やさしい空気(ブータン1)

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DSCN2541.JPG(パロ空港のターミナル)
 7月11日、午前10時15分にブータン唯一のパロ空港に着陸。 タラップを降りて2300メートルの高地に第一歩を踏みしめる。

 頭上近くに青い空、まわりは緑の山々、ブータン様式のターミナル、心地よい風、澄んだやさしい空気が、私を迎えてくれた。今までに感じたこことのない、やさしい空気、これがブータンなのだと実感。
 ブータンの旅は「行く」のでなく「呼ばれる」と言うらしいが、私はブータンに呼ばれたようだ。

 ブータンは、世界各国が追い求めている経済指数で国のレベルを測る「国民総生産量」GDPGross Domestic Product)を、基準としないで、「国民総幸福量」GNHGross National Happiness)という幸福指数を、国家の方針にしたユニークな小国です。
 これまでに私が遍歴した世界各国のすべては、近代化の名のもとに経済成長を目標にして、先進国に「追いつき追い越せ」の一直線上に在りました。経済が成長すれば、国は繁栄し、国民も幸福になると信じてきたわけで、日本はその線上で優等生になっています。
 ですから、この経済成長という進歩の物差しを持参して世界の国々を旅行すれば、その国のおかれている位置が測れ、「この道はいつか来た道」、だいたいの事柄が想定内でして、何を見ても驚かなくなっています。この物差しは海外旅行用にとても便利なものです。
 しかし、ブータンはこの物差しに疑問を投げかけています。GDPは物質文化の指数であり経済発展が必ずしも国民の幸福の指標にはならない。ブータンはGNHという目に見えない精神文化の指標を追い求めると発信しています。
 日本は経済発展に行き詰まり、政治も混乱を極め、社会閉塞の中でここ数十年ほぼ毎年3万人を越える自殺者をだしています。そこに追い打ちをかけるかの様に東日本大震災が襲いかかりました。日本はこれから先、何を心の寄りどころに活きて行けばよいのかが緊急課題になっています。経済成長が国民の幸福と直結しないという、秘境ブータンからの発信を受け、ではいったい「幸福とはなにか」、これが私のブータン行きの大きなテーマでした。

 私は先ずこの近代化という手持ちの物差しで、ブータンを見て行くことにしました。それは明治初期に西洋人が見た日本への視線です。近代化の過程で日本が失った「逝きし世の面影」(渡辺京二著)を、ブータンに見たく思いました。そして訪問する前からいくつかの感想を用意していました。
 「国は貧しい。しかし幸せそうだ」、「人びとは幸福で満足そう」、「貧乏人は存在するが、貧困は存在しない」、「金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。ほんもの平等精神、われわれはみな同じ人間だと心底から信じる心が、社会の隅々まで浸透している」、「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ」、「かつて人の手によって乱されたことなない天外の美」、「新しい時代が始まる。あえて問う。それが真の幸福となるのだろうか」、さらにフランス印象派の画家ゴッホの「みずから花のように自然の中に生きている。こんな素朴な精神がわれわれに教えるものこそ、真の宗教ではないだろうか」等々、、
 こうした西洋人が見た明治初期の日本への感想を、そのままブータンに用意していました。しかし、秘境ブータン王国に、私が用意していたこれらの感想をはるかに越えた衝撃を受けました。それはカルチャー・ショックを越えた、生体系を揺さぶるファンダメンタル・ショックと言ったものでした。
 これまで感じたことのない、慈しみの「やさしい空気」が、かえって私に衝撃を与えたわけです。ブータン滞在2日目から「幸福」という単語が色あせて、バター臭くなってきました。「幸福」の語彙はキリスト教の聖書によくでてきますが、仏教用語には無いのではないか、GNH(国民総幸福量)の概念もまた近代の物差しではないかという思いが、ふつふつと湧き上がってきました。    (続)

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このページは、管理者が2011年7月26日 11:43に書いた記事です。

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