今日は帰国して丸1ヶ月になりました。なんかもう6ヶ月くらい過ごした感じです。
今日から電動アシスト自転車の練習を始めました。気分は青春時代に戻った感じですが、後ろの荷台に胸をときめかし横になって座っているガールフレンドがいませんでした。
昨日は友人の招きで榛名山の麓、伊香保温泉でリラックスさせてもらいました。アメリカの多くの友人に帰国したらまず温泉とすすめられたが、特に温泉に行かなくも自宅の風呂でリラックスできると思っていましたが、いざ湯船につかると体の芯まで癒されることを体感しました。ゆったりのリラックス度が違うのですね。
温泉に向かう途中に前橋市を経由して岩神神社の巨石を見学しました。
2万4000年前に浅間山の噴火による山体崩壊で発生した泥流で運ばれたと推測され、直線距離48キロを吾妻川の流路に沿って土砂と共に運ばれてきたというものでした。地上部分だけでも高さ9.47m、地下に8.5m、周囲60m、重量2100トンという巨石で、岩神神社の御神体として祀られています。
上毛かるたの『あ』、「浅間のいたずら鬼の押しだし」。群馬にもスケールの大きなものがあるのですね。これには感動しました。
2023年3月アーカイブ
今日は高崎少林山だるま禅寺に初めて行ってきました。縁起だるまの発祥の寺です。
帰省の折にいつもこの前の車道を通っているのだが、いつか、いつか参拝と思いながら、その都度ご無沙汰していました。今日は息切れしながら階段153段を登っての参拝でした。
この寺の境内に在る「洗心亭」に、ナチスドイツを追われた亡命者、世界に日本文化の美を紹介した著名な建築家ブルーノ・タウトが、2年3ヶ月過ごしたことは知りませんでした。これは私の不覚でした。
タウトは桂離宮を訪れ「泣きたくなるほど美しい」と深い感銘を受け、伊勢神宮では自然と調和した簡潔なそして厳しい形式に共感しています。代表的な著書に「日本美の再発見」「日本文化の私観」があります。
また、こんな感想を日記に残しています;「私たちが山下の小径を歩いていると、いつものように大勢の村童たちが私たちのあとからついて来たが、やがて私たちの歩く先に立って両側の潅木の枝を左右に押さえつけ枝の先が私たちに触れないようにしてくれた。外人を見ようとする好奇心はあっても、実に細かい心遣いをするものだ。みな貧しい? それも極めて貧しい子供たちなのに!やはり日本なのだ」(昭和10年3月24日)
日本を離れトルコに向かう壮瞥の時に;「日本は遂に戦争になるだろうが、集まって下さった方々の無事生きながらえることを願うばかりだ。出来得るならば私の骨は少林山に埋めさせて頂きたい」と語っていました。
トルコで1937年12月に脳溢血のため逝去し、遺体はトルコの墓地に埋葬されましたが、タウトの遺志を果たすため、翌年9月に妻エリカがデスマスクを少林山に納めました。そしてタウトがわが故郷とした洗心亭に「ICH LIEBE DIE JAPANISCHE KULTUR」(私は日本の文化を愛す)の記念碑が立っています。
伊勢から帰るとアパートの郵便受けに親鸞の「歎異抄に学ぶ」のチラシが入っていた。
「鎌倉時代から伝わる永遠の名著そこには最も知りたい『なぜ生きる』の答えが明示されています」とあった。
どうやら宗教団体でなく純に「歎異抄に学ぶ愛好会」のようでしたので、講演会に行って来ました。
講演は著書の内容にそって進められたが「歎異抄」を、これほど真摯に読まれている人がいることに感動しました。
著者は「歎異抄」を深く修得実践し、それを実にやさしく噛み砕いて説かれ「南無阿弥陀仏」の六文字で、現世も死後も救われるとありましたが、講演ではそこまで言及しませんでした。後はあなた任せという控えめの余韻が心地よいものでした。
私の母も毎朝仏壇に向かい、私の外地での無謬息災を願い「南無阿弥陀仏」を、念じてくれていましたので、講演を聴きながら母の合掌する姿を偲んでいました。
「南無阿弥陀仏」合掌
お伊勢参りは二見浦から始めました。本「宇宙の心」サイトのトップの写真です。
27年前に二見浦駅を降り改札口を出ると、構内の左側に貼ってあった写真です。「海、夫婦岩の中心はるか遠方に富士山、その頂上から昇る朝陽」、写真を見て私の目は釘付けになってしまいました。この出来過ぎはモンタージュかと思い即座に駅員にたずねると、そのままの本物の写真でした。私と朝陽との遭遇でした。
この写真をなんとか手に入らないものかと聞くと、二見浦観光協会に問い合わせしてくれとのことでした。
さっそく問い合わせると特別に譲ってくれました。以来アメリカの家に飾ってきた宝でした。
この時の感動が、本サイトのトップの掲載になりました。
今回はまだ駅構内に飾ってあるかとの確認でした。日本の原風景と思うだが、惜しいことにありませんでした。そして、今は無人駅となっていました。
伊勢の参宮に帰国報告して来ました。
五十鈴川の清流を渡るとき、宇治橋から天照に迎いられました。
アメリカに祀ってあったお神札を返納し、維新の「天照皇大神宮」大麻と、新居に祀るおやしろ拝受して来ました。
さて、これで日本に復帰しこれから活動を始めます。
新幹線の取り付け雑誌で見つけた、神聖な世界への架け橋と鳥居。
今年の梅はブログに載せておきたもので。
伊勢神宮の五十鈴川ほとりに咲く梅の花。
榛名山の麓みさと梅まつり。絵になっているので撮らえる。 池上本門寺の梅園、友人からの梅たより。
今日もまたカルチャーショック。
朝のカラオケと昼のカラオケが、安いセット価格でそこそこに流行っているとのこと。信じられない長閑な故郷。カラオケでなければボーリング(boring=退屈)です。 昨日は中華店でランチ。
この小規模の店舗はカレー店からスパゲーティ店、その度に店主が代わり今は中華店。
店内に入るとほぼ満員の客、棚には青島ビールが置いてあり、メニューも中国風、味もそれなりに行ける。
店主は中国人かなと思いましたが、たぶん日本人。なぜかと言いますと店の前の立て看板の冬期限定に「毛沢東スペアリブ」とありました。
毛沢東と言えば、一説に文化大革命と大躍進で犠牲者を8000万人も出した張本人ですので、中国人ならまずこのグロテスクな名称を付けないだろうと思ったからです。私もこれを見た時に拒絶反応が出て店に入るのに二の足を踏みました。
善意に解釈すれば、日本ではこうした対中認識が一般的なわけです。中華の店主すら中国をよく知らないお花畑です。
まぁ、こうした人たちを啓蒙し「習近平饅頭」が出ないようにして行くことが、私の5月からのライフワークの一つになります。
今日は嬉しいカルチャーショック。
我が町から東京池袋まで高速バスで2時間強で、なんと1900円で行けてしまう。こんなに安くていいのかな、有難いことです。東京が隣街に感じてしまう。
ここ数日は小春日和、我が家の裏庭の川沿いを、3500歩散策しています。高田川(北川)と称し利根川の上流になります。
子供の頃の遊び場で、ここを歩いていると記憶消失者が、突如記憶を取り戻したかのように次から次に思い出でが蘇ってきます。
枯れた土手芝を踏みしめながら、ついにここに帰ってきた現実を実感しています。
我が親族の子、孫、ひ孫の4世代目のひな祭りです。あまりに可愛いのでブログに掲載。
晩冬の夜空に金星と木星が縦に並んだ美くし光景が見られる。2月下旬の夜空に1番明るい金星と2番目に明るい木星と眉月が縦に並んだ天体コラボレーションは幻想的でした。
スマホで撮る限界の画像ですが、3年に1度の接近を、今ふるさとで見られる幸せを感じています。
日本の生活に順応しようとすると、いろいろな驚きがある。
先ずはドライブスルーのドライクリニング店、10時前にスルーすれば同日4時に仕がり。これはアメリカになく初めてでした。よく考えたものと感心。
次にゴミの仕分け、まずは空きペットボトルのシールを剥し、キャップを取って、3つのゴミ袋に仕分け。ガラス瓶とキャップを危険物として仕分け、汚れた瓶は不燃物として袋に、ダンボール箱はまとめて縛って仕分け、バナナやリンゴの皮は燃えるゴミ等々。しかも回収日がそれぞれ違っています。
先日ゴミ袋を出し、その中にキャップ付きの小瓶を4本ほど入れて出したら、それだけが回収されず、上記の注意書きを貼り小袋に入れて置いて行きました。清掃者は袋の中を見て、わざわざそこから取り出して小さな袋に入れかえて置き去ったわけです。また、段ボールをまとめておき清掃車が来てから慌てて出したら「もっと早くに出してください」と説教。この律儀さ全く信じられない。 仕方なく今日はゴミ箱を5つ買い揃えました。アメリカではゴミ回収箱とリサイクル箱の2つです。ゴミは週2回、リサイクルは1回となっています。
そんなことを考えながらコンビニに行くと、入り口の前に4つのゴミ箱が置いてあり上に注意書がそえてありました。
いったいなんて国なのだ!
3月が始まりました。
今月も引き続き日本の生活に順応する日々になります。焦らず2ヶ月かけてやって行きます。
毎朝、仮住まいしているアパートのカーテンを開けると、建設中の自宅が見えその向こうに稲含山(1370m)が遠望できます。4月下旬の自宅の完成と並行させて、私の日本での生活を順応させて行きたく考えています。
今日は淺間山の麓、信州の佐久市に49日の法要に行ってきました。
私が17歳の時からお世話になった大恩人はすでに帰霊し、今日はその奥さんの49日でした。私の帰国を楽しみに待っていてくれた恩人夫婦が逝かれてしまったことは寂しい限りでした。