2016年9月アーカイブ

295.jpeg 9月26日にヒラリー VSトランプの大統領タイトルマッチ、第1回戦がありました。
 史上最多の8400万の視聴者が討論会を観戦したとのことです。私もこれまで両者の選挙キャンペーンをまったく見てなく今回初めて観戦しました。
 ここでは討論の内容にふれず人物の印象だけにしたく思う。討論を1時間半も見ていますと、人間の格というか器というものが露呈してくるものです。相撲の番付でたとえると、ヒラリーが東の張出し横綱とすれば、トランプは西の筆頭関脇ほどの格の違いがありました。討論は横綱が関脇にまわしを取らせず一気に寄り切りでした。
 まず大統領候補に格下の関脇しか出せなかった共和党の凋落とアメリカ中間層の劣化です。それにトランプ自身70歳になるのに大統領の気質になっていませんでした。一方のヒラリーは海千山千のプロ政治家で、イザという時に俄に強みを発揮します。土俵際に追い込まれても信念で押し返します。大統領は老獪ニクソンのように嫌われ者でもいい。ヒラリーに残された懸案は健康問題となります。
 しかし、大統領選挙はマスコミの最も書き入れ時ですから、なんとか接近戦の緊張を醸しだして第2回、3回の討論で視聴率を稼ぐことと思います。それに格下が横綱を倒す金星の番狂わせもありますから11月まで目が離せません。もしそうなれば座布団が飛び交います。まさかの大番狂わせは土俵の向う正面のオバマ大統領が、非常事態宣言を出して選挙戦を延期して続投です。世界の混迷状態は続きます。
 次回10月9日の討論会を、私は台湾で観戦することになります。それではよい10月をお過ごしください。 

君の名は。

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9:24.jpeg  物好きや 匂はぬ草に とまる蝶(芭蕉)
 アメリカのテレビにセチュエーションコメディーという番組がある。レストランを舞台にして常連客が入れ代わり立ち代わりおりなすドタバタ・ドラマです。
 私はここ1年余り毎週金曜の朝、出勤の途中に決まったダイナーで朝食をとっています。ここでもいろいろな常連客の人生ドラマが見られて面白い。
 先ずオーナーはメキシコ人、昔はギリシャ人が定番でしたがこれも時の流れ。愛想のいいウエートレスはタイとフィリピン人のハーフで亭主がイタリア人。いつも亭主とツーショット写真のネックレスをつけています。お客からの虫除けのつもりなのかも知れない。
 1年中どんな暑い夏でも茶系色の分厚いレインコートを肩にかけ、口髭で同じシャツに同じネクタイをして、タバコを吸いながら入ってきてカウンターに座る人、私は彼を「カサブランカの男」と命名している。
 知的障害の2人の子供と生活保護係の人、さえない医者と看護婦、大きな声で話す黒人夫婦、極めつけは乗って来る車の中が、運転席以外は隙き間なく天井までゴミ、ゴミで、ゴミ箱同然の車。空き缶から菓子の空袋、汚い洋服、帽子等々、私は彼を「ゴミ男」と命名し、この車から離れ所に駐車しています。
 よくもまぁそろいもそろっておかしな人たちです。なぜこのダイナーで朝食なのかと思うが、実はここが私のアメリカでの原点のダイナーなのです。渡米して創業の頃よくここで朝食してから会社に行きました。
 最近ちょっと思うことがあり、物好きにもこの原点で食事したい気分になり再開しました。たぶんこのダイナーのなかで、私が誰よりも古株だろうと思う。かつては各テーブルに小さなジュークボックスあったことなど誰も知らないと思う。
 いろいろなクセのある常連客をながめ、私だけまともかなと思っていたのですが、今朝ふと考えたら彼らも私を見てクセのある常連客の1人に思っていることに気がついた。ダイナーに入るといつも同じボックス席に座り、メニューももらわず、注文もせずに、「おやよう。いつものよろしく」だけを言えば、コーヒーとエッグベネデクトがでてきます。飽きもせずいつも同じ食事なのです。
 朝食を終えて会社に向かう車の中でふと、たぶん彼らから君の名は。「ベネデクト男」と言われるのだろうと思いついたら、可笑しくなってきて吹き出してしまった。時だけが流れ、私は相変わらず同じダイナーの舞台で「通りすがりの人」を演じていました。

 PebMYf38jAy8yjP9Fykk5w7zqeH2apzjcyWesTcaj9TSPAKjnQSESs6ZBR3f9ajnA.jpeg 新しい世界へ(A whole New World) メッセージは1つでいい。
 久しぶりにブロードウェイーに出かけて「アラジン」を観賞してきました。たまにはブロードウェイーでミュージカルをと心がけながら、近いのでいつでも行けると思いついつい無沙汰になっています。
 デイズニーミュージカル「アラジン」は、ブロードウェイーで大ヒットを続けて連日満席、日本でも劇団四季が公演して連日スタンディンオベーションの大好評とのことなので、(またデイズニーかいなと思いながら)重い腰を上げて出かけてきました。
 見ればさすがに評判通りのエンターテインメントでした。トニー賞最優秀助演男優賞を受賞したランプの精ジーニーの演技には唸ってしまうほど圧巻でした。ワンマンショーのようなすごい存在感で、主役のアラジンとジャスミンが完全に食われてしまっています。道化役を演じたアレン村岡もなかなかの存在感でした。
 その上に興行予算を惜しみなく使ったすばらしい舞台装置、このところ新しい世界を喪失しているアメリカですが、久しぶりにこの国の底力に魅せられられた。

日台IoT同盟

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27884367_1.png 17日の夜、ニューヨークで爆弾テロ騒ぎがあり、親族や知人から私の安否見舞いの連絡があり恐縮しました。
 実は秋の国連総会のため私の友人が訪米していまして、友人夫婦とこの爆弾からちょうど10ブロック離れた西通りでお寿司を食べていました。この日どうしたことか私の勘違いで車を西通り(ウエスト)でなく東通り(イースト)の駐車場に止めてしまい、そこから散歩かたがた西通りまで6ブロックほど歩いてお店に入りました。もし西通りに駐車していれば、夕食後ほぼ同時刻に爆発現場近くを通過してホテルに戻っていたことになりました。
 マンハッタンでサイレンの音が鳴り止まず、消防車が何台も走って行きましたので何事かと思い、渋滞の中やっと家に着いたら、我がNJ州でも爆弾騒ぎでした。私は911の同時多発テロを目撃していますので、これくらいの騒ぎでは驚かなくなっていますが、私はさておき貴重な友人が無事でよかったです。
 「秋深き 隣は何を する人ぞ」です。
 今週はこの友人に贈るために用意しておいた著書;「日台IoT同盟」、『第四次産業革命は東アジアで爆発する、文明の風は再び東洋から西洋に吹く!』、李登輝/浜田宏一対談(講談社刊)を読みました。両氏ともにノーベル賞クラスの対談です。経済関連の本なのに両氏の真心にふれたためか涙を流しながら読んでしまった。経済本に涙するとは、私の涙腺もかなり緩んできたようです。
 今日は安倍首相が訪米しました。秋深き隣り北朝鮮の暴発の方が、より緊急な制裁課題になっています。明日からの国連総会での成果と安全を祈りたい。
 

中秋の名月

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9:16.jpeg 昨夜は見事な中秋の名月でした。
 暦の正確さに感心ですが、スマホで撮る名月には限界がありました。見所を変えて何枚か撮りましたが、ニューヨーク・マンハッタン島からハドソン川を照らして昇る名月を選びました。
 中国福建省では台風14号の暴風で、中秋節を祝って上げた巨大な月のアドバルーンが吹きとばされて地球に衝突、市街地をゴロゴロと転がりのし歩くシン・ゴリラのような動画には笑ってしまった。大型台風が接近しているというのに、バルーンを上げるとは、ほんと中国は面白い「中秋節快楽!」です。Y_Tu2QoK9gEOmdyH.jpeg


中秋節快楽!

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515VaK8s+jL._SX331_BO1,204,203,200_.jpeg 今夜は中秋の名月を観賞できそうです。
 いつ頃からだろうかこの時期に月餅を食べないことには物足りない気分になっています。今年も台湾製の月餅を食べて中秋の名月です。中国ではこの日を大切にして、お中元に月餅を贈る風習がありますが、なぜか「祝中秋節」でなく「中秋節快楽」と挨拶しています。
  名月の 見所問はん 旅寝せん (芭蕉)
 中秋にちなみ、私が長年にわたり尊敬し勉強させてもらっています、長谷川慶太郎著「世界大波乱でも日本の優位は続く」(PHP8月刊)を読破しました。
 最近、国際情勢が激しく変動し、正直なところ私自身もかなり混乱し先行が見通せなくなってきています。私はこうした時いつも長谷川氏の見識に日本のプラットホームを求めています。
 長谷川氏は今年89歳になります。50余年にわたり、経済、軍事のジャーナリストとして、日本の未来を少しのぶれもなく積極一貫、明るく見守り続け、まさに筋金入り国宝級の論客です。私も現役の経営者の時、氏に何度も励まされてきました。
 本著の結びもきわめて楽観かつ積極的です;「世界がガタガタになるなかで、まともの国は日本だけだ。日本は世界で唯一、きわめて平等で自由な社会と言える。高い技術力があり、長期金利にも余裕がある。治安も他国と比べるとはるかに良い。世界でリーダーシップをとれる国は、いまや日本しか残っていない。イ ンフラ整備、テロ対策など、日本が世界に貢献できる分野はきわめて多い。これからは実力どおり、日本が世界をリードする時代になっていく。」
 この著書「中秋節快楽!」です。853-160S0155340.jpeg

毛沢東の呪縛

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IMG_3759.jpeg             (秋の黄昏 in N.J.) 
 私が何度も中国各地に足を運びながらも北京を敬遠してきた理由は、第一に中国の政治に関わりたくないこと。次に、天安門広場に掲げられている毛沢東の肖像画と毛沢東の遺体が安置された大きな記念堂があることでした。これを見ると毛沢東による大躍進と文化大革命の大暴走で4700万以上の人々が呪いながら死んでいった悲惨な人災が想い出されてくるからです。
 1977年に建設された呪縛の記念堂を、過去に一度だけ参観しました。保安警備の鋭い監視の目と対峙しながら、ガラスケースの中に安置された遺体を、歩きながら遠巻きに見ました。それ以来もうここには来ないと決め、天安門を敬遠してきました。
 9月9日は毛沢東が死して40年になりました。
 ここにきてやっと中国共産党が呪縛の記念堂を、毛の生地である湖南省韶山市へ移転を決めました。移転案の会議に中国政治局25人のうち23人が賛成、2人が棄権、反対者ゼロで通過したとのことで、まぁ、負の遺産として当然です。
 中国共産党も変りつつあり、また変革しなければ生き残れないので、わずかながらですが、毛沢東の呪縛から解き放されつつあるようです。呪縛を鎮魂して行かないことには、党に明日がないので歓迎です。あとは肖像画の移転ですが、党はここまでやれないと思うので、これは人民の手にお任せです。
 近い将来、これらが移転したらまた北京を訪れてみたく思っていますが、いつになることやら、、、、

客家人(続)

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9:11.jpg 客家人の続編になりますが、近代以降、中国、東南アジア、台湾の歴史上に輩出した客家人物一覧をみてゆきますと;
 「中国」
 洪秀全(太平天国天主)。孫文(中華民国初代総統、国父)。宋慶齢(孫文夫人大財閥令嬢)。宋美齢(蒋介石夫人宗姉妹)。朱徳(中国共産党初代元帥)。鄧小平(共産党元老)。葉剣英(中国共産党元老)。葉選平(広東省長)。廖承志(中日友好協会会長)。李鵬(元国務院総理)。朱鎗基(国務院総理)。郭沫若(全人代副委員長、文学者、中日友好協会会長)。
 *毛沢東が瑞金の客家地区で党の実権を掌握したこともあり、共産革命の初期から多くの客家が食い込んでいました。いわばソ連革命におけるトロキスト集派です。 
 「香港」
 李嘉誠(長江実業グループ、香港最大の財閥)。胡文虎(タイガーバーム創設者、星島日報グループ創設者)。
 *香港は漢人700余万(93%)うち3分の1の200万人が客家となっています。
 「台湾」
 李登輝(第8,9代総統)。陳水扁(第10,11代総統)。馬英九(第12,13代総統)。蔡英文(第14代現総統)。粛万長(行政委員長)。謝長廷(現駐日代表)。王永慶(台湾プラスティック、台湾最大の財閥)。
 *李登輝以後の総統は見事なまでに客家が続いています。彼らの政治好きを象徴しています。私も数人の客家人を採用してきましたが、いずれも優秀でしたが、家系独尊で協調性に欠けています。1人1人で雇用するのはいいのですが組織的には難しいです。 おそらく蓮舫の対応はクールなものになるでしょう。
 「シンガポール」
 リー・クァンユー(初代首相)。ゴー・ケンスイ(第一副首相)。ゴー・チョクトン(第2代首相)。リー・シェンロン(第3代首相)。
 *台湾同様ここでも3代首相が客家になっています。シンガポールの人口約470万人のうち40万人(12%)が客家となっています。 
 「タイ」
 タクシン・チナワット(首相)。インラック・シナワト(首相)。 アピシット・ウェーチャチーワ(首相)。チン・ソポンパニット(バンコク銀行創業者)。
 *タイでも中華系として客家が活躍しています。
 「マレーシア」
 ロバート・クオック(クオック大財閥)。 ロイ・ヒャンヒョン(マーポーグループ、最大の金融会社)。
 「カンボジア」
 シアヌーク(元国王)。
 「インドネシア」
 スドノ・サリム(サリムグループ創業者)ジュハル・スタント(スドノ・サリムの片腕)。 ワヒド(元大統領)。
 「ミャンマー」
 ネウィン(ビルマ初代大統領)。
 「フィリピン」
 コラソン・アキノ(第11代大統領)。ベニグノ・アキン(第15代大統領)。
 アロヨ(前大統領一族、ロビンソンのゴコンウェイ財閥)。ドゥラルテ(現大統領、家系からみた推測)。

 *日本では女優の余貴美子さんの家系図が客家となっています。
 *以上のように、中国、台湾、東南アジアで客家系が燦然と活躍しています。
 客家世界大会がありますが、同族としてのシンパシーはあると思いますが連携はありません。かつて台湾が中華大経済圏を提唱したことがありましたが、これはかえって各国住民との軋轢を生むことになり立ち消えになりました。華僑は現実的な異邦人であり、華人と中国人とのアイデンティティーの狭間でどうバランスとって行くのかが難しいところとなっています。「屋根の上の胡弓ひき」です。

客家人

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9:9.jpg ネットで蓮舫の二重国籍問題で炎上しているので、どんなもんかいと調べてみました。
 私は彼女から受ける印象と「謝」の姓から推察して、台湾の客家人と思っていましたが、どうやら台南県籍の台湾人のようです。ジュディーオングと同じような出自となります。それならそのまま二重国籍でもよかったのに、民進党の党首選候補ということで問題になりました。政治家になったことが「やぶから蛇」のようでした。こういう人を曖昧にしたまま政治家にした民進党や日本側にも責任があります。
 客家人を調べついでに、中国の奧深さと言うか複雑なところをもう少し言及してみます。中国は漢民族が90%以上で、そのなかに約7千万人、人口比の5%ほど客家人がいます。世界の客家人口は4〜5千万人とされています。台湾では総人口約2300万人のうち客家が18%の4百万人となっています。
 客家族(Hakka、ハッカ)のルーツをたどると、周から春秋戦国時代かけて中原(黄河中流周辺)に住んでいた支配階級の末裔とされてますが、たび重なる戦乱から中原を追われて南方に移動して定住しました。彼らは漢人としての選民意識が強く、独自の文化と風習を維持し、客家語が正統な古代からの漢語であり、我らが中原文化を守ってきた正統な漢族であると自負しています。
 北方から南方に逃れて移住したことで、先住民の漢族から「よそ者」の客家人と差別されてきました。客人で土地の所有が困難であることから、先住漢族の地域から離れた、広東省の梅州、恵州、福建省の汀州、江西省のカン州などの山間部に一族単位で居住しました(写真は世界遺産の福建省の客家円楼)。
 漢族として少数派であるため、中央政権や各王朝の体制派と良好な関係を維持しようとする傾向が強く、中国共産革命にも多くの客家人が参加しました。日本も台湾統治時代には、客家人を警察官として採用し台湾人の治安にあてました。
 また東南アジアの華僑の3分の1が客家人で、中原を追われたエスニックとして「中国のユダヤ人」と比喩されています。女性が極めて強靭で、骨身によく働き一家を支えています。子供の教育に熱心で男性は学問や政治に走る傾向があります。
 そのようなことから、近代以降の中国、東南アジア、台湾から輩出した客家の人物一覧をみますと、きっと驚かれることと思います;(続)

Back to School

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IMG_3756.jpeg 当地はレイバー・デー(Labor day)の休日で長い夏休みが終ります。
 一斉にBack to Schoolで、新学期が始まります。桜は咲いていないが新入生を見るのはいいものです。(スイスのBTS,Cool ! )
IMG_3159.jpeg これで今年も第3コーナーに差しかかり、感謝祭を通りクリスマスまで一気にアクセルを噴かします。大統領選挙戦もいよいよ本番を迎えて熱を帯びてきますが、どうなることやら気乗りのしない選択となっています。
 私はアメリカ籍でないので選挙権がなくいまも客人となっています。日本は二重国籍を承認していないので二者択一ですから、私は日本国籍を保持しました。その点ではアメリカも中国、韓国、台湾は二重国籍を許容しています。それぞれお国の事情があるので、それはそれでいいと思う。でも被選挙権となると二重国籍はいただけません。二重国籍者の政治献金は違法ですので、政治には距離を置くのが客人としての礼儀かと考えます。
 さてと、9月をはじめます。

納豆の食べかた

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51z8hrJC3pL._AC_US300_QL65_.jpeg           (そして帰って来た日本納豆)
 「納豆のはなし」によると、江戸の町は納豆売りの声で目覚めたとのこと。気短な江戸っ子は、納豆売りの声を耳にすると、炊きたてのご飯を納豆で食べたいと、納豆売りを呼び止め「オウ、一つくんねえ」、辛子もかきたてで、とびきり辛いのを添えさせて、さっさっと食べ、さっと朝湯へとでかけてゆくと描写しています。
 またご丁寧に美食家の北大路魯山人翁に「納豆の食べかた」を、披露させています;「納豆を器に出して、なにも加えないで、二本の箸でよくねりまぜる。そうすると納豆の糸が多くなる。蓮から出る糸のようなものがふえてきて、かたくてねりにくくなってくる。この糸を出せば出すほど納豆は美味しく成るからである。不精しないでまた手間を惜しまず極力ねりかえすべきである。かたくねり上げたら醤油を数滴落としてまたねる。また醤油数滴を落としてねる。要するにほんの少し醤油をかけてはねる事を繰り返し、糸のすがたがなくなってどろどろになった納豆に辛子を入れてよく撹拌する。この時、好みによって薬味を少量混和すると一段と味が強くなって美味しい。納豆はこうして食べるべきものである」と、もうここまで極めますと「納豆道」になってしまう。
 さて私はというと、左手の握り箸で納豆を食べています。生来が左利きなのでナイフや金槌などの小道具は左手を使うことから、納豆をねる時にも箸を「ねり棒」の小道具にしていたようです。中学生頃になって箸を、家では左、外では右手に使い分けていたのですが、納豆だけは自然に左手で食べていました。自分でも可笑しくなるのですが「三つ子の魂百までも」で、納豆は左握り箸でないと食べられないのです。先日も久しぶりに外ではどんなものかと思いたって、ホテルニューオータニの和朝食の時に納豆を特注し試してみたのですが、気がつくといつの間にか右手から左握り箸に持ちかえていました(>_<)でも、今ではこんな幼児のような不器用な食べ方をする自分が可愛くなっています。
 過去に一度だけ家内から「左握り箸でガツガツ食べないで、もっとゆっくりちゃんと食べなさいよ」と言われたことがありました。たいした言でないのに、なぜかこの一言が私の逆鱗にふれてしまい反射的に、「うるさい!これが俺の納豆の食べかただ。小さい時からこうして食べてて、いまに始まったことでない。もう納豆を食わない!」と、箸とお碗をテープルにドンと置いて席を立ったことがありました。それ以来、我が家の卓上から納豆が消えたことがありましたが、2、3年ほどして糸に引かれて納豆がまた卓上に帰ってきました。
 我が家の「そして帰って来た日本納豆」です。
  納豆で 夫婦のなかも ねばねばと     (了)

51ZmtDjZ-HL._SX348_BO1,204,203,200_.jpeg 今は納豆のパックをスーパーで買えますが、私の成長期の頃にはまだ納豆売りがいました。
 その頃のはなしになりますが、小学校校舎の東側の長屋に茨城弁まるだしの貧相な納豆売りのお婆さんが住んでました。空襲に遭いどこからか疎開してきたテキ屋の夫婦で、お祭りや運動会の時に綿菓子を売り、普段は大きな竹網の手籠に納豆をつめて民家を一軒一を回って納豆売りをしていました。
 私の母が時折そのお婆さんの手紙を代筆してあげたり、金銭の工面を手伝ったり何かと世話をしていました。母を姐貴のように慕っていたことから納豆売りの終点が私の家となり、お茶を飲み一休みして帰宅するのが決まりコースなっていました。その時にいつも売れ残った納豆を、2包みほどを置いて行きました。
 いま思うにこの時に母がお金を払ったのかさだかでないし、お婆さんが売れ残ったと言ったのは方便で、はじめから籠の底に残しておいてくれたのだと思う。でなければいつも売れ残るわけがありません。成長期だった私の体が無意識にも納豆を必要としていましたので、時には納豆だけをそのままほぐいしていました。たぶんお婆さんはそれを察してのことだったと思います。ですから今でもその情の機微に感謝しています。また、当時の私は2人の姉を差しおいて納豆を独占していました。姉たちがいまになっても納豆を敬遠するのは、たぶん私に譲っていたトラウマかと思う。
 人はけって一人で大きくなったわけでなく、必要な時に必要な人に巡り逢い助けられて成長して行くものです。納豆売りのお婆さんや姉たちは、私の体に栄養だけでなく、心の栄養もくださいました。 
 納豆に 添えた辛子が 鼻をつく       (続)

納豆のはなし

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IMG_3753.jpeg 9月は納豆のはなしから始めます。
 昔はお盆過ぎから冬場が納豆の旬だったそうです。先日のこと茨城県水戸市に近いプラスチック加工の工場を視察に行ったついでに「納豆のはなし」ー文豪も愛した納豆と日本人の暮らしー(石塚修著)を買い求めてみました。あまたな文学作品に中から納豆だけを抽出して一冊に本にする奇特な学者に感心してしまう。
 この他にも私の知る範囲で、納豆を雲南省の源流に迫った「謎のアジア納豆」ーそして帰ってきた日本の納豆ー(高野秀行著)、水田稲作地帯から「ナットウとミソのきた道」(中尾佐助著)と、「納豆の起源」(横山智著)、「アフリカにも納豆」(原敏夫著)、黄砂に乗ってきた「空飛ぶ納豆菌」(岩坂泰信著)、「納豆バカ世界に挑む」(雲田康夫著)等が刊行されています。
 たかが庶民の納豆になんとも物好きな人たちがいるもので、さすが納豆は粘って糸を引くようです。こうした著書が出版されるのは平和で豊かな文化力でして、またこれらを買う物好きな読者が豊かな文化を支えているのでしょう。
 そういう私も納豆には特別な思い入れがあります。
 私が「三歩あるくと腹が減る」成長期だった頃の食卓はお粗末そのものでした。卵と冷凍の魚と野菜が主で、肉など月に数切れだったと記憶しています。ですから私の身体が無意識にも貪るように納豆を食べていました。ほぼ毎日ヘギ板に三角に包まった納豆(下仁田丸茂納豆、今のパック入りの3倍の量)を、2包ほど食べていました。時にはご飯なしで醤油もかけずにそのままモリモリ食べていました。実によく食べました。私の骨格と皮膚は納豆によって造られたと思っているくらいです。
 そして今でも週末以外の毎朝、日系スーパーで購入したパック入り納豆を食べています。最近は玄米ご飯になりその上に納豆をかけて食べるのに違和感がありましたが、慣れてしまえばこれはこれで気にならなくなりました。
 出張の折りに成田空港内の食品店から名産納豆を持ち帰ることもあります。以前、店主に「これをニューヨクに持ち帰っても大丈夫ですか」と聞いたことがありました。店主は即「大丈夫です。もともと腐らせてますので、、、」と返してきました。一瞬、私はなんてヤボなことを聞いてしまったのか、店主は店主で客に腐ったものを売っている、、、双方が暗黙の了解のうちにも気まずい空気が流れたことがありました。
  たかが豆 されど納豆は 糸を引く          (続) 

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