アナデジ・ライフ

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IMG_1131.jpeg             (日本庭園の池で游ぶ黄金の鯉) 
 「アナデジ」というアナログとデジタルを合わせた造語があります。
 具体例として腕時計ですが、表面は長短針と秒針で進むアナログで、中味はクオーツのデジタルになっています。デジタルの数字表示だけでは味気がないのでしょう。面白いことは、アナログ人間に「いま何時ですか」とたずねると、だいたいが「6時半」「7時10分前」と視覚的に返ってきまして、デジタルな人間は「6時30分」「6時50分」と正確な数字で返ってきます。その腕時計も今ではスマホに代替えされてきています。

 ドイツ人のきれい好きは定評でして、私もこれまでに何度か民宿しましたが、どこの家の棚も人差し指でなぞってもホコリひとつかない潔癖さでした。この徹底ぶりにかつてドイツ民族の純化運動が連想され恐いくらいでした。3泊ほどの民宿でしたが部屋が潔癖すぎどうにも落ち着きませんでした。「水清ければ魚棲まず」とはよく言ったものです。
 こんまりさんはまだ若いからこの潔癖さに耐えられると思いますが、齢を重ねると部屋にも遊びが必要になってくるかと思います。千利休が若い弟子に庭の掃除を命じて、利休が行ってみると庭苑はきれいに掃き清められていました。そこで利休は庭の木をゆすって何枚かの葉を落とすと、掃き清められた庭は落ち葉が数枚散ることで自然の風情を深められました。利休は造園の心得をたずねられ、「とにかくあまり綺麗すぎるのはよくない」と答え、「それではむさくるしいのがいいのか」との反問に、「綺麗すぎるのがよくないのに、どうしてむさくるしいのがいいのか」と答えています。
 さらに、日本文化はこんまりさんのように、極度の入念さが表面にあらわれることを、未熟としてきました。極度の入念をこめてやりながらも、「大功は拙なるが如し」で、仕上がりはなにも手を加えなかったように「法爾自然」ひとりでにできたかのような「如拙」を尊びました。これは「日本文化の美のかたち」であり、片づけの極意かと思います。雅とさびの茶室はそれを象徴しています。こんまりの天才性もじきその境地にたどり着くことかと思います。
 人間はすでにアナログの社会環境だけで活て行けなくなっています。さりとてデジタルな環境だけでも息づまり酸欠してしまう。やはり両方を統合したアナデジ・ライフが必要になっています。そこに21世紀における日本文化の普遍性、世界化が待たれています。
 こんまりの「人生を変える片づけ魔法」は、その第一歩を示唆したものと言えます。(参照「日本文化のかたち」野島芳明著)

 さてと講釈はほどほどにして、書類の片づけに入るとします。

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このページは、三休が2015年7月26日 08:30に書いた記事です。

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