌通り「我ら若き力〜?日本の未来」でした。
 さらに、このOB総会へ行く途中の乗り換え駅で両手に重い荷物を持って階段で立ち止まったら、後ろから高校生が恥ずかしそうな小さな声で「荷物を持ちましょうか」と声をかけてくれました。さっそく手助けをお願いし、かわいくなって手持ちのチョコレート・クッキーをあげてしまった。みな素直ないい若者でした。私には「今の若者は頼りない」などと偉いことを言えません。

 帰りのJALの機上で「ストックホルムでワルツを」の映画を見ました。スエーデンの片田舎で電話の交換手をしながらジャズ・シンガーを夢見る実話を基にしています。自己の夢に貪欲で何度も挫折を繰り返しながら少しでも夢に近づこうと努力するサクセス・ストリー。
 彼女はニューヨークで
女性ジャズ・シンガーの大御所からジャズの本場「ルイジアナに行ったこともないくせに何よ、誰かの真似をするよりも自分の気持ちを唄ったら」と突き放されて失意のうちに帰国します。父親からは「お前は小さい時に木登りして落ちて死にそうになった。だから危険なことに挑戦するな」とひどく叱られます。彼女は「木の上から眺めた景色はすばらしかった。また登るわ」と、母国語の詩を自分のジャズにして唄いはじめて再起し、ついにニューヨークで脚光を浴びることになりました。
 「誰かの真似より自分の歌を唄え」とは、心にグサリときます。もし往きの機上でこの映画を見ていたら、平成の後輩「学弟」たちに話してあげられたのに残念なことをしました。

海のむこうの甲子園

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E1422209663103_7757_1.jpeg 今朝から運動を再開。外は連日の寒波で零下16度、室内でひと汗かいてタオルで身体を拭く時の爽快さ、かくして新しい元気をもって今日一日が始まる。
 昨晩、台湾で2014年2月に公開され、9月に史上初のアンコール上映になった「KANO1931海のむこうの甲子園」を、ビデオで観賞しました。日本では1月24日から上映されています。
 1931年日本の統治下にあった台湾で、日本人、台湾人(漢人)、蕃人(原住民)の混合チーム「KANO (嘉義農林学校)」が甲子園に出場し予想を覆して決勝まで勝ち進む実話を映画化したものです。時おり台湾で最も尊敬されている嘉南ダムを建設した八田与一水利技師が平行して登場し、あしり日の嘉南地方の熱気を効果的に描いています。また日本人生物学者がパパイヤ品種改良した例えを選手たち話すくだりは、台湾人魂そのものを語っているようで感動します。
 上映時間3時間の長丁場、前半部は大根役者群の演出で退屈を覚えるが、後半に近藤監督が
「野球に人種なんか関係ない。蕃人は足が速い、漢人は打撃が強い、日本人は守備にたけている、こんな理想的なチームはどこにもない」と、タンカを切ったあたりから俄然と盛り上がりまして、最後までもう涙ポロポロでした。
 魏徳聖監督は「海角七号 君想う、国境の南」(2009年)の作品で、日本と台湾の歴史的な絆を濃厚にかつ繊細に描いて記録的な大ヒットを飛ばし、「KANO」はそれを超えた秀作になっています。
 隣国がもういい加減にしろよと思うほど「反日」を煽るなか、見る人の立場により「媚日映画」と酷評されることもありますが、そんなことはどうでもいいですので、私の第二の故郷でもある台湾の感動的な実話を、純な気持ちで観賞してもらいたいものです。


P.S.
 日本も中国も韓国も「KANO」に見られる意識水準から学ぶものがあるかと思います。戦後70年の総括、歴史認識とは「反日」でも「媚日」でもなく、こういう事なのです。

台南・聖母信仰

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IMG_0668.jpeg             (台南安平の聖母媽祖廟)
 昨晩アメリカ東部の雪景色に戻ると、留守にした我が家の庭は凍った根雪になっていました。冷たい出迎えでしたが、それでもマイ・スイート・ホームです。

 一日の間に台南の温度はワイシャツだけの28度、当地は厚地のオーバーを重ね着した零下5度、温度差33度でしたが、どちらもいい気候です。
 台南市は仏教寺院や道教廟が多く在り信仰の篤い古都です。なかでも聖母・媽祖(マーズー)は、台湾と中国沿海部を中心に最も信仰を集めた神様です。18世紀初頭に
多くの台湾人が福建省から移住した時に、媽祖を航海の守護神として祀った事から信奉され親しまれてきました。海洋民族の神でして台南には台湾一級の「大天后宮」の媽祖廟があり、毎年旧暦3月23日の媽祖誕生日に台湾全土で盛大なお祭りが催されています。
 台湾人のやさしさ、暖かさ、人の善さは、豊かな気候風土にもよりますが、その多くはこの聖母信仰によるのではと思います。ニヒリズムに陥っている中国が台湾から謙虚に学ぶべきものはこの信仰心です。もし中国が台湾を呑み込もうとするなら、政治力や武力ではなく大地母神と媽祖による神々の和解です。だが惜しむらくは神への信仰を否定している今の中国にこれを理解する余裕がありません。ですから台湾が中国に向かい毅然と心の豊さを伝導してあげたらと思います。台湾は中国文化を救う残された一つの光明になっています。
IMG_0677.jpeg             (聖母天壇)

春節 in 台南

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FullSizeRender.jpeg 台湾の古都・台南も年々春節を祝う風習が薄れてきています。今年はそれがより顕著になってきました。
 年越しの爆竹も激減し、街を歩いても春節の飾りが少なく、日常の生活とあまり変わらず、春節を祝う雰囲気が感じられませんでした。春節を楽しむというよりも春暇を過ごしている感じです。これなら春節にわざわざ当地を訪問することもないので、来春は香港か東北(満州)にでも行ってみたいものです。

 それでも大型のスーパー(昔ですと食材市場)に行きますと、買い物客の熱気が伝わってきますから「食在春節」は依然として健在でした。
 今年は中華民国104年となり、建国104年になります。いい加減に百年を一区切に「年号」を変えればよかったのですが、中華民国が続きそんな惰性が春節にも現われているのでしょう。百年も近代化が続けば中華も薄れ、若者には春節の風習が古く感じるのかも知れません。その点、日本は百年の間に「明治」「大正」「昭和」から「平成」と維新されて行き惰性がありません。
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 今年の春節で多く見られた標語は「羊羊如意」で、新光三越百貨店の前に「吉羊如意」が置かれ、その下に祈願札がありました。私も台湾の人々がよき「羊羊如意」を迎えるように願掛けしてきました。

春節 in 上海

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IMG_0581.jpeg 春節前の活気みなぎる上海の街並、南京東路から南京西路を2時間ほど散策しながら元気をいっぱい充電してきました。
 春節の中国の雰囲気はいいものです。大気汚染さえなければですが、上海は歴史的にも世界都市クラスで、最近は人々の顔も豊かになりあか抜けてきました。中国人というより上海人です。

IMG_0605.jpeg 街を歩くとやはり「羊」にまつわる漢字のお遊びがありました。そのままに書きますと「喜気洋洋」「多財善買」「志美行励」「吉祥如意」これって私の年賀挨拶と同列でして、私も知らぬ間にずいぶんと中国ナイズされていることに苦笑してしまった。まぁいいか。
 
 街並を歩いていると、古き上海時代が懐かしくなり、ふと写真館に入り、かっての大ボス、許文強を真似てみたくなりました。いい歳してこんなお遊びも春節がなせるのかもしれません。

16.jpeg                 (上海の座頭市)


Love=ありがとう

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 最近はネットから情報をもらうことが多くなってきました。
 昨日も日本語の繊細な表現に「桜は散る、梅はこぼれる、菊は舞う、牡丹は崩れる、椿は落ちる」と、花の終りはそれぞれに違うとありました。人生の終りも花と同じような表現ができそうです。
 日本の男性は表現が下手で、口から自然に「I Love You」と言えるようになるのには、あと30年かかるだろうと
ありました。てことは、私は一生口にしないことになります。もっとも22歳から海外生活しているのに一度も口にしたことがありません。別に胸張って自慢することでもありませんが、もし口にしていたら、とっくの昔に舌を噛んで死んでいたと思うので、こうして生きているのですから論より証拠です。でも最近になり「ハグ(Hug)」の方は、自然にできるようになりました。
 「Love」=「愛」は、明治以後の日本語訳で、それまでは神の「愛」も「慈悲」と訳していました。日本の人はこのような言霊的な言葉に対し、ストレートに安易に口にすることを、あまり好まないのだと思う。無理してもLoveでなく「好きだよ=I Like you」止まりと思います。まぁ、これも文化なのでしょう。
 この「I Love You」の書き込みに対して日本に長く住んでいる外国人から寄稿があり、日本人の「I Love You」の表現は「ありがとう」だと解釈していました。これを読んで「うまい!」と思わず膝をたたいてしまった。この日本通の外国人にハグしたい。これでしたら私も毎日朝から晩まで機関銃で感謝弾を放つようにように「Love」を、ばらまいています。これでやっと長年もやもやしてきた語彙から解放されました。
 「ありがとう」、これからはこれで行くことにしました。

立春「寒い朝」

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 北風吹きぬく寒い朝も〜
  
心ひとつで暖かくなる
   
北風の中にきこよ春を〜? (佐伯孝夫詞)

 いま口ずさんでもいい歌ですね。
 今日は立春。外は一面の雪景色に零下9度の寒い朝。室内で体操をしひと汗かいてタオルで拭き取るこの対比、なんとも言えないいい感じです。心ひとつで暖かくなる。
 体内60兆の細胞群はすでに北風の中に春のおとずれを聞いているようで、体操する体の動きが柔らかくなってきています。
 「きのうより 少し開いた 梅の花」(三休)、もうすぐ春ですね。

 以下は私事の余談になりますが:
 この歌詞の中に「清らかに咲いた可憐な花を
みどりの髪にかざして今日も」とあります。中学、高校時代のバスケットのチームメイト、私の親友でもあったが、絵画など描いたことがなかったが、高校卒業時に突然に、みどりの髪に可憐な花をつけた女性像を描きました。この歌がモチーフだったのかも知れないが実に狂を感じる絵でした。今にして想うと彼が初めて自己表現した絵を、理解しほめてやればよかったと後悔しています。そうすれば彼は新しい才能を開花さて行ったと思うのですが、私もまだ未熟でした。彼はその後まもなくして理由もなく広島に行ったと聞いていますが、それ以来まったく消息がつかめずにいます。どうしたことやらといつも気になっている友人です。
 当時、彼のバスケットのセンスは突出していまして、県内で1、2位を争うプレイヤーでした。監督も一目を置くセンスで大学のバスケットでも十分に通用する選手でした。私は彼のバスケットにおける動物的なセンスを賞賛と羨みながらも不思議でした。
 しかし、高校のバスケットを離れた時期に、奇怪な緑の髪の絵が象徴するように、持ち前のセンスが狂いはじめたとしか言い様がありませんでした。色覚異常か狂なのかな、私の理解をすでに越えていました。ただ一つだけ思い当たる事は、彼はいつも親指の爪を噛んでいて、親指の先がただれるように太く大きくなっていたことです。恐らく遺伝性もあるのかも知れませんが、彼のバスケットのセンスをうまく絵画に展開できたらユニークな芸術家になっていたかと思うと、チームメイトとして残念でならない痛恨事になっています。

 昨年、高校時代のバスケットの名監督が亡くなり、今月中旬に偲ぶ会あります。私と同じ様に監督が一番気がかりで会いたく思う彼ですが、消息不明で欠席とのことです。残念ですがどこかで元気にいてくれるならば、それでいい。

ミイラ取りがミイラに

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 「ミイラ取りがミイラに」、誠にお気の毒です。合掌。
 しかし、ミイラは成仏せぬまま乾燥した砂漠で、数百年、数千年を経ても生前の面影を残します。イスラム過激派は武器を持たない丸腰でお人好しの日本国民を敵にすることで、親日イスラム諸国をはじめ世界を敵にまわしてしまった。これで単なるイスラム過激派になり下がり国造りの大義を失しないました。イスラム過激派(ISIS)はやがて殲滅されるであろうし、ナイフを左手に持ってふり下ろした黒覆面の男はじき殺害されるでしょう。ミイラの呪いです。自らの心に恐怖を感じなければ覆面などしない、卑怯者の弱さのあらわれです。
 私は中東問題に疎く、砂っぽい砂漠の民がいまいち苦手なのでこれまで沈黙していました。それにイスラム研究の専門家にしっかりした論客がいるので、それらを情報収集しながら趨勢を見守っていました。私は後藤健二氏は解放されるのではと淡い希望をもっていましたが、知り合の国防関係に従事する人は、早い時点で彼も殺害されると断言していました。私が何故と問いましたら「ISISはあんたが思うような甘い集団でない」との回答でした。リアリストを自称する私もISISのテロに対して甘い幻想を抱いていました。
 それにしても戦後のお花畑で育った「軍事オタク」の徒花が、まったく行く必要もない危険な地域にのこのこ出かけて拉致され、後藤氏はそのオタクを助けに自己責任(切腹)の覚悟で出かけて行き、現地ガイドの裏切で拘束されて二人とも殺害されました。日本は現地に外務副大臣を派遣しただけで、なす術もなくただ歯をくいしばるだけでした。
 今回は日本国憲法前文が真っ向からテロの挑戦を受けました。武器を持たない丸腰の『
日本国民は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよと決意した』が、先方に平和も公正も信義のカケラもなく、憲法の前文が無惨に殺害されてしまった。これは北朝鮮の拉致事件に対してもまたしかりで、日本国憲法の前文もミイラ化しているようです。
 月初めに嫌なニュースでした。明日は節分そして4日は立春。大きな声で鬼を追い払い、さわやかな新春を迎えましょう。2月19日は今年2回目のお正月です。

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