ごきげんよう、さようなら

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IMG_0435.jpeg 今年の好感度1位の言葉は「アナと雪の女王」の「ありのままで」、第2位は「花子とアン」の「ごきげんよう、さようなら」とのこと、二つとも私の好きな言葉でした。
 元気ブログは湿った話しは書かないよう心がけていますが、今日はそれに反して先日4件の法事のお話しです。
 四十九日の法要、仏界では「満中陰」と称し、死後の六道世界のどこに行くかを裁定する期日となり、お仏壇にまだ涙の湿気と故人のぬくもりが残っていました。霊前にお焼香し、やすらかに成仏なさることを祈り、お世話になった人が逝かれたことを受け入れる儀礼になりました。
 百日の法要、仏界では「卒哭忌」と称するようですが、私はこの仏語を初めて知りました。いつまでも嘆き悲しみ哭いていないで、そろそろ哭くのを卒業し、現実の生活に戻りなさいう仏の智慧に納得。ちょうどこの日にお焼香をあげ「卒哭忌」をしてきました。
 七回忌、故人が逝かれて6年目の追善供養が2件ありまして、ともに私の親しい友人でした。1件は40歳で逝かれた上海人の供養。親族に七回忌の旨を説明し、次は十三回忌なるがその供養は親族にお任せし、これが私の最後の供養になることを告げてお別れしてきました。中国では清明節と冬至が法要の日となりますが、親族と「ごきげんよう、さようなら」でした。
 もう一つの七回忌は追善というより鎮魂に近い供養でした。ある傷害事件で34歳の若さで逝かれた友人でして、誰も法要をしてあげないだろうと思い、私の呼びかけで故人と特に親しかった友人を三回忌の時と同じ料理店に招いて会食しました。もうかつての衝撃と興奮と涙は風化してまして、故人を偲びながら笑い話に終始しました(それでいい)。ここでもこれが最後の法事で十三回忌はやらないことを告げたら、6年後にも集まろうということでしたが、誰もが「ごきげんよう、さようなら」の思いでいたようでした。
 料理店に予約いれた時、会食の主旨に「法事」としておきましたら、我々の笑い話を背にした小さな床の間に、さりげなく「はなに嵐」のお軸が掛けてありました。漢詩「勧酒」を、井伏鱒二が和訳した名作で、心憎いおもてなしです;
   この盃を受けてくれ
   どうぞなみなみ注がせてくれ
   花に嵐のたとえもあるぞ
   「さよなら」だけだが人生だ
 
 今回の法事はこのお軸に象徴されていました。「人生一生、酒一升、あるかと思えばもう空か」。では、ごきげんよう、さようなら。

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このページは、三休が2014年12月16日 01:58に書いた記事です。

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