陸軍中野学校終焉之地

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IMG_9667.jpg 昨日のハンドボール高校インターハイ予選会場は、私の母校でした。
 私の高校の頃はハンドボールとバスケットは強豪でした。私はバスケット部に所属し学業でなくバスケの卒業生でした。
 体育館に隣接して旧七日市藩邸の正面玄関あり、試合のハーフタイムに槻木の茂る庭を懐かしく散策してきました。
 藩邸の庭はよく整理されていて池には錦鯉が泳いでいました。ふと見ると槻木の下に人知れず静かに「陸軍中野学校終焉之地」の碑が佇んでいました。
 中野学校は秘密戦、ゲリラ戦、破壊工作の訓練を目的に設置され、終戦近く疎開してこの地にやって来ました。
 戦陣訓は「たとえ国賊の汚名を着ても、どんな生き恥を晒してでも生き延びよ」「できる限り生きて任務を遂行するのが中野魂である」という教えでした。
 この戦陣訓がなければ、終戦後にフリピンのルパング島で29年も戦い続けた小野田寛郎情報将校が理解できません。また、戦後の引き上げ軍人の世話をし、沖縄領土返還のために奔走した末次一郎氏も中野学校の卒業でした。この時になぜ「中野学校終焉之地」として注目されなかったかと非常残念に思いました。
 私はこの地のご縁なのか両氏にお会いでき、お世話になりました。小野田氏とは東京とブラジルでもお会いしています。小野田氏は義眼かと思えるほど実に澄み切った瞳に強い印象を受けました。
 末次一郎氏の逝去を知り駆けつけましたら、寝床に横になり永眠している向こう側に小野田氏がいました。中野学校の終焉を見た思いでした。
 「陸軍中野学校終焉之地」の碑に合掌して来ました。ありがとう。

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このページは、三休が2025年6月16日 10:48に書いた記事です。

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