哀悼・小野田寛郎

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 lif14011712130011-p4.jpg 大東亜戦争最後の日本兵、小野田寛郎元陸軍少尉が1月16日に都内の病院で亡くなりました(享年91歳)。
 大東亜戦争中フィリピン・ルパング島に敵情勢の探索として派兵され終戦を知らずに29年間ジャングルに潜伏して戦い続けました。小野田少尉にとり戦争は終わらず最後まで軍人としての筋を通し、1974年3月に当地で軍部からの任務解除令を、軍服と敬礼で迎えて武装解除しました。上の写真、手前が軍刀で小銃、拳銃ともに武器として充分使用可能に手入れされていました。政府からの見舞金と全国から寄せられた義援金の全てを靖国神社に寄付しています。実に見事な軍人でした。
 私は不思議と小野田さんとご縁がありました。任務解除でルパング島へ迎えに行った末次一郎が私の先生でした。小野田さんがまだわずかな物音で飛び起きてしまう間は末次事務所に寄宿していまして、同年5月に私が急用のため台湾から事務所に時間外の電話した時に間を置かずに出たのが、小野田さんでした。末次先生への伝言をお願いしたのですが受話器の向こうからいきなり「はい、小野田です」と出た時には驚きました。
 その後、戦後の変貌した日本社会に馴染めず1975年にブラジルに移住して行きました。産経のインタビューで「
ブラジルで牧場が軌道に乗るまで10年かかったが、ルバング島での苦労を思えば全く苦ではなかった密林暮らしが長かったので暑い方が好き」と語っています。
 1990年の第41回NHK紅白歌合戦で橋幸夫とマルシアがブラジルから衛星中継した時、私の依頼で小野田夫婦を貴賓席に招きサンパウロから元気な映像を日本へ送りました。小野田さんの澄みきった瞳が強烈な印象として残りました。
 その後ご無沙汰でしたが、2001年7月、末次先生の臨終の枕元で再会しました。やはり小野田さんは戦友の枕元に駆けつけていました。この時も目に潤みがあったためか、この人は義眼かと思えるほどに澄んだ瞳でした。
 その小野田さんが逝かれました。晩年「人に迷惑をかけず家族の手を握って死ぬのが理想。幼なじみに最期に会えるから日本で死にたい」と、話していたといいます。
 
大東亜戦争最後の日本兵、小野田陸軍少尉は靖国に帰霊しました。
     謹んで哀悼の意を表します。    敬礼

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このページは、三休が2014年1月18日 04:16に書いた記事です。

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