ブータン補記1

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 今となっては無いものねだりになのですが、司馬遼太郎氏にブータン街道を歩いてもらいたかった。司馬さんは中国の西域まで行ってますが、ヒマラヤ山麓を歩かずに逝ってしまった。なんとしても惜しいことをしました。
 もし、司馬さんがブータン行かれたとしたら、通訳兼案内役として、今枝由郎氏にお願いしたかと思います。今枝氏の「ブータンに魅せられて」(岩波新書)は、司馬思考に近づいています。いや司馬さんはこの本を読んで、ブータン行きを決行したかも知れません。無いものねだりです。
 私のブログで「国民総幸福量」にこう書きました;
幸福量とは政治思想の方便であっても、仏教思想の方便ではないわけです。ここに仏教王国ブータンのジレンマと落とし穴があるかと思います。(中略) ブータンから学ぶ精神は、世俗で言い古された「幸福」などという薄っぺらな軽いものでなく、もっともっと奥深いものだと思います。本来のブータンは「ハピネス」という概念とは違った境地に在るのですが、世界に向けて 「ハピネス」という、借り物の概念をもってしか自国の精神を語れないところに、ブータンのジレンマがあります。これではブータンが可哀想になってきます。では、如何なる言葉でそれを表現したらよいのか、私はブータンの旅を続けながら、そして今も旅の余韻の中でその言葉を、ず〜とさがし続けているのですが、いまだに良い表現が見つからずにいます。』

 「幸福」に代わるよい表現をさがすために、ブータンのDVDを見たり、関連本を読みあさってみました。ブータンに10年間生活した今枝氏もやはり同じことを考えられていたようで、「ブータンの国語であるゾンカ語には、国民総幸福量(GHN)に相当する言葉はあるにはあるが、それはGNHの訳語であり、どこか仰々しくてぎこちないので、日常会話ではほとんど用いられていない」と、書いていました。第四代国王自身も「わたしが提唱したことになっているこの標語が、いろいろな方面から注目されているのは嬉しいが、独り歩きしている感じもする」「私の意図したことは、むしろ『充足』である。自分の人生に充足感(満たされる)を持つことである」、国民が「喜び、幸せ」であることが大切と、述べられています。

 私はやはりそうかと納得しました。
 ブータンの人は「輪廻転生」を素朴に信じ、「業」と「善因善果、悪因悪果」と「不殺生」のなかで、喜びと幸せに満たされて過ごしています。そこに「幸福」とい概念はありません。
 水の中の魚が水の存在を意識しないように、空気の中で人間が活きていても空気を意識しないように、仏教の幸福のなかで満たされているブータン人はそれを意識していません。真の幸福とはそんなものかと思います。
 であったら「国民総幸福量」を、政治用語として表現すれば、ブータン仏教ヒューマニズムを基盤にした「国民総充足量」になるかと思う。「国民総生産量」に比べると、政治的には無力なものですが、精神文化的には凛々とした問いかけになっています。
 しかし、この桃源郷からの問いかけにも、四面楚歌の荒波が押し寄せています。すべては廻り悠久に安泰などありません。 (続)
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このページは、三休が2011年8月14日 23:53に書いた記事です。

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